復讐するは我にあり について考えてみた。

復讐するは我にあり

これは、新約聖書の中にある「ローマ人への手紙第12章第19節」に書かれている言葉だ。
日本では、かつて同名の小説(とその映画化作品)が大ヒットしたこともあり、よく知られている。

ただし、意味を正しく理解している人は案外少ない。
現代語風に直訳すれば「復讐するのは私だ」となるが、この「私」とは、恨みを持っている人ではなく、神のことである。

つまり、「復讐するのは神である私だ。あなたは仕返しをしてはいけない」という意味。言い換えれば、何か酷い仕打ちを受けても、やり返してはいけない。神である私がやり返すから。ということだ。
「やられたらやり返す… 倍返しだ!」とは真逆の思想である( ˘ω˘ )


僕はこの、「復讐するは我にあり」を信じている。キリスト教に限らず、宗教心自体無いに等しいが、これは固く信じている。
というのも、僕の周りで、人に嫌がらせをしたり、悪口陰口を率先して言っていたりしていた人は、ことごとく不幸な目に遭っているからだ。

息をするように人に嫌がらせをしてきたとある女性は今も元気に長生きしているが、彼女は友人がおらず、家族から見放され、一人ぼっちで寂しい生活をしている。元気ではあるが、果たして幸福だろうか…?

やはり、昔から人に嫌がらせをしてきたり、自分勝手にやりたい放題生きてきたりした人というのは、その後なんらかの不幸な目に遭うのだと考えざるを得ない。

もちろん、世界中見渡しても、生涯不幸な目に遭わない人などほとんどいない。ただ、上に挙げたような人たちは、不幸の度合いが重く、長く、普通なら味わわなくて良いような試練に晒されているように思える。

これは、ある程度理屈で説明できると思う。

すなわち、人に嫌がらせをしてきた、人の気持ちを考えずに好き勝手生きてきた、人の悪口や陰口ばかり言ってきた、という人は、畢竟、人から好かれないのだ。
好いてくれる人もいるだろうが、似たような人たちばかりだろう。類は友を呼ぶってやつだ。

すなわち、上記のような事ばかりしてきた人というのは、善良な人が周りから消え、上記のような事ばかりしてきた人ばかりが周りに集まる。

果たしてこれで幸せになれるだろうか? ネガティブで、人の悪口等の暗い事ばかり考え、人に迷惑をかけてもなんとも思わない人たちに囲まれて、幸せになれるだろうか?

もしかしたら、何か奇跡があるか、よほどな人たらしであるかして、周りに善良な人が集まるクズもいるかもしれない。そういう人は幸せなことがある。これは理屈では捉えられない。もしかしたらこういう人間が社会の上層部にはうじゃうじゃいるのかもしれない。

ただ、彼らもいずれ、必ず神に復讐されると思っている。

お金に余裕のある方はもし良かったら。本の購入に充てます。