道と影

 これから記される文言は、まだ悪い大学生だった頃の俺が香港からイスタンブール、果てはイタリアのローマまでをも陸路で旅した時の回想だ。
 当時、俺の親父と母は別居状態だった。そのことに関する親父からの八つ当たりもとい、心身ともに抉られるような酷い虐待に耐え兼ねた俺は、ある夜中に憎き親父の預金通帳とキャッシュカードを勝手に持ち出し、近くにあった二十四時間営業のコンビニエンスストアのATMで丁度五十万円の現金を引き出した。そして俺はそのまま家には帰らず、バイトやら何やらで必死に貯めた俺の貯金全てと、親父の口座から不正な形で引き出した金とを合わせた現金約百二十万円を握り締め(もちろん、これは言葉のあやで、実際には母と離れ離れになる際に母から渡された、ミッフィーのプリントされた大きなポーチの中にその金を詰めた。そうして、大金が詰められたポーチは出来の悪いどら焼きのような形に膨張して、丁度野球ボール一つ分ぐらいの重さになった)、俺は真っ直ぐに、親父への強い反抗心に背を押されるようにして、国際空港の方角に続く夜明けの街道を走り抜けたのだった。俺はこれからどこまで行くのだろうか? いつまで旅をするつもりなのだろうか? 大学はどうする? 単位は? …そういった後ろ向きな考えが、俺の中にあったことには間違いない。しかし、絶対的な束縛への反逆を現在進行形で為し得ていることによる意識の陶酔(フランス革命や学生運動も、こういった感覚のもとで集団的に行われてきたのだと思った)と、視界の隅で点滅する街明かりの眩さが、俺を変えてどこかに連れて行ってしまうかもしれないと思った。両腕に数えきれないほど残っている、焦げた葉っぱのようなアザが湿った大気に触れてひりひりと痛む。それは一つの麻痺のような感覚に限りなく近い。
 シラーズという、イランの都市から話は始まる。あてもなくただ「ユーラシア大陸を横断する」という漠然としたエキゾティシズムだけを以て、半ば弾丸に近い形で決行されたこの旅は、実に五ヶ月超の長い旅行となった。



 その日、俺がシラーズの安宿からチェックアウトしたのは早朝八時半、日本だとラジオ体操が流れ始める時間だろうか。俺はそんな退屈な物は見ないし聴かないが、母が健康のためにラジオ体操を毎朝欠かさずに行っていたという事実を俺は知っている。ただ、そのことが親父が物知りげに語り、それも酩酊状態で「あいつは俺の女なんだからよぉ〜」などと余計なことまで口走った晩は、俺の中の全ての脳細胞が本気の怒りに震えて、なにかの拍子に親父を刺し殺してしまうやもしれぬ、極めて危うい境界線上に身を置いていたことを思い出す。俺が家を飛び出してからもうふた月にもなるが、未だに親父の遺した毒の鎖は俺の精神に根を張るようにして巻き付いていて、それが俺をひたすらに強く苦しめているのだと、この時俺は確信する。あの気の短い親父は、俺のことを殺すために今も空港で待ち伏せしているんじゃないかとさえ思う。
 シラーズのターミナル(テルミナル、とでも呼びたくなったのでこれからはテルミナルと呼ぶことにする)はこれまでイランで見てきたどのテルミナルよりも巨大で、それでいてどこか現代的な雰囲気に包まれていた。巨大なテルミナルの中央には黄色い庭木の蕾が小さく咲う広場があって、そこから小径が東西南北の方角にそれぞれ伸びている。その小径を行くと、様々な方面へのバス乗り場にコインロッカー、そして路線の案内所が現れる。
 俺はペルシャ語もアラビア語も全くと言っていいほど分からないから、英語の話せない現地人とは、携帯の翻訳機能ありきでコミュニケーションを取らざるを得ない。ただ、一度携帯電話に頼ってしまったという手前、その行為に甘えてしまった自分への気恥ずかしさが否めない。ペルシャ語の識字もままならない日本人のこの俺が、手探りでの意思疎通をハナから諦めてかかったその結果として、幾分か抑揚のおかしい(現地の人にとっては恐らくそうなのだろう)機械音声がペルシャ語で「この宿の料金を教えてください」などと現地人に対して平然と言ってのけるのが、たまらなく情けなかった。日本に観光に来たイラン人が、またもや不自然な抑揚の機械音声で「東京駅までの道を教えてください」と携帯電話を通して日本語で言うのと同じ構造であるのにも関わらず、なぜだろう、イランというアウェイ地における俺の馬鹿げた痴態だと考えるとつくづく嫌気が差してくるのに、俺のホーム、つまりは日本において、右も左もわからぬ外国人観光客の悲痛な訴えと考えると、自然と寛大さを以てものごとを考えることができる。それはまるで、俺の潜在意識下にある異国に対する警戒や畏怖のような感情が無意識に俺自身を監視していて、それがなにか引け目のようなものを俺に与え、外地での自身の行動を「恥ずべき行為」と過剰に責め立てているようだった。
 シラーズの東には主に、マハル湖と呼ばれる大きな塩湖がある。ファールス地域の激しく上り坂になっている歩道の端からその湖の一端を初めて目にした時、俺は衝撃を覚えた。
 湖はホウルトマトの缶詰のような鈍った緋色をしていて、その透明度は著しく低かった。荒地の中の湖、謂わばオアシスの紅潮だ。赤い湖が弓形に、水平線まで続いている。奇妙な光景だ。
 なぜこのような現象が起きているのか、馬鹿な俺には分からない。赤錆のような色でもあったので、この湖の水には鉄がたっぷり含まれているのではないかと想像したりもした。ただ、その時目にした光景の圧倒的な壮観が「地球の神秘」と呼ぶに相応しいほどのスケール感であることを、俺の心が教えてくれる。この湖を見ている時だけ、親父のことを完全に忘れられるような気がしたがそれは俺にとって救いか、いや、違うな…。俺にとっての福音は母の幸せだ。それがあの親父に対する、最も残酷な復讐であると俺は信じる。
 シラーズのテルミナルから北に二十分ほど歩くと、市街地に出る。国際空港もあるザヘダンはまるでスラム街のような雰囲気だったが、それに比べるとシラーズはとても綺麗で現代的な街並みだ。何しろ、街灯の本数がザヘダンより一本も二本も多い。
 空港で買ったSIMカードの容量が思ったよりもすぐなくなってしまうので、地図アプリに頼る機会はできるだけ減らしたいなどと考えながら街を歩いていると、一軒の果物屋を見つける。店主の親父(父親のことを思い出してしまうから、あまり使いたくない表現であるが)さんの英語がやたらと上手い。聞くところによると、この親父さんは若い頃、スコットランド留学を経験したらしく、ネイティブな英語の発音はその時に得たものだと言う。
 そんなことを話していると、店の裏口から奥さんらしき女性が出てきた。イランに定住している人間だと言うのに、肌が驚くほど白い。西洋人だ。親父さんはテヘランの国立大学を出ているエリートで、自分はアイルランドからきた留学生だったと奥さんが言う。アイルランドからわざわざイランに留学したわけを聞くと、「イスラム文化を研究するため」と答える。
 宿で食べるためにザクロをひとつ買って、店を出る。それにしても、笑顔がとても良い夫妻だった。ザクロはナイフで切るといいよ、でも護身用ナイフじゃだめだ、ちゃんとした果物ナイフで切らなきゃいけない、と教えて貰った。どこかの用品店で果物ナイフを買わなければ。赤い玉ねぎにそっくりな、ザクロの果実が入った袋を鞄に詰める。
 もうあまり手持ちのリヤル(イランの通貨)が残っていないので、一刻も早く銀行で両替をしなければならない。中国やパキスタンでもそうだったが、世界には「闇両替」という概念が存在する。闇両替というのは、銀行を介さずにドルやユーロを業者に両替してもらうことだ。その業者を闇両替屋と言うのだと、上海の空港の待合室でマカオ帰りの中国人が教えてくれた。
 実際に、俺も何度か闇両替屋に声をかけられたことがある。彼らは銀行や国境周辺、さらには大使館といった外国人の多そうな場所にいることが多い。そして彼らは、頗る流暢な英語をいともたやすく使いこなす。外国人を相手に据える商売であるから、語学に優れていることは絶対条件なのだろう。
 イランに来てからというもの、正午あたりからほとんどの店が閉まってしまう。そして、一時間ほど経つと人足も途絶えてしまって、まるでゴーストタウンのようになる。尤も、この殺人的酷暑の前では店じまいも致し方ないか。ペルシャ湾の沿岸あたりは涼しくていいよ、と金持ちそうな観光客の兄ちゃんが言っていた。ペルシャ湾という言葉の響きにおや、と思う。それにしても暑い。
 直射日光にさらされながらもしばらく歩くと、疎らな通行人の中にひとり感じの良さそうな両替屋の兄ちゃんが混じっているのに気づく。銀行が閉まっていたので、一刻も早くドルをチェンジしてもらいたかった。
 とりあえず、百ドル札を一枚差し出す。すると予想以上の高レートで、札束をドンと渡される。サービスしておいたぜ、と流暢な英語で言う。
 こんな暑さの中でよく休まずに働けますね、と俺が拙い英語でどうにか聞くと、両替屋の兄ちゃんは「いつか俺はドバイに行くから、金が貯まるまでは我慢さ」と、爽やかな笑顔で野望を語ってみせた。
 シラーズのバザールは中々に面白いよ、と教えて貰う。そして友好の証に、とオセアニアの島国、ツバルの郵便切手を貰う。ツバルの国土らしき環礁が、透明度の高いアクアマリンのような太平洋の海に浮かんでいる、という切手だった。こんな透き通った海が、果たしてペルシャ湾にはあるのだろうか。
 一時間に二回やってくるバスに乗って、シラーズのテルミナルへ戻る。暑さがだいぶましになってきたので、歩いて宿を探す。
 十分ほど歩いて、アラビックな安宿街を見つける。何軒か回って、一番安くてかつ小綺麗な、メインストリート沿いのホテルにチェックイン。ベッドはシングルで、個室にはシャワーが付いている。インドだと、少し街はずれに出るだけで質の良いホテルがめっきり減ってしまうということがざらにあったので、どのホテルでも大概は水や湯が出る、という確証を持って宿選びができるイランは生活水準が高い国なんだな、と勝手に考える。
 冷蔵庫があればザクロを冷やせると思ったが、残念ながらこの宿に冷蔵庫はないようだ。デリーで泊まった巨大なホテルには、大きな冷蔵庫が備え付けられていて、中にはオレンジやグァバといった果物の缶ジュースが五つほど。もちろん、全部おいしく頂いた。
 そこそこ広いロビーの充電スペースで携帯を充電しながら、宿に幾つか置いてあったパンフレットを見る。やはりペルシャ語は読めない。
 旅行会社のパンフレットの中に、宮殿のように巨大な廟の写真を見つける。が、調べてみると残念。シラーズより東にあるどころか、トルクメニスタンとの国境辺りだ。ここまで来て、パキスタン側まで戻ってしまうのは時間と金の浪費が過ぎると思い諦める。
 夕方になると、それまで猛暑で閉まっていた店たちが一斉に営業を再開して、ゴーストタウンは息を吹き返す。腹が減っていたが、とりあえずバザールへ行くことにした。果たして、果物ナイフは売っているのだろうか。
 シラーズのバザール通りの上には、赤茶けたレンガでしっかりと造られた屋根がある。大阪の商店街アーケードの、安っぽい屋根に比べるとだいぶ良い感じだ。歴史の重みがしっかりと街に定着している、そんな感じだ。
 出店の明かりが、日本で言うところの夏祭りに似た感覚を思い起こさせる。といっても、射的や金魚掬いのような遊戯はここには無いが。あと、食べ物屋が思っていたよりも少ない。インドでも同様にバザールがあるという話を聞いていたが、結局行かず仕舞いだった。これは勿体ないことをした、と今になって思う。
 しばらく歩くと、刃物や食器を専門に取り扱っている出店を見つける。店主は恰幅の良い航海士のような佇まいで、なかなかの美男であった。店にはフニャフニャになった国旗が掲げられている。ユニオンジャックが描かれているということは、これはイギリス絡みの国家の旗だ。それをしばらく注視していると、店主に「それはタークス・カイコス諸島だ」とドスの効いた声で言われる。
 なんでそんな旗が、と思った。確か、タークス・カイコス諸島というのはニューギニア島の辺りにあるイギリスの海外領土だったはずだ。日本だと、特に意味もなくアメリカの国旗が描かれている店なんかがあるが、それにしてもこれはマイナーすぎる。俺が不思議そうに旗を眺めていると、店主は片手で旗の皺を直してから「ここは俺の生まれた島だ」と言った。どこか誇らしげな、堂々とした佇まいに俺は圧倒されてしまい、それ以上なにを聞く気にもなれなかった。「これもう少し安くならないですか?」という下らぬ質問など、聞く前から跳ね飛ばされそうな、それはそれはいかめしい立ち姿であった。
 俺は慄きながらも、一番のお目当てであった果物ナイフと高級感のある金色のスプーンとフォークを買った。果物ナイフは中国製の安物だったが金色の食器はフランスで作られたものらしく、そこそこ値が張った。本当の金が使われている筈がないが、もしもこの食器が純金製だったらと考え、税関で面倒な事になるな、などと要らない心配をする俺は小心者だ。そそくさと店を後にする。
 それにしても、本当にいろんな店がある。動物の鱗やら角やらを売っている露店など、まず日本では見かけないだろう。新鮮だ。
 帽子屋でクリーム色のアフガン帽を買う。ちょうど暑さを凌げる道具が欲しかったところだ。イラン人に対してはリヤルで売っているのに、日本人の俺に対しては「リヤル払いは駄目だ。ドルで払え」と言う。少し勘繰ったが、これからの暑さのことを考えると、しっかりした生地の帽子は非常に魅力的だ。仕方ない、と渋々それを承諾する。
 一軒のジョークショップを見つける。なんと店主は西洋人だった。澄んだ青色の目が凛々しい。一方で、その視線にはどこか冷たいものが含まれているように思える。
 店主は今までイランで出会ったどの人々よりも英語が上手かった。いくら世渡り上手の両替屋とはいえ、どうやらネイティブの英語発音は模倣できないみたいだ。とはいえ、あまりにも流暢すぎて、最早所々で聞き取れない。
 店構えの雰囲気が治安の悪いパキスタンのマーケットに似ている。ここらは別にスラム街でもないのに、何故だろうか。そして珍品で溢れかえっている。こういうところもマーケットに似ている。気まぐれで赤い林檎のステッカーをふたつ買う。
 バザール街道を抜けてから、一軒の食堂を見つけた。人は少なそうだ。丁度腹が減っていたので入る。トマトベースの煮込みスープとライス(白米だけでなく、黄色い米も併せて盛り付けるのがイラン式だそう)、そしてホットチャイを注文してから席に座り、今日の買い物で使った金額をメモしておく。本当にイランは物価が安い。
 イランはイスラム体制の国なので、どこに行っても酒が飲めない。しかし、反体制の脱法居酒屋があるのだと言う話は、ザヘダンの若者から聞いたことがある。国境を越えても、酒とタバコは最高の享楽だ。それから、音楽も。
 あっという間に飯を平らげ、締めにチャイを飲む。美味い。特にミルクの甘みが優しくて良い。茶というものには、人の心を落ち着ける力があるような気がしてならない。
 宿に帰る。今日は疲れた。ベッドが予想以上に硬かったので、ダイブした膝が痛かった。ザクロは明日の朝食べよう。


 チェックアウトの時、レセプションにいた若者から「もう水タバコは吸ったかい?」と聞かれた。煙草は苦手だ。舌が痺れる苦い感覚。パキスタンの水パイプでは思い切りむせてしまった。それを見て、皆笑っていた。赤子が立ったときのような、初々しさを追う視線が俺に突き刺さる。
 日本人が珍しいのか、たまに声をかけられる。大抵は英語で話しかけてくるが、ペルシャ語で話しかけてくるのもたまにいる。
 イラン人は友好的だ、と思う。事実、今まで会ったイラン人のほとんどがそうだった。余所者の俺でも、十二分に親しみやすい国民性。
 イランで最も人気のある日本カルチャーを教えてくれ、と街にたむろする若者に聞いたことがある。すると不思議な抑揚で、「オシン」と返された。オシンだって? あの「おしん」か? と聞き返すと、「そうだ。おしんの忍耐力が俺にも欲しいよ」と言われた。俺は「おしん」を見た事がない(国民の半分以上が見ていたドラマだ、ということは知っている)ので、寧ろ彼らの「オシン」熱に押されてしまった。
 また、「日本はあんなに小さいのに、魅力的なところが沢山ある。あんな国土でアメリカに対して喧嘩を売ろうなんて、無茶をやってのけた勇敢さも買わねばならない」とも言っていた。その国の人を目の前にして「お前の国はどうかしている」という馬鹿はいないが、イラン人は皆、口を揃えて日本のことを称える。テクノロジー、自然、四季折々の情景、和食、福利厚生などなど、あとは「オシン」。俺の政治思想は左でも右でもないが、やはり自分の国が良く思われているというのは気持ちがいい。
 バスを二つ乗り継いで、ぺルセポリスへ行く。渋滞に巻き込まれて三時間もかかってしまった。
 巨大な背骨のような廃墟が、砂原の上で野晒しにされている。凄い。丘陵の上に何本も柱が伸びている。まるで、現代のコンビナート街の遺跡のようだ。遥か太古に幾多もの生命を湛え、世界の美しさと豊かさを象徴したであろう大海の成れの果てのような、残酷な荒地が広がっている。
 高くそびえ立つ柱、動物を模した像、単の壁、そして巨大な神像。その全てが巨大な岩石で滑らかに成形されていて、その全てが機械ではなく、人の手によって施されている。壮麗。
 柱を一本一本眺めていると、石像の側面に何か書いてあるのを見つける。全く読めない。写真に撮ると中々いい感じだ。
 帰りのバス停で、オガワという日本人青年と出会う。俺が昨日、バザールで買ったクリーム色のアフガン帽を被ってたためか、オガワは最初「サラーム」とペルシャ語で声を掛けてきた。
 自分以外の日本人の顔を見なくなってから、もう随分と経つ。久しく日本語も使っていなかった。懐かしくなって話す。
 オガワは福島の大学生で、俺より一つ上の学年の語学部生だという。流れるような英語にフランス語。俺の使えないペルシャ語だってお手のものだ。三流大学生の俺とは比べ物にならない基礎能力。
 オガワは二週間の間、イランに滞在するらしい。一方の俺は、どこで、いつ帰るのかすら定まっていない。でも、それでいい。俺が決めたことなのだから、今更俺がくよくよする訳にはいかない。ユーラシアを縦断する。ただそれだけだ。世界の果てで俺を待ち受けているものは、想像を絶する地獄かもしれないけれど。
 オガワはペルシャ湾を見たいと言った。丁度俺も明日、ペルシャ湾沿岸のブシェフルという港町に発とうと言う所だった。明日一緒に行かないかと俺が提案すると、オガワは飛んで喜んだ。
 タイヤが道上の小石に乗り上げたのか、バスが大きく揺れる。ここらの空気はひどく乾いている。朝食のザクロの瑞々しさを思い出す。早く海風を浴びたい。
 帰りのバスが渋滞を上手く躱してくれたので、二時間ちょっとでシラーズに帰ることができた。オガワと一緒にバスを降りると、テルミナルにちょっとした人だかりができていた。気になって見に行く。
 サウジアラビア人だ。襟首から足元までを白いローブ(高潔な白色で、外套のようだ)で覆い、頭には黒い帯で止められた白いベール。アラビックな気品と余裕を感じさせる、黒くて立派な髭。絵に描いたようなアラブ人の集団。テルミナルの通路を余裕綽々に歩いている、その足取りは妙にゆったりとしていた。
 少し早いが、宿を探すことにした。そして少し悩みつつも、昨日泊まったホテルに連続で泊まると決める。今日も俺は、あの硬いシングルベッドの上で眠る。
 夕方までは、ロビーの充電スペースで携帯を充電しながらオガワと談笑する。どうやら、オガワには彼女がいるらしい。写真を見せてくれた。黒髪のショートで清楚。俺にもこういう子がいたら、と考える。
 携帯の充電がいい頃合いになったので、オガワと二人で食堂へ行く。ケバブとライス、ホットチャイを頼む。待っている間、オガワはケルマンで買ったという切手を見せてくれた。俺もお返しとばかりに、両替屋に貰ったツバルの切手を見せる。するとオガワはひどく驚いて「これは綺麗だな…」と、切手の中にある南太平洋のブルーに感嘆してみせるのだった。


 朝七時にオガワに叩き起こされて、始発のバスに乗る。シラーズから、ペルシャ湾に向かって四百キロという距離を南下していく。
 オガワの存在が大きい。お互いに、旅で溜まった土産話をドサっと放出する。バスの窓から流れ込んだゆるい湿気が、熱をもった肌を冷やす感覚が心地良い。
 昼過ぎ、ドライブインで休憩。するとオガワが有機トマトの缶詰を買ってきた。今日のおやつにするらしい。
 ドライブインに隣接した食堂で、大きなローストチキン(華やかなサフランで盛り付けられている)を二人で分けて食べるのだが、いかんせん口元がひどく汚れるので、食べ終わる頃には机の上がナプキンまみれになってしまって面倒だった。食後にチャイを飲んでから、バスに乗る。
 三時半、ブシェフルに着く。高台のバス停からすでに、ペルシャ湾を望む景観が窺える。油井らしき巨大な建築物が海上に浮かんでいて、数隻の船がそれを避けるようにして海を渡っている。陸路で旅する俺とは真逆に、だ。
 丘を下っていくと、いっそう湿気と潮風が強まってきた。ここしばらくは、湿度の高い大気に触れるということが無かったので、海からやってくる澄んだ空気に、俺はいいようのない感興と興奮を覚えざるを得ないのだった。
 海辺を走る道路に出た。車道を挟んで砂浜、さらにその奥に海が見える。もう少し海沿いに向かってゆけば、港町も見えてくるだろう。砂浜には何台かゴツい車が止まっていて、それなりに人も集まっている。横断歩道のないコンクリート道を渡って、小さな石段を降りると、そこはもう砂浜だ。
 ゆっくり海でも眺めるかと言って、ふたりで砂浜に座り込む。しかしやけに太陽がギラついていて、日差しが極端に強い。まるで、赤外線で加熱されている食物のようだ。
 イランにサーフィンという文化がないのかは知らんが、こんなにも暑いというのに、海水をがっつりと皮膚に触れさせている大人は殆どいない。皆一様に、俺達と同じく座り込みだ。暑すぎて皆、無駄に動こうとしないのだ。そしてこの砂浜には、色鮮やかなビーチパラソルなんてものは一切ない。殺風景だ、と俺は思う。
 おもむろにオガワが立ち上がり、手のひらについた砂を払う。ペルシャ湾と言えば、イラクとクウェートその他による、湾岸戦争のイメージが真っ先に頭に浮かぶ。その凄惨さを象徴とする、黒い重油にまみれた鳥の写真。油井が破壊されるまでは透明であったのであろう、黒いペルシャ湾に漂う、死の匂い。
 しかし今、俺の眼前に広がっているのは、一面エメラルドグリーンの美しい海、即ち生命の存在し得る世界。上天の太陽が、緑一色の水平線に光を屈折させ、ペルシャ湾をキラキラと輝かせる、素晴らしい景観。紅のマハル湖とは違う、生き生きとした海。まるで、ゲルニカの花のようだ。
 とはいえ、殺意さえ感じるこの日射を長いこと浴びているのは危険だ。港町まで歩くために、オガワを立たせる。オガワは手のひらに付着した砂を別の手で払いながら歩き始めた。
 それほど歩かないうちに、港が見えてきた。停泊している船はみな白く、水を切るためか尖った形状をしている。今どき帆付きの船などありはしないはずだと思っていたが、あたりの船とは一線を画すほどでかいヨットのような船が、一隻だけ停まっていた。それはまるで、貧相なボトルシップ。
 靴の踵から、まだ時折砂がこぼれて落ちる。旅の中で随分と履き潰してしまった、と俺は思う。
 小さい商店で買った、缶入りのザムザムコーラを飲む。これがとにかく美味い。仕事帰りの親父が、ビールを飲む度に機械的に発する言葉に染みる、というものがあるが、その本質はこういうことなんだ、と身体の芯で体感する。
 コーラを飲み終えて(オガワはトマト缶をついでに食べていた)、海辺の宿を探す。夕焼けと海が見える宿がいい、とオガワが言うので、なるべく海に近いところから探し始める。夕暮れにオーシャンビューとは、中々に贅沢だ。俺もそれを支持する。
 四十分ほど探して、海沿いのホテルにチェックインした。そこそこ値が張ったが、ベッドが信じられないくらいフッカフカだったので良しとした。それにしても、クーラーがいい位置にあってよく効く。さらに、棚の上にはペルシャ語で放映されるテレビも置いてある。
 シャワーを浴びているうちに空が薄暗くなっていた。服を着るなりオガワが俺の部屋に入ってくる。そして外に出ようというので、慌ててアフガン帽を被ってから外に出る。

 オレンジ色の太陽が西の空へと沈んでゆき、俺は優しい夕空に向かって歩く。目の前にはペルシャ湾とその砂浜が広がる。
 たくさんの人が、夕涼みに海岸を訪れていた。オレンジ色の鮮やかな一つ火が、群像のひとつひとつを焼いて、俺もオガワも、その中に居る。
 黒いジープから降りてきたイラン軍の兵士が、夕陽に染まるペルシャ湾を眺めながら、柔らかく談笑している。沈みかける瞬間の太陽、そして長く延びた影が、人々の笑い声を包んで美しい。
 眼前のペルシャ湾は、薄闇の中で青黒く波打っている。
 おもむろにオガワが立ち上がり、解けた靴紐を緩く結ぶ。そして、なだらかな影になった手のひらについた砂粒を払ってから、またスニーカーの紐を結び直した。