木洩れ火

 どこか遠くで警報機が鳴る音がして、音に敏感なあなたはすぐに目を醒ます。よろめきながらもなんとか布団から立ち上がり、自律を手にしたあなたはそのまま寝室を抜け、リビングルームからバルコニーへ繋がる、鉄枠で縁取られたガラスの窓を開けて、音の方角を探る。けたたましい警報機の音が、一段と大きく聞こえた。音の正確な位置はわからないものの、あなたのアパートから一戸建ての家をふたつ挟んだ向こうにある、四階建てのアパートの一室から濛々と立ち籠める黒煙が、白み出した夜空に滲むように鮮やかに映る。
 大学進学とともに、あなたはひとり暮らしを始めた。あなたは子供の頃から早起きが苦手で、あなたの両親は今でもあなたのひとり暮らしをなにかと気にかけてくれている。警報機の音ですっかり目が冴えてしまったあなたは、昨日の夜に洗って乾かしていたお気に入りの白いマグカップにコーヒーを淹れ、それをちびちびと飲みながら青い空を待った。
 あなたは今日も大学に行く。午前に物理学と外国語の講義をそれぞれ受けたあと、開放されているキャンパスの中庭の隅にある、黒い鉄製のベンチに座ってご飯を食べる。あなたは少し面倒くさがりなところがあって、ここ最近の昼休みは毎日コンビニのお弁当を食べるようになってしまった。黒色の塗装が剥がれ、傷跡のように鋭い銀色を幾つも湛えるベンチを、あなたは結構気に入っている。
 いつものように、あなたはその日の気分で選んだお弁当を食べる。誰かと食事をする時には必ず、いただきますとごちそうさまを言いなさいと小さい頃、あなたは母親によくそう言われていた。あなたは母の作るお弁当が好きだった。おかずは茶色かったり緑だったりして、味も濃かったり薄かったりで安定しなかった。けれど、あなたは母のお弁当から確かな実感を得ていた。あなたはそのことを父に話したことがある。父は「それが愛ってことなんじゃないかな」と照れくさそうに笑っていた。
 春とも夏ともとれない季節の陽射しが、穏やかな陽気を運んでくる。あなたがこうやって、ひとりでベンチに座ってお弁当を食べていても、あなたに話し掛けてくれる人はほとんどいない。両親以外の人とご飯を一緒に食べることは滅多にないな、とあなたは思い、最後に男の人とふたりでご飯を食べたのはいつだろう、と考える。
 昔からあなたは人の多いところが苦手で、ゼミの飲み会にもなるべく行かないようにしている。順番で回ってくる幹事の時だけは、必ず飲み会に出席しなければいけないので、あなたは憂鬱な気持ちになる。さしてお酒が好きなわけでもないので、周囲の空気に溶け込むことが出来ず、そのたびにあなたはいつも自信をなくす。
 お弁当をゆっくり味わっても、だいたい二十分ほど昼休みの時間が余ってしまうので、その時間にあなたはいつも本を読む。ただ今日のあなたは、慣れない早起きのせいか、とても眠くて読書どころではなかった。すでに食べ終わったお弁当の透明な容器をコンビニの袋へ入れ、持ち手をひものようにかんたんに結んで黒皮の手提げバッグに詰め込む。それと入れ違うように、あなたはバッグから携帯電話を取り出す。あなたの携帯には、ソフトウェアのアップデートの通知しか来ていない。あなたはため息をついて立ち上がる。あなたが踏んでいるコンクリートの床から二歩踏み出せば、青い芝生が奥のまた違うコンクリートの床まで伸びている。芝生の上には、何人かの学生が寝転がったり、体育座りでおしゃべりしたりしている。あなたは芝生から遠ざかるように、キャンパスの屋内へと歩みを進める。
 午後の講義が始まると、昼間の眠気がまるでどこかへ吹き飛んでしまったように、あなたは明晰な意識を取り戻す。あなたはいつも通り真面目に話を聞き、ノートに自分なりに話を整理して書き込む。話の中で重要だと思った点には、赤いボールペンで線を引く。ノートを取りながらふと、あなたは朝のことを思い出す。
 朝、あなたが大学へ歩いて向かう時、例の黒煙をあげていたアパートの前を通った。アパートの駐車場の前にはそこそこの人だかりができていて、地域の警察官が二人がかりで敷地内に入らないよう近隣住民を制している。駐車場にはパトカーを除いてセダンが二台、軽自動車が三台止まっている。既に火は鎮められていて、トマトのように赤い消防車の姿はもうない。警報機が鳴ってしばらくの間は、パトカーや消防車のサイレンがそこらじゅうに響いていたのだけれど、今はそれも落ち着きを取り戻していた。携帯でなにかを撮影する音が、まばらに聞こえる。人混みで狭くなった道幅を、縫うように抜けてあなたは大きな道に出る。

 講義を終えて、講堂は一気に騒がしくなってきた。あなたがノートとペンケースをバッグの中に片付けていると、不意に肩に軽い感覚を覚える。あなたの肩を叩いたのは脇坂という男の学生で、あなたとは同じゼミに所属している、という程度の関係性だ。たしか、脇坂は次の飲み会の幹事だったはずで、その次の次にはあなたも形式的に幹事をしなければならない。そのことを思い出して、あなたはつい気持ちを落としてしまう。
「一乃さんは次の飲み会どうしますか。次俺が幹事やんなきゃだめなんすよ。それで、しかも人が絶望的に集まらなくて。それで、一乃さんも出来たら参加してくれると嬉しいなって思って。どうっすかね」
 脇坂は人のことを苗字ではなく名前で呼ぶので、多くの学生から親しまれている。一方で、一部のプライドの高い学生からは「馴れ馴れしくするな」と見下されていることも、あなたは知っている。
 どうしてもですか、とあなたは少し食い下がる。冷たい口調だったかな、とあなたは小さく思う。
「うーん、出来たら、なんですけど…」
 脇坂の顔に、焦りの色が掠めた。いや行きます、とあなたは申し訳なく思って、反射的に返事をしてしまう。
「ええ本当ですか。ありがとうございます一乃さん!」
 いや、ええあはい、とあなたはまごついて言う。脇坂は持っていたメモに何かを書き留めている。脇坂はまた連絡します、とだけ言い残して、足早にあなたのもと、そして講堂を去っていった。
 なぜ断らなかったのだろう、とあとになってあなたは思う。いくら人の集まりが良くないとはいえ、お酒は得意な方ではない。もしかしたら、自分はお人好しなのかもしれないとあなたは思った。

 脇坂のセッティングした店は、いわゆる大衆居酒屋だった。ゼミの飲み会だと、結構同じ店を使い回すことが多いとあなたは先輩から聞いたことがある。この店もそうなのだろうか。幹事のとき以外で、あなたが自主的に飲み会に参加することは珍しく、他の人は少し驚いているようだった。参加者は幹事の脇坂とあなたを含めると六人で、店の奥側にちょうど三人と三人に分かれられそうな大きいテーブルがあったので、みんなを奥に詰めさせるようにして、最後にあなたが通路に近いほうの席に座る。
 いつもの飲み会は誰が幹事を務めようと、最低十人は集まっていたので、この集まりの悪さは異例と言える。それは幹事を務めるのがあなたにしても、である。
 乾杯から暫く経つと、みんな本当に不思議なほど早く酔ってしまって、あなたには話し相手がいなくなってしまった。中途半端に残された卵焼きや枝豆を、少しづつつまむ。あなたの向かいには脇坂が座っていて、誰と口をきくでもなく、ただあなたの後ろにあるクリーム色の壁をぼーっと眺めているようだった。
「脇坂ってあれ見に行ったか! 白の美術展」
 だしぬけに、楠という男の学生が叫んだ。あまりにも声が大きかったのであなたはびっくりして、持っていた枝豆を落としてしまった。
「別に、興味ないかなあ」
 声を張り上げた楠に対して、脇坂は落ち着いた様子で言う。あなたは上体をテーブルの下に潜らせ、指で枝豆を拾い上げる。
「そうなのか…」
 頭がまだテーブルの下にあるので、明らかに声の調子を落としている楠の顔をあなたは見ることができない。
「創士とはもう行きたくないな、美術館」
 創士とは楠の下の名前である。
「なんでだ?」
「なんでって、俺が見た美術品、全部解説するだろう。あれ恥ずかしいよ。やめてくれよ」
 あなたはようやくテーブルの下から顔を出す。予想通り、楠の表情がちょっと悲しそうなものになっている。
「そうか…」
 楠はそれ以上何も言わなかった。この空気をどうにかする力が自分にあればいいのに、とあなたは思った。

 朝、いつもあなたがお弁当を買うコンビニの店内で、脇坂と偶然出会ったのはそれから一週間あとのことであった。脇坂は起毛のある緑のジャケットを羽織っていて、手には青色の缶コーヒーが握られている。脇坂はあなたのことを認めると、「おはようございます」と、声を落とした調子で挨拶をする。
 おはよう、とあなたは小さく返事をして、お弁当の置いてある透明なプラスチック棚の方へ足を運ぶ。
 脇坂とあなたはそれぞれの会計を済ませてコンビニを出る。あなたは脇坂と特別仲がいいというわけではないが、あの飲み会以降は会話する事が増えたとあなたは感じる。構内で会ったときにはあいさつをするようになったり、ちょっとした立ち話もするようになった。そんなわけでお互い独立する理由もなく、あなたと脇坂は大学へ向かう道を並んで歩く。
 街路樹が決まった感覚で奥まで続いていて、遠くに見えるバス停の看板の前には、学生やスーツのサラリーマンらが、縦一列に並んで携帯を見たり、鞄を置いてストレッチしたりしている姿が見える。あなたはなにかの待ち時間であっても、あまり携帯電話を見る事をしない。そういうときは景色を眺めてるだけでいいと、あなたは思っている。
 このへんに住んでるんですか、とあなたは聞いてみる。
「うん。でもさ、俺の住んでるアパート、最近燃えちゃったんすよね。なんか上の階の人が電気ストーブつけっぱだったとかで、朝方に警報器鳴って叩き起こされて、ほんと災難って感じだったんすよ」
 あぁあそこね、大変だったね、とあなたは同情の意をこめて言う。脇坂があの警報器の鳴ったアパートの住人だと言うことに、あなたは率直に驚いた。あのとき、黒煙がどこの窓から噴き出していたのか、もうあなたは思い出すことができない。脇坂は缶コーヒーのタブを取ると、「外壁にもちょっと焦げたあとができたりして。管理人さんがちょっと怒ってましたよ」と笑いながら続ける。確かに、今朝ベランダから見た脇坂のアパートは、以前よりも全体的に黒ずんでいた気がする。もしも、この火災が自分のアパートで起きていたらとあなたは考えて、少し怖くなった。
 しばらく歩いていると特に話題もなくなってきて、微妙に気のまずい雰囲気と、朝の生暖かい気温があなたを包む。あなたはぼうっと、遠くに林立するビル群を見やる。あれはビルではなくマンションか、とあなたは考える。
 あまりにも唐突に脇坂が「一乃さん、今度ふたりでどっか行きませんか。映画とかでも、ほんとなんでもいいんすけど」と言ったので、あなたは困惑する。
 え、私とですか? と、あなたが遠慮がちに言うと、脇坂は「はい、一乃さんと行きたいんです」とはっきり趣旨を言い直した。はあ。でも私、どこ行きたいとかべつにないですよ、とあなたはまた遠慮がちになって言う。
「じゃあ、市の美術館でやってる白の美術展とかどうですか。俺、結構気になってたんすよ」
 でも、それ前興味ないって言ってませんでしたっけ、とあなたは不思議に思って聞いてみる。脇坂が「えぇ、それ多分酔ってたんじゃないっすかね?」と言うので、はあ、そうですか、とあなたは腑に落ちないような表情と声量で言う。

 あなたは釈然としなかった。

 『白の美術展』は、市内にある小さな美術館でこぢんまりと開かれている。その名の通りに、ありとありゆる白い美術品が各地から集う展覧会で、美術品の種類、時代から作風までばらばらな美術品群が展示されている。
 あなたは一度だけ、この美術館を訪れたことがある。それはあなたがまだ小学校にあがりたての頃で、母はまだ幼いあなたを連れて美術館へ出かけた。あなたは今でも、一つの大きな絵画を覚えている。色の薄い木の額縁の中には、青々とした平原が伸びやかに広がっている。その繊細な筆づかいは、当時目に映るものの中で、もっとも美しいものであるようにあなたは思えた。風になびく草のつるぎは、あなたがいつも弁当を食べるベンチから見える芝に似た、質の硬い若葉のようだった。
 脇坂は、コンビニで偶然会った日と同じ、紺のジーンズに緑の暖かそうなジャケットを羽織って待ち合わせ場所の駅に現れた。
「今日案外寒いですね、こんなに厚着する予定じゃなかったんですけど…」
 脇坂は、またあの青色の缶コーヒーを手に持っている。脇坂は上下の服装に加えて、飲んでいるコーヒーまで、あの日と同じだ。
 そうだね、とあなたは感情をこめずに言う。あなたの背を押す風がひんやりと涼しい。
 駅から電車で十五分ほどかかる場所にある、市内の小さな美術館は、土曜日の割には人が少ない。『白の美術展』は、五月から六月までの一か月間に開催され、「まあ、俺は初日に行ったけどね」と楠が自慢げに言っていたことを、あなたは思い出す。
 美術館の中は全体的に薄暗く、オレンジ色の儚い光源が白の陶器や壺の輪郭を浮き彫りにさせる。いつの間にか、脇坂は缶コーヒーを上着のポケットに押し込んでいた。薄暗い廊下の中、『微糖』のラベル文字がうっすらと見える。脇坂の顔は薄暗くてよく見えないが、美術品を見るたびに「う〜ん」とか「これはすごく白いな…」と言葉を発するので、あなたもうん、などと小さく相槌をうつ。
 純白色の美術品をあれこれ見て回りながらも、あなたはあのとき母の影で見た、大きな草原の絵画を探していた。あの絵画のことを思い出すと、あなたはどこか遠くへ行きたくなる。
 美術や芸術というものが、あなたにはよくわからない。その道の経験や知識がなければ、芸術品の佳さというものは十分に理解しがたいものである。脇坂はひとつひとつの美術品をじっくり見るというより、さまざまな作品を流すように見歩き、気になったものには足を止めてじっくり鑑賞する、という感じだった。脇坂が足を止める美術品には、あなたもできるかぎりの審美眼をもってそれを眺めた。
 そうこうしていると、美術館の順路の果て、つまりは出口にあなたと脇坂は出かかっていた。最後のスペースには大きさも作風もモチーフも違う、いくつもの絵画が黒色の壁に並んでいた。これまでの薄暗い空間とは打って変わって、このスペースだけは明るい光に満ちていた。唐突に現れた光にあなたは一瞬、めまいのような感覚を覚える。これまで暗がりの中で把握しづかった脇坂の表情も、あなたにははっきりと見えるようになっていた。やはり、アートはよくわからない、とあなたは思った。

 美術館を出た後、脇坂が「俺、今めっちゃ腹減ってて。一乃さんは腹減んないすか?」と言う。空はいつのまにか薄いオレンジ色で、腕時計を見るともう午後六時になろうかという時だった。そうだね、とあなたはそっけなく言う。というのも、あたりは都市圏とも郊外ともとれないへんてこな街並みで、本当にこのあたりに飲食店はあるのか、とあなたは少し不安になったのだ。あの草原の絵画が美術館になかったのと同じように、この街にも飲食店がないのではないかと、あなたは小さく危惧する。
 ふたりでしばらく歩くと、周辺は路地裏のような暗がりに包まれる。曲がり角を二回ほど曲がると、暗路の中で、一際まばゆく光る大衆居酒屋を見つけたのであなたと脇坂はほっとして、確かな足取りでそこへ入る。

 あなたと脇坂が訪れた居酒屋は、店構えからしてメキシカンテイストの様相を成していて、それはもう居酒屋というよりパブと呼ぶ方がふさわしい、とあなたは思った。店の中はとても騒がしく、仕事終わりのサラリーマンたちが所狭しと席を埋め、あなたと脇坂は唯一空いていた窓側の席につく。あなたの席のテーブルにはあなたの手のひらほどの大きさの鉢植えがあって、そこに小さなサボテンが植えられている。
 あなたが座ってから、店はますます大きな熱気と騒がしさに包まれていって、あなたも脇坂も、注文を終える前に水を飲み干してしまった。机の上にはサボテンの鉢だけでなく、その感触とデザインから手作り感が伺えるお店のメニュー表、プラスチックの容器から一部分だけが外に出ている紙ナプキンたち、レモンの切片が含まれている水のピッチャーが置かれていて、その中からあなたはメニュー表を取り広げる。あまりの人いきれに、脇坂はジャケットを脱ぐ。白いインナーのシャツが、意外にもそれだけで似合っているとあなたは思った。
 しばらくすると、あなたの机にはアルコールの類と、それに合うであろうジャンクフードが運ばれてきた。いただきます、とあなたは言う。それを見て、脇坂も「いただきます」と言い、そしてビールをあおる。あなたはビールのような苦い酒が得意ではないので、カシスオレンジを頼んだ。脇坂はピザをローラーで切っている。人々の雑踏に埋もれて聞き取りづらいが、店内には軽快なレゲエが流れている。もしも、今すぐ他のお客さんがこの店から消えたとしたら、その途端に音楽はとても大きな音で聞こえてくるのだろう、とあなたは思う。かすかな音の反響が、あなたには案外心地よかった。
 あなたと脇坂はそれぞれ料理を食べながら、鑑賞した美術品のことなどをぽつぽつと話した。あなたはこういった店に入ったことがなかったので、初めて食べるナチョスの美味しさには小さな感動を覚えた。脇坂がピザをひとピースくれると言うので、あなたもチキンをひとつかふたつ、ピザの皿に移す。テーブルの上の料理の、本当においしそうなにおいが、あなたの食欲を駆り立てる。熱気で濁った空気の中でも、テーブルの料理は鮮烈な香りを運んでくる。お腹が空いている時にこのにおいが現れて、食欲が湧かない人間がどこにいるのだろうかと、あなたは心の中で料理を絶賛した。
 しばらくすると、テーブルの上の料理はあらかた片付いてしまって、気づけばあなたのカシスオレンジは四杯目になる。脇坂はそれ以上にビールを飲んでいて、すこし酔っているようだった。脇坂はもうかなり汗をかいていて、頻繁に「暑いなあ」と口にして、またビールをあおる。
 まだ少し、あなたはなにかが食べたかったので、定番の枝豆や、セビーチェという海鮮系のマリネを頼み、脇坂はフライドポテトとソーセージの盛り合わせ、そしてビールを頼む。
「映画行きますか、今度」
 脇坂がレモン水を飲んでから言う。いいですけど、どんなジャンルの映画ですか、とあなたは尋ねる。あなたはホラー映画が苦手で、なぜお金を払っているのに脅かされなければいけないのか、といつも疑問に思っている。
「うーん、なんでもいいかなあ。戦争映画以外なら」
 あなたは携帯を取り出し、映画館のホームページをチェックする。今調べてます、とあなたはなにかを確かめるような口ぶりで言う。バナーでは、甘酸っぱい青春の恋愛を描いた映画がまず一番目にピックアップされている。
「あの!」
 突然、脇坂が大きい声をあげたのであなたは驚く。画面を打つ指を止めて、脇坂の顔を見る。誰かがこちらを振り向いているもしれないとあなたは思ったが、脇坂の声はあなた以外に届いていないようだった。
「一乃さん…俺、決めました!」
 脇坂はさらに声を張り上げて、なにかを打ち明けるように言った。人々の歓談の中で、ほんのかすかに、ジャズのような曲調のレゲエが聞こえる。今この瞬間も誰かのもとへ、料理が運ばれている。脇坂はそれ以上、なにかを言い出しそうで中々それを言い出さない。
 決めたって一体なにを、とあなたは尋ねる。あなたの中で、「俺、決めました!」という、脇坂の言葉だけが反復して、まるで今、あなたまでなにかを心に決めたような気がした。