人工太陽

 ぼくが浅野という男からの電話で叩き起こされたのは、ちょうど夢の中でそのレンガみたいな旧時代的建築が、その古めかしさを強く象徴或いは宣告するかのように外壁が一面緑色に苔むして久しい、無人の東京駅を訪れたときのことだった。その背後に聳え立つ高層ビルの団塊たちには等しく、草や蔓などの植物がそれぞれ不定形を為しながら思い思いに群生していて、それらが建物という巨大な箱から角ばった輪郭を消失させていた。不気味で、静かで、鳥の囀りすらも聞こえない。人間どころか、動物すらも存在しない。それを一言で形容するならば、野放しの世界だった。
 東京の都市部の真ん中に聳え立つ遺跡のような建築物の内実を、ぼくは知りたかった。第一ぼくは東京に行ったこともなければ、関西から出たことだって一度たりともないのだ。だからぼくは、東京の街並みなどほとんど知らなかった。ぼくが夢でみた東京の街並みには、ぼくの住むアパートの決して広いとは言えないベランダから見える景色に含まれる、低いコンクリートの垣に覆われた一軒家とか、ある時は閑静で、またある時はとても強い騒音にまみれる住宅街の真っ黒いコンクリートの地面とか、車のタイヤに撥ね付けられた泥が乾いてそのままになった道路標識とか、全体的に窪んで言い訳くさい、錆だらけのプレートに「とびだしちゅうい!」と書かれた看板とか、とにかくぼくにすごく身近なように東京市街地がローカライズされており、ぼくはそれが夢の中とはいえ、ちょっとがっかりしたことには何ら変わりなかったのだ。
 せっかくだからもう少しだけ、覚えている部分だけでも、夢で体験した出来事を綴りたい。夢というものは本当に短期記憶だ。この世で最も瞬間的な記憶かと言われれば、本当にそうかもしれない。フラッシュ暗算だって、それは紐解いてゆけばただ数字が羅列されただけでしかなく、全体としては、際限なく拡がるのではないかと思えるほどの奇妙な奥行きと空間を持っていて、それでなお、ぼくの精神状態次第で自由に伸びたり広がったりする夢の世界とは、まず質量が違う。物体としての重量、手触りが違う。色にも匂いにも、瞬間的に現れては消える数字は接続しない。
 それで、ぼくはといえば、東京で知っている地名なんて新宿、渋谷、原宿、東京ドーム、多摩、蒲田、港区、歌舞伎町、国会議事堂、東京タワー、スカイツリー、秋葉原、世田谷ぐらいのもので、まあこれには地名というか建築物もふくまれてるじゃねえかという思いも若干よぎるが、そうやって無理にかさましを図ってもなお、この程度しかぼくは東京を知らない。そんなだから、ぼくはなんてことのない路地を歩くにも、必要以上に、入念に気を入れてのぞむことになった。しかし、先程述べた通り、ぼくの見た東京はほんとうの東京を再現できているわけではまったくないし、それに基づいていうならぼくが夢の世界でさまようこの都市はもう東京ですらないのではないか。テセウスの船を思い出した。東京はテセウスの船だったのかと思った。いや、東京はテセウスの船などではない。東京は東京だ。ぼくが踏みしめるこの未曾有の大地が、テセウスの船だ。
 東京ではないものを東京というわけにはいかないので、いやだからこの不思議な街をなんと呼ぼうか考える必要があるのだけれど、そうは言いつつも「東京」という地名の原型は残しておきたく思ったからさてどうしようと考えを巡らす。イチから考えるより幾分かましだけれど、何かをもとにしてなにかを新しく生み出すということにはまた違った苦労が伴うもので、とにかくこんなことでくよくよしてはいられないとあらためて言葉を分解する作業に挑む。東京。トウキョウ。とうきょう、トーキョー、あずま、けい、あずまきょう、あずき、あず、あず、い…。粗く切断された単語のブロックを組み立て直して、新たな単語を生み出す過程で、しかしインスピレーションは降りてこなかった。東京を足したり引いたりする。ネオ東京。超東京。新東京はエヴァンゲリオンがいるからだめか。それなら、シン・東京はどうか。ダメだ、論外。調子に乗った。またも、テセウスの船をぼくは感じる。
 そんな具合に、意識ではすごくいろいろなことを考えていたような気がするけれど、この訳のわからない都市を「仮東京」と名づけるまでに多分一分もかからなかったと思う。それで名前が決まったからどうということはないのだ。いやどうってことはある。東京には人がいる。仮東京には人がいない。対比して人口が少ないとかそういうことじゃなくて、本当に人がいない。人がどこにもいない。誰もいない。人が多すぎるというのもストレスだが、人がいないというのもこれはこれで、とここは言うところだが案外そうでもなく、噂に聞いていた空気の汚さが、それはもう光学スモッグに近いのだと近藤が言っていた気がする。今思えば、近藤だって東京に行ったことがあるのかどうかわからない。そうして一度疑いはじめると、そのとき近藤がどんな顔をしてそう言っていたのか途端にわからなくなる。わからなくなるというより、今まで記憶していた表層が信じられなくなる。記憶が力を失う瞬間だった。そしてそれは言葉の認知にまで及び、とうとう近藤がほんとうに「東京の空気は汚くて、それはまるで光学スモッグみたいだ」という旨のことを言ったのかどうかさえもぼくの中では危うくなっていた。本来それは夢から覚めた直後の感覚というのがいちばんわかりやすいのだが、ぼくに至っては夢の中の話なのでそれはもう相当にいただけない話なのだ。
 ぼくは新東京の街並みから、新しさ、もしくは古さといったものをあまり感じなかった。そういった、街に対する感覚は、都市の構造だけでは成り立ち得ないのか。ひどく凡庸で、かつ機能的な街並みに個性を持たせるのが、どうも生物の担う役目でなければならないらしいということを、漠然と感じさせられる。どれほど仮東京に高層ビルが乱立していようと、どれほど仮東京に広い車道が整備されていようと、どれほど仮東京に公共施設を充実させようと、それらを利用する人間が仮東京のどこにもいないのであれば、それはただの砂漠と何ら変わりないのではないだろうか、地平線が見えないということを除けば黄昏の街で。
 時間帯がよくわからなかった。夢の外は確実に朝かも夜かもわからないような中途半端な時間で、ニュース番組などでは「未明」などと表現するほかないのだろうと思わずにはいられない狭間の時だった。仮東京のタイムゾーンはというと、まだ朝だと言われればそうかもしれないし、しかしもう昼だと言われればそれもそうかと思うだろう、つまるところはとにかく青い空だったのだ。マンション群がむやみに林立しているが、東京駅と同じくそれらはひどく苔むしている。これまで見てきた、仮東京の建築物の外壁には大なり小なり苔やシダなどが壁に張り付いて野暮ったく緑化していた、それはまさに生命体に秘せられた深い執着を表したそのものであり、言葉を知らない緑葉の梢は一体どこへ向かおうというのだろうか。生き物を知らないまま。
 大きい建物は特に、ひと繋がりの緑が全体を深く覆うようになっていて、緑色に腫れ上がっているとも言える。ここが仮東京でどのような位置づけのされている都市なのかはわからないけれど、とにかく建物は一つ残らず見世物のように緑化している。大きい建物のその膨大な体積や重量に比例して、絡む蔦や蔓の壁、苔の楽園が自らの世界を広げているのかどうか、それとも、元々の建物の大きさのために、それが大きければ大きいほど天に衝くように孤立していって、現実と何ら変わりのない青い空の抜け具合に向かっていくために、やや原色に近いぐらいのどきつい色合いの緑が際立って、それが余計に目立つのかはわからなかった。
 等間隔に現れる角を決して曲がらず、道なりにまっすぐ沿ってしばらく歩くと、次第に街はいっそう朽ちてきて、地面の亀裂からも苔が生え並んでくるようにまでなった。ぼくは今、なにかに近付いている、ぼくは直感した。仮東京のランドマーク的なものが近いのかもしれない。ぼくが歩いているのは表通りからひとつかふたつ外れているような街並みで、しかし突然影が拓けて大通りが現れるということも十分に考えうることであった。
 携帯で写真を撮ろうと肩掛けカバンに手を伸ばす。しかし携帯が無い。ぼくのギャラクシーがない。ぼくはあろうことか、ギャラクシーの携帯をどこかに落としたという可能性を早々に放り投げ、夢の世界には携帯電話の持ち込みは御法度なのか、と自分が今いる世界の非現実性を改めて実感し、それを敷衍したり、もしくは懐疑することなくぼくはそれに深く納得しまた歩き始めた。電柱は少し傾いており、それに伴って電線を包んでいた黒いビニールは破れて、薄い灰色の配線がむき出しになっていた。角度はちょうどピサの斜塔とトントンぐらいの傾きだったと思う。時折傾いていない電柱があるので、他の傾いている電柱との区間だけは、少し電線が弛んでいる。
 仄暗いは言いすぎにしても、グリーンカーテンの行きすぎた都市ビル群によって、本来届いているであろう太陽光は完璧に遮蔽され、ぼくの歩いている通りには断続的に影が落ちていた。我欲の強い植物たちめ、と特段うらめしく思うこともなく、逆三角形の「止まれ」の道路標識を無視すると、ぼくの前に路地と路地の切れ目、その間には三つの車線がふたつ、高速で言えば上りと下りセットでという具合であらわれた。その上に橋を架けるようにして横断歩道、そして歩行者専用の信号。白線の部分だけが、わずかに盛り上がっている。自動車もそうだが、信号はまったく意味を為さない。もっとも人がいないから、意味を為す意味こそ希薄であった。正反対の向きにそれぞれ車線が用意されているのは当たり前なので、別に改めて言う必要などないと思い直しながらも、ぼくはなにより眼前のその目新しい景色にわくわくした。こういうところには、多かれ少なかれ人がいる。少なかれというのも深夜とかの話で、普段こんなにも上天に太陽が昇っている中で、こんなにも人がいない、これは繰り返すようだが人がいないというのは対比とか言葉のあやとかそんなではなくて、本当にぼく以外の人間が誰一人として存在しない世界なのだ。でたらめに林立するビル群による遮蔽からようやく逃れると、太陽光はここぞとばかりに世界を照らし、それが反射してまた別のものを照らすようになった。普段こんなにも輝いているのかと、宛ら地中海あたりでよく用いられるような、とかくギラギラとした横断歩道の白線を見て思う。
 空の切れ目が見える。仮東京に降り注ぐ光は強く、それはもはや常識を外れるほど眩しくあり、しかし熱射の効能はさほど驚異的でなく、そうであるから汗という汗は決して身体から吹き出るということもなく体内に貯蔵されたままでいる。なるほどこれは都合のいい夢だと蹴飛ばして歩くと、途端に何だか意識が錯綜ぎみになってきた気がする。汗は出ないが身体は熱い。熱い熱い。乾布摩擦によって生まれる即物的なエネルギーを等倍等倍等倍に連結させ続けてちまちまと蓄積させたような熱が、血液をより速く速くと漲らせるから、それに合わせて吐き出される呼吸もブクブクと沸騰するように込み上げてくる。体内の熱が外気に触れている感覚がなかった。熱い。
 まるで、ぼくの肉体が人工太陽へと変貌したかのようだ。強い光に思わず目を閉じた時に、瞼の裏に残る強烈な赤い原色が今、視界の隅にちらと映る。熱で乾きつつある眼球でそれを追う視界の先には、透明度の高いガラスを何枚も継ぎ合わせた高層ビルが反射する細い光。色のない、透明な光線が視界の隅の赤いフィルターを通過して眼底に焼きついてひりひりと痛い。ぼくは何重にも光を屈折させるプリズムになった。まだ、視界の端へ端へと赤はゆらめいている。視界の中で赤の占める面積がどんどん増してくる。
 赤はただ単に増えるというよりも、膨らんでいる風に見える。熱線は緩やかに膨張していって、しまいには破裂するのかもしれない。分光が強まる。人工太陽のフレアがすぐそこに。涙が渇く。血の律動がゆがみ始める。神経毒に身を淅すように、ぼくの思考のラインから曲線が失われていく。意識の海に流涎するノイズの一切を断ち、ぼくは今、夢か現実か、生きるか死ぬかの二元論のみが存在し得る世界にいる。
 どこまでも真っ直ぐに延びてゆき、そして尽きることのない直線が、ぼくの中で立体となって浮き上がるのがわかった。その圧倒的なラインがすべてを過去形へと変えたとき、それまで何処かを彷徨い続けていた破裂の気配が、ついにぼくを探し出した。意識が破裂する。無人の東京に、ぼくが飛び散るぞ! エクスプロージョン、破裂への秒読みが聞こえる。それは紛れもなく、ぼくの拍動であった。呼吸が、血が、肉が脈打つ。皮膚の下からはどろどろと思考が溢れ出し、肌の上で蠢動している。強烈な予感。ぼくの心音だけが聞こえる。今ここに、世界のリズム全てが集約されている!
 すべてを撃ち抜くカウントダウン、心臓を象るハートマークに沿ってアークが弧を描ーく。あと約スリー、ツー、ワンで破裂。絶対的予感に指が震える。血が薄まる。爆発寸前の人工太陽。
 ぼくの意識は遠のくどころか、目眩になるほどの速度でぐるぐる廻るから、臨界点に達したぼくの体温も、世界の温度と等しいように感じられる。なおも加速は続き、体温は更に上がっていく。そしてレッドゾーンを振り切る。するとぼくの表面にみるみるうちに活火山の断裂部にも似た色の黒点が湧き立つ。肌の縫い目が徐々に張り裂け、ぼくの臓器に漲った温度が仮東京を包む。ミリ秒を刻ませないうちに、無数の蜃気楼が生まれた。赤の原色に滲む視界の端でどうにかそれを見る。眼球がちかちかして瞬く。双眼鏡よりも狭い視野を必死に動かす。肺に熱が溜まる。蒸気が前頭前野を駆け抜ける。呼吸が難しい。脈が信じられないほどに速く、逸脱したリズム、ビートが身体を燃やしながら人差し指を世界に突きつける誰かのまぼろしを見せたのと同時に、肉の焦げる匂いが鼻をつんと刺して、回転が止まったと思ったら、物凄いデシベルで破裂音が鳴り響き途端にぼくの肉体は鼓膜ごとバラバラになって飛び跳ねた。空を舞う無数の骨片が、霧状に飛散したぼくの血液を浴びて赤鈍色へと変色する。それきりで加速が止まった。そしてぼくの意識が吹っ飛ぶ。
 眼球だったなにか、予知夢のように東京駅、まるでジュークボックス。遠巻きに見えた、緑色に錆びた鉄橋のアーチが撓って、また空が抜ける。