while F :/ここに名前を入力.〉。

 これまでに人を殺したことがない僕は、決して人を殺そうと思ったことがないわけではなく、高校生の頃はいつも誰かしらに殺意の矛先を向けていたようなそうでもないようなことを、高校の同窓会の便りを見て思い出した僕は、それと同時に手書きで描かれた同窓会の名簿に林という聞き覚えのない名前を見つけたのだった。僕はそれが気になって、その高校の同級生で、今でも親交のある河村に電話をかける中、こんな夜分には迷惑かと心中で踵を返すことになってしまっている。
「もしもし河村」
「もしもし、どうした?」
 それだけの会話で暇だったのだな、と判断できるほどに河村はとてもわかりやすい声色を持つ男で、河村の場合それはタクシー運転手という職業に支障をきたすことになるのかならないのか、ということを以前河村に聞いたときには、別に客とそんな喋ることはないから、相手は芸能人でもあるまいし、と言っていた。
「同窓会のほら、高校のさ、やつが来てただろ。その名簿に林って名前があってさ、どうもそれが誰のことだかわかんないんだよな」
 河村も含め、同窓会の名簿には昼休みになったらまっさきに廊下へ駆け出していく元気な男から、教室の片隅で本を読んでいるような控えめの女まで様々な顔ぶれが揃っていて、当時僕たちのクラスがC組だったことのみならず、教室の隅を生業とする女子ですらも苗字では記憶しているのにもかかわらず、僕は林という名前だけに強い違和感を抱いたのだった。
「実は俺も、それ思ってたんだよ。林って誰だっけって」
 まるで今、これまで到達不可能であった真実に辿り着いたように、河村の声色は神妙なものに変わった。僕も河村も、林という男を知らないのだ。僕や河村が知らないだけで、C組には不登校がいただろうか、いやそれはありえない。あの真面目な藤崎先生が朝礼で確実にいない人間であっても出欠を確認しないなんてことはまずなく、第一僕の教室に空いた席などなかったことも思い出し、僕のあさはかな推論は藤崎先生の鋭い声とともに潰えたのだった。
「河村にもわからないか。まだ河村以外に連絡は取っていないけど、なんとなく答えは想像できるよ」
「結局は俺も、お前以外に似たような質問されたんだ。藤井とか加賀とか。他にもいたかな、とにかくみんな揃って林のことを聞いてきた」
 河村の言った「結局は俺も」の意味が分からなかったことは忘れて、そう言えばこの招待状を送ってきたのは誰なのかということを考えると、それがどうも林に繋がるような気がしてならなかった僕は河村に尋ねる。
「この招待状を出してきたのは誰なんだ?」
「送り主は書いてなかったけど、多分この字は黒川だろうな。黒川は今も昔も顔が広いから、C組のやつなら今でもほぼ全員揃えられるんじゃないか」
 僕はテーブルに置いていた招待状の名簿を再度確認すると、ボールペンで丁寧に描かれたその字が黒川のものだとようやく解った。
「黒川が?」
「詳しいことはわからん。ただ、黒川が林と関わってるってことは間違いないな」
「わかった、とりあえず今日のとこは切るぞ。林のことなんかわかったら電話してくれ」
 河村はおう、とだけ言って電話を切った。招待者がフルネームで記されていて、それが五十音順にぴったりと並んでいる名簿をじっくり見ると、所々抜けている名前があることに気付く。例えば加納、洲崎、宮沢、矢野などの名前がない。それは性別も性格も、当時クラスの中で属していたグループもばらばらな人たちで、僕はそれに何か意味があるのか考えてみたが、まったく分からなかったのでやめた。林の名前は野澤と秦野という、いずれも女子の名前の間に挟まれていた。野澤は決して地味だった訳ではないが、好むものがこれといって、いや全くと言っていい程には無くて、僕や河村も、そのせいで会話に少し困ることがあったような記憶がある。秦野は男子や女子からも可愛いとよく言われていて、少し古めかしい俗称を与えるのだとしたらクラスのマドンナだった。化粧が薄く、それなのに透明感のある彼女の容姿に女子は羨望の眼差を向けていたけれど、おおかた僕の予想に反して嫉妬の眼を向けられることはなかった。誰とでも無難に接していて、僕もたまに彼女と話すことがあった。
 そんな既視感にありふれた二人のイメージを想起させる名前の中に、林という、僕にとって異物感たっぷりな名前が影を差す。これまでに林という苗字の人間と出会った気がしない。少し前に見た刑事ドラマに出ていた俳優の役の名前が林だったという事ぐらいしか僕と林という名前の接点はなく、だからこそ僕は林という、名前以外に存在しているのかしていないのかがわからない、極めてあやふやな存在である林凌介という男の正体を確かめたくなったのかもしれない。


 僕は社会人になってからというもの、学生時代の趣味を段々と削ぎ落とさなければならないという事になっていったが、その替わりに新しく趣味ができるという訳でも、道端で不意に趣味が見つかるという訳でもなく、ただただ生活の色が薄くなっていくばかりだという現実に僕は対抗すべく、連絡先ごとに携帯のメッセージや着信の通知音をカスタマイズするという妙な趣味を作り出した。例えば、河村の着信音にはこれといったイメージとの紐づけもなく、なんとなくでポルノグラフィティの「ミュージック・アワー」を採用している。これはなにも河村だけに限った事ではなく、友達や職場の人間にも共通して、大体の人の通知音は適当になんとなくで決められてしまって、それで僕は満足してしまうのだ。
 昨晩河村と電話してから、僕は高校の卒業アルバムを見た。服の袖で埃を払い、生徒の名前が顔写真付きで掲載されるページを見つけて、僕は林の名前を探した。A組にもB組にもC組にもD組にE組にも、どこにも林凌介の名前は無かった。一応教師の欄も隈なく見る、しかし林の名前などどこにも見当たらない。これは単なる黒川のミスではないのかと僕は勝手に自己解決しそうになるが、やはり存在しない人間の名前を間違えて書くなんて事はありえないだろうと思った。林の正体を知っているであろう黒川に電話をかけようと思ったのは既に日付が変わった夜のことで、事実僕の瞼は睡眠を主張するように重く、ひとまずは林のことを諦めて眠りについたのだった。
 僕が目を覚ましたのは携帯の着信音で、慌てた僕は時計を見ることもなく通話のボタンを押す。
「もしもし」
「もしもし。朝早くで悪いけど、ちょっと話を聞いてくれないか」
 僕が瞼を開く前から聞こえていたメロディーが反復的に蘇り、確かにそれは「ミュージック・アワー」だったかもしれないと思いながらうんと二つ返事を返す僕の脳髄は、とても起きがけとは思えないほどの冷静さで意識の靄を打ち払っていた事に驚く。
「今週土曜、会えるか?」
 河村が唐突な事を言ったので、僕は連続的にまた驚いた。その驚きとワンテンポ遅れて、頭の中にしまってある筈の漠然としたスケジュール表の土曜日の項目を意識的にチェックする。はじめはまったくの空白だったカレンダーには、何かを思い出すようにぽつり、ぽつり、またぽつりとまるで以前から、空白の状態の時からも、そこに書いてあったように予定の数々が忽然と浮かび上がり、それと同時進行で土曜日にサーチエンジンを重点的に働かせる。僕の頭はなんて複雑な動作をこなしているんだ、と僕は人体の神秘に感動したが、それと同時にコーヒー代を支払って受け取ったコーヒーを不注意によってこぼしてしまうというダメな自分の姿がなぜか鮮烈に浮かび上がり、その姿を意識で追っているうちに土曜日の予定という予定がないという事を自分の中で突き止めた。僕は上体を起こしてスケジュール帳を開くこともなく、
「いいよ」
と自信の程を込めた声で言う僕は、既に布団を退けて立ち上がっていた。


 昔から僕は結構な方向音痴で、河村の指定した喫茶店は僕の生活範囲から外れた場所にあるということで、その喫茶店の場所を覚えるために僕は仕事を定時で切り上げた後、いつも利用する駅へと向かう。ここまではいつも通りの僕の平日、いつも通りの午後六時だ。
 この駅は僕の住むM町の主幹となる駅で、M市にある駅の中でも最大級の大きさを誇る。今回河村の指定した喫茶店は隣のF町にある。僕はF町に行くことが本当になかった。小学校も、中学校も、高校も、大学も、社会人になってからも、僕はたいていはM町か、もしくはK町で日常生活を送っていたから、F町に行ったことは一回か二回の小旅行の時しかない。
 指定された喫茶店は「ペントハウス」という名前らしく、その場所の在るところはビルのテナントの最上階で、その地味さ故に隠れ家的スポットとなっていると河村は言っていた。最寄りの駅はF町の臨海地域で、車内から蒼鬱色の海がオレンジ色の夕陽に反射して、弓形に光って見えていた。駅の改札を通り抜け、そういえばいつから僕は切符でなくICカードで電車に乗るようになったのだろうか、大学の頃か? 就活生の頃か? 少なくとも僕は高校生までは切符を買って電車に乗っていた。いや、それももしかしたら違うかもしれない。同じ高校に通っていたはずの林は電車に乗って学校に来ていたのか、いやいや学校で林の姿など見たことはなかったはずだ。顔も思い出せない。本当に、林という学生は僕の通う高校にいたのだろうか。記憶の中の藤崎先生を信用していいものなのだろうか、そう考えているうちにいろいろわからなくなり、面倒になって考えるのをやめる。
 駅のホームの赤い自動販売機で買った五百ミリリットル入りのアップルティーを飲みながら、僕はビルの林立する通りを歩き、ペントハウスのあるビルを探す。そこで僕はタバコの吸い殻を踏んだ。この街は治安が悪いのだろうか。僕が高校生の頃は、どこの路地にもタバコの吸い殻のひとつやふたつは落ちていたものだと考えると、今は随分と街が綺麗なものになったと感じる。僕の住む街は少なくともそうだった。しかし、この街にはまだ、僕が高校生だったあの時の面影がある、少なくとも僕はそう感じる。アップルティーはあまり褒められた味ではないので、ひとまずリュックサックに押し込んだ。
 夕方の街はまるで迷路のようだった。いや、見知らぬ街はいつだって迷路だ。ビル街を抜けるとそこは住宅街の入り組んだ路地で、車一台分ほどの道幅に、グレーの住宅群やアパートがずらりと立ち並び、街は不思議な奥行きを帯びる。道端の金属製のグレーチングの上には、茶色の色素が不定形の紋模様をなす木の葉が舞い落ちている。それはまるで木の葉が焼け焦げた痕のように見え、ついつい足を止めてそれをじっと見そうになるが、僕は慌ててペントハウスという単語を思い出し、緩みかけた足並みを正して歩く。
 路地の角を二回ほど曲がると、路地の光が一気に弱まるのがわかった。そして、駅のホームでも見た赤い自動販売機が目の前に現れた。微妙な味のアップルティーが小さなサイズでも売られている。隣接されたゴミ箱の穴からは缶やペットボトルが溢れ、歩道の縁石にまで缶のゴミが散乱している。この辺りは治安が悪そうだった。これまでの街の眩しさの影の部分だけを切り取って集めたような、蔭の溜まり場。影が冷気となって、狭くなったコンクリート壁や舗装の行き届いていない地面を伝って、僕の背中を撫ぜた。携帯を見ると、午後七時に差し掛かろうとしていた。オートバイが走り去る音が遠くで聞こえ、僕は微弱な寂寥感を感じる。
 また路地を一つ曲がる。路地を曲がるたびに道幅が狭くなっていくように思え、最初は両手を広げても余りあった広い道路が、いまや両手がやっと収まる程度の路地裏になる。影の細道に僕は立っている。
 細い路地を抜けると、常夜灯の本数が一気に増えた。道路灯の二本に一本はパイナップル色の光を放っている。車の往来が激しい。いったい、ペントハウスはどこにあるのだろうか。僕は迷ってしまったらしい。ペントハウスを探し求める気持ちと、林の正体を知りたいという気持ちは似ているように思えた。
 ペントハウスを探して歩いているうちに、僕は歩き疲れてしまった。二回ほど十字路を曲がった先に見つけた、団地の敷地内にある小さな公園で足を休めることにした。携帯を見ると、もう午後の八時だ。もう二時間近く僕はこの街を彷徨っているのかと思うと、なんだか寒気がしてきた。アップルティーを飲む。疲れていたからか、最初飲んだ時よりも美味しく感じられた。鉄製のベンチに座り、考えもなしにリュックサックの底を漁ると、いつのものか分からない個包装の飴が出てきたので、それを口に入れる。飴というものは、あらかじめ味を伝えられていないと、口に入れても何味なのかさっぱりわからない。公園には自転車が二台置いてあるが、人は僕以外には誰もいない。
 しばらく座っていると、足の徒労感がひいてきたので立ち上がる。飴のゴミを公園のゴミ箱に捨てる。口の中にはまだ飴がある。なにかを口に入れると、張り詰められていた糸が解れるように空腹感が溢れる。そういえば、家の冷蔵庫には今日までに食べないといけないバラ切りの豚肉があったはずで、しかし僕は一刻も早くなにかを食べたくて堪らなかった。何しろ時刻はもう八時を回っている。
 ひとまず、今日はペントハウスの事を諦めて、さっき来た道を戻ることにしたが、僕がどの道からやってきたのか、十字路に差し掛かった時点でわからなくなってしまった。どの道も同じような道路灯や建築物が並び立っているせいで、やってきた道を判別することができない。直感で十字路を左に曲がる。すると、自転車に乗った若い男が向こうから物凄いスピードでやってきて、物凄いスピードで過ぎ去っていった。それを見て、僕も急がなければならないような気がして、気持ちだけが早歩きになる。一刻も早く、飲食店か駅を見つけなければならない。
 十字路をいくつか曲がり続けると、明らかに見覚えのない、しかし明かりも人通りもそれなりに多いビル街に出た。路地を抜けてすぐ右手にコンビニがあったので、吸い込まれるようにして入る。リュックの中のアップルティーはまだ四割ほど余っているので、飲み物は必要ない。おかずと弁当の置いてある棚まで一直線に向かう。横切ったレジ横の揚げ物コーナーは、どのコンビニでも今まで一度も利用したことがないが、お腹が減っている今はなかなか美味しそうに見える。
 ツナマヨのおにぎりと、ハムサンドを買ってコンビニを出る。おかずやおにぎりの置いてある棚をぼうっと見ていると、二つの商品の合計がちょうど四百円になることに気づき、なんとなくの勢いでそれを買ったのだ。
 おにぎりとハムサンドを歩きながら平らげた僕は案外それで満足してしまい、飲食店を見つけるために歩くことをやめた。なにかを食べながら街を歩くという行為は意外と恥ずかしい。歩く先に黄緑色の歩道橋があるが、ところどころ赤錆びてしまっている。歩道橋の上には誰一人としていない。歩道橋のすぐ前には横断歩道があるから、わざわざ階段を登って歩道橋を使う必要はない。あるとしたら、この果ての見えない灰色の砂漠で、ただひとりでいられる場所であることぐらいだろうか。
 駅を探してしばらく歩くが、駅どころか電車の線路すらも見当たらない。ここは一体どこなのだろうか。一瞬地図アプリを使うことを考えるが、それに頼ることは即ち、ペントハウスを見つけ出すという目標にも、駅を見つけ出すという目標にも諦念し、自身に多大な屈辱感をもたらす行為であると僕は思い、ポケットに伸ばしかけた右手を腰に当てる。左利きの人は、左ポケットに携帯を入れているのだろうか。想像してみても、左利きという境遇の感覚は理解できない。コンビニの袋をリュックサックに入れてから、歩くとたまにクシャ、という小気味のよい音が鳴る。
 しばらく歩くと、商店街ではないがこの街の店通りと思われる区間に出た。十字路を抜けてから目にしていなかった、パイナップル色の道路灯がまた現れる。もう時刻は八時半で、個人経営らしき店のほとんどは既に閉まっていた。住宅と店舗を兼ねている建物もいくつかあり、そういった店は概ねこの時間には店を閉めている。
「林!」
 僕は思わず、きわめて大きな声を出してしまった。幸い、あたりに僕以外の人間はいなかった。正確に言うと、それは林本人ではなく林のポスターで、そのポスターに映る人物も林ではなく、以前僕が刑事ドラマで見た、林という刑事の役を演じていた俳優である。ポスターには「北海道への誘い」と書いてある。旅行会社のポスターだ。そこで僕ははじめて、刑事ドラマの林の本当の名前が町山一だということを知った。僕が探している人間は町山一ではなく、林凌介だ。であるのにも関わらず、「林!」などという馬鹿げたことを言わしめたこのポスターが無意味に憎たらしくなり、今すぐ破り捨ててやりたいとまで思った。ポスターはガラス窓の内側から、四隅に透明なセロハンテープで貼り付けられていた。
 喉が乾いてきたので、アップルティーを飲む。そろそろ、このペットボトルの中身も無くなってしまいそうだ。遷ろい変わりゆく街の中で、唯一このアップルティーだけが不変であったように思え、そう思うと途端に惜しむ感情が芽生える。僕は勝手に、「林」という共通項で町山一と林凌介を部分的に混同してしまっていた。姿は町山一、名は林凌介という、些か奇妙な状態を妄想していたのだ。町山一の精錬された顔立ちだけが、僕と林との接点のような気がして、しかしそれは林の一部分ですらなかった。町山一の姿をした林が、灰となって朽ちゆくような感覚が心を埋めた。
 店通りを抜けると、またあの赤い自動販売機が現れた。若い男が自動販売機の前に立っていて、何を買うか決めている様子だった。途端に、もう一割ほどしか残っていないアップルティーのペットボトルを持っていることが煩わしくなり、一気に飲み干す。それを自動販売機の傍にあるゴミ箱に捨てようとすると、男が突然、僕に話しかけてきた。
「それ、美味いんすか?」
 僕はびっくりして、男の顔を見る。派手な金髪が不格好で、あまり似合ってはいない。今年で二十四になる僕より、三つか四つ若そうだ。
「いや、あんまり。ドライフルーツみたいな味」
 僕がペットボトルをゴミ箱に入れると、男は財布をお手玉のように宙に上げ、なにかを考えている様子だった。僕が立ち去ろうとすると、
「どれ買うか決まらないんで、選んでもらっていいすか?」
と、男がけしかけてきた。断る理由もないので、僕は男と並んで自動販売機の前に立つ。男は安そうな金属製の指輪をいくつもはめていた。
「そうですね…」
 自動販売機のラインアップのうち、口にしたことがあるものは意外と少なかった。緑茶にコーラ、それからこの缶コーヒー、野菜ジュース。あとはこのアップルティーか。エナジードリンクらしき、けばけばしい色の缶が、二段目の隅に置かれている。値段が二百三十円と高かったので、これは一番最初に候補から外した。僕が考えているのを、男はただ見ている。財布を弄るでもなく、ポケットに手を突っ込むでもなく、ただただ僕の方を見ている。僕はその視線に耐えかねるものを感じた。さっさと選んでしまおうと思ったので、オーソドックスにコーラを勧める。
「コーラとかいいんじゃないですかね」
 男は少し考えるような素振りを見せた。コーラは百七十円だ。昔は自動販売機でもこんな馬鹿げた値段ではなかったはずだけれど、いつの間にか自動販売機の大半は値上げされてしまっている。今や「百円自販機」などというものはレアもレアで、それは都会であればあるほど数を減らしていく。
「まあ、コーラにしますか」
 男は財布から五百円玉を取り出し、硬貨の挿入口に差し込もうとした。しかし、それは直前で男が五百円玉を落としてしまったことで中止された。
「あっ!」
 男が、耳をつんざく金切り声をあげる。その高い叫び声は、エレキギターを闇雲に爪弾くようでもあった。五百円玉は反対側の歩道へと転がっていく、突然のことだったので僕は五百円玉の行方を目で追うことができず、暗い路地の中で音の気配だけでしかそれを察知することができなかった。まただ。ここの路地も、蔭の溜まり場だ。五百円玉が倒れる音がしたあと、男は反対側の歩道へと駆け寄り、五百円玉を探しはじめた。
「あんたも探してくれよ」
 男が言った。僕は呆然とし、なぜ自分までもが硬貨を拾わなければならないのかと思ったが、男が困っているのは事実なので、僕は男のもとに駆け寄って五百円玉を探すことにした。こう暗がりの中では、ひとつの丸い影を探し出すことすらままならない。男は右手で砂利とコンクリートの地面の上を手探りで撫でるように探しながら、左手でその金髪の頭をかきむしっているようだった。傍から見れば、僕たちはただの変質者だ。さっさと見つけて、この場を去りたかった。男は「ああもう…」とか「これしか持ってきてないのに…」とか、ぶつぶつ呟いている。すると、僕の手にギザギザした金属の感触が現れた。僕はそれを拾い上げ、街灯の僅かな光にかざす。なにかの記念硬貨だった。
「見つかったのか?」
「いや、これなんかの記念硬貨です」
 男は舌打ちしながら、背を屈める。僕はもとあった場所に硬貨を戻し、今までよりも少し右側を探す。男と僕に一人分の距離ができた。男は頭をひとしきりかいてから立ち上がり、深呼吸して、
「もういいや…」
と諦めるように呟いた。実際諦めてしまったのだろう、もう少し探してみましょうと言う僕に構わずふらふらと歩き出し、男はやがて街の闇へ吸い込まれるように消えていった。もう時刻は午後の九時を過ぎていた。この街を歩き続けて、僕はいったい何を得たのだろう。アップルティーか、おにぎりか、ハムサンドか。それとも、町山一のことだろうか。
 結局、なにもわからないままだ。林のことも、ペントハウスの場所も、そして男の五百円玉の行方も。どれだけ歩いても、街は同じように灰色だ。蔭の溜まり場も、光が射せば等しく薄いグレーの様相となる。僕の暗い気持ちはいつか街に溶けてどろどろになってしまって、蔭の溜まり場に堆積していくのだろう。今まで感じてきた街の暗闇の分だけ、これまで街の雑踏に踏みつけられた人々の影が堆積している。路地裏は街の暗部、闇だ。対する通りは街の表面、光だ。いや違う、表通りに元々あった影が路地裏に吸い込まれて、それが溜まって、街に光と影が生まれるんだ。
 僕は今日、見知らぬ街並みの中で様々な人を見てきた。いや、今までだって見てきたはずだ。眩ゆい光に導かれる者もいれば、影に身を潜めて息をする者だっているだろう。街に乾いた空気が循環して、僕の肩を撫でた風が、また違う誰かの背を押す。

 小さな駅を見つける。知らない地名だった。駅の時計の短針はちょうど一周して、午後十時二十六分を指していた。路線図を見る。此処はどこなのだろうか。僕の暮らすM町ではなく、河村やペントハウスのあるF町でもなく、僕の知らない街。ここからM町までは、電車をふたつ乗り継いで行かなければならない。随分遠くまで歩いてきた、と僕は思う。改札を抜け、ホームの階段を下りていく。
 突然、携帯が鳴る。浜崎あゆみの「Voyage」は黒川に割り当てられた着信音だ。ふと、河村の「黒川が林と関わってるってことには間違いないな」という言葉が甦り、ホームの階段で足を止めた僕は確かに、えも言われぬ興奮と緊張に襲われていた。それにしても、もう一時間以上何も飲んでいない。
 どこかの街で、路地裏に影を運ぶ乾いた風が巡り廻って、駅のホームに吹き抜ける。街に陰影を運ぶ蔭の流れよ、灰色の世界にパイナップル色の光が射す。