書き薙ぐリ

 「家系」という言葉は使われるだけ使い倒されて、もはや現世においては古典の風格が漂うほど熟成されたものになっている。ぼくは店の最奥のカウンターの席に座っている。ぼくの手元にあるメニュー表は既に一巡も二巡もされている、しかし右隣に座るミヤシタは未だに悩む様子を覗かせる。つい携帯を見やる、残念なことにこの無意味な時間を忘れさせる程、目新しい知らせは届いていない。ぼくは少し自信をなくして携帯を置く。目で追うメニューは三巡目に入る、手に伝うザラザラとしたメニュー表の感覚もまた、三巡目に入る。
「すいませーん!」
 ミヤシタがだしぬけに大きい声をあげたので、ぼくは慌てて俯いていた顔を上げる。店員がミヤシタの声に呼応する。ミヤシタの表情は僅かに揺れるサイドの髪に隠れて見えない。


 サイバラの態度に、ハヤミが異変を感じ取ったのは先週の土曜日の夜であった。ハヤミがバイトから帰ってきて、まず異変として映ったのは、アパートの部屋に光源が存在している事であった。ハヤミのバイト先からアパートまでは自転車で約10分の距離があり、かつ土曜日のサイバラはハヤミより一時間遅くまでバイトが入っている。ハヤミが余程の寄り道でもしない限り、サイバラがハヤミより早くアパートに帰っているなんてことはちょっと考えにくい。電気を消し忘れていたのか、とハヤミは考える。ハヤミは背伸びにも似た感覚で、上着を脱ぎ脇に緩く挟む。ハヤミは寝室へと身を進める。
 サイバラは寝室に座り込んでいた。いつになく呆けた表情で。端坐を崩したように座り込む、と言うよりかは、彼の周囲だけが強力な磁場の中にあり、何とか保っていられるのがその姿勢だけであるように見えた。
⸺帰ってたの。
 ハヤミは声を掛ける。サイバラは何も言わない、ハヤミのことを認めているのかもわからない。ハヤミの言葉は空を切ったようで、晦冥に浮かぶオブジェクトの輪郭はまだきれぎれにしか見えないのだった。
 ハヤミは寝室の明かりをつける。今できることがそれぐらいしかないように思えた。身体は動かなくとも、視覚は幾分か機能している様で、サイバラは光に怯えるよう、しかし表情を産む事無く深く目を閉じるばかりであった。思わずハヤミは安堵した。秋風は冷える、しかしそれだけでは不自然なほどに、サイバラの身体がひどく冷えていることに気づいた。


 スープの小さな海は豚骨色に深く濁っている。陸地のように、個性豊かな具材たちが海に浮かぶ島々や大陸としても見える。器の中は小惑星の様相を成しており、これなら陸地と海の比率は半々かな、とぼくは思った。半透明な油のベールは大気圏で、それならばぼくは月か太陽か。このラーメン屋はまるで小宇宙で、顔が大きいミヤシタは土星か、とあれこれ考えながらぼくは麺を啜る。その横で、ミヤシタは炒められたことで黄色に染め上がった米の集積体と、まるで温度の低い太陽に押し付けられた半月のようにも見える焼き餃子とを、交互に食べ進めている。遠巻きに見たとしても、その姿はどこか生き急いでいるようにしか見えない。屠るような食べ方に鼻持ちならないところを覚えたぼくは箸を止め、器に鉄橋を架けるように休ませた。揺れた海に波が生まれる。
「あのね、もうちょっとゆっくり食べてほしいな」
「え?」
 ミヤシタは顔を上げる。憮然としたような表情を浮かべている。どうせ割り勘なんだから勝手にさせてくれ、とでも言いたげな表情には、さすがにぼくも少し腹を立てざるを得ず、
「あのね、大体ここはラーメン屋なんだからなにかしらのラーメンを頼むべきなんじゃないかな。そのムーブが許されるのは中華料理屋だけだと思うよ」
 ぼくはなぜか語気を強めて言った。その一方で、そんな勝手なことを言っては店員さんも気の毒だと思い、横目でチラチラ様子を伺う自分が少しだけ癪だった。店にはぼくたち以外の客は誰一人としていなかった。


 あの日のサイバラは、確かに様子がおかしかった。大丈夫か、というハヤミの呼びかけに意識を取り戻したのか、サイバラは緊張の糸が解れたように目を開けたかと思えば、凍っていた身体を震わせながら何かをぼそぼそと呟くことで痛覚を取り戻したのか、縺れる舌で足の痺れを涙ながらに訴えたのだった。
 ハヤミは何度も心配の言葉をかけたのだが、サイバラは意に介さずといった感じで、何度も何度もしきりに大丈夫、今日はバイト休んだだけだから、とハヤミに言い聞かせるだけで、なぜあのような状態に陥ってたのかという肝心な話は有耶無耶にされてしまった。ハヤミにはそれが不思議でならなかった。強張る顔の肉が、より一層不信感を募らせた。
 幸か不幸か、あれ以降サイバラがあの時のような恐ろしい状態に陥ることはなかった。しかしハヤミは、サイバラがいつあの時のような事になってしまうのかわからないと、どうしても強い不安を取り去ることが出来ずにいたのだった。そこでハヤミは、大学の同級生であり、尚且つ最も仲の良いヒロキに相談を持ちかけることを思いついた。
 ヒロキをファミレスに呼び出したハヤミは、あの日のサイバラの様子と、胸中のモヤモヤをできるだけわかりやすく伝わるように意識して話した。
⸺盗聴してみるってのはどうだ?
⸺そんなことできるのか?
 ヒロキは機械に強い。ハヤミは、俺はパソコンに関する資格を何個か持っている、と飲みの席で得意になるヒロキの顔を想像した。
⸺もしかすると、サイバラは麻薬を吸ったのかもしれないぞ。
⸺麻薬?
 ハヤミは瞠目の表情を浮かべる。確かに、大学内で麻薬の取引が密かに行われているという先輩のきな臭い噂話は耳にした事があるが、今日の今日になってこんなにも現実味を帯びた話になってくるとは万の一の予想もしていなかった。
⸺最近、多いらしいぞ。特にテニサーの連中とか。
⸺へえ、そうなんだ。
 ハヤミは話の整理がつかないといった表情を浮かべながらヒロキの話に相槌を打つ。
⸺近いうち、サイバラだけが家にいる日は作れるか?できれば長時間。
 ヒロキがこんなにもサイバラを疑ってかかるのにハヤミは驚いた。サイバラとヒロキは中学からの親友だと聞いていたのに、ヒロキはサイバラを信用していないのかとハヤミは思った。
⸺サイバラがバイト入れていないのは日曜だけだけど。
⸺決まりだな。
 ハヤミは少しモヤモヤしつつも、小型の黒い盗聴器をヒロキから受け取る。いつもこんなものを持ち歩いているのか、とハヤミは思った。
 ハヤミには、盗聴という響きはどこか安いものに思えて仕方なかった。


 ミヤシタはぼくより先に炒飯と餃子を平らげたので、ぼくがラーメンを味わう姿を暇をつぶすようにぼうっと見ていた。透明なコップに注がれた水を少しづつ飲みながら、携帯とぼくとを交互に見遣っていた。それはまるで、先程まで焼き飯と餃子を交互に食べていたのにそれが無くなってしまったから、何かを交互に行うという行為に孤独を感じ、それをぼくで埋め合わせているようで、やはりぼくは鼻持ちならないのだった。
「あのなあ、ガツガツ食うからそんなことになるんだぞ。もっとゆっくり味わって食べるべきだったんじゃないのか?」
 ミヤシタは卓上のピッチャーを手に取り、コップ一杯に水を注ぐ。
「だってしょうがねえだろ。腹が減ってちゃ何もできねえよ」
「お前がラーメンを頼んでさえいれば、替え玉できたのにな」
「それは」と、ミヤシタが何かを言いかけたところで電話が鳴る。慌ててぼくが携帯に目を遣ると、大袈裟な緑と赤のインタフェースが目に飛び込んできた。携帯のディスプレイには「ハヤミ」と表示されている。


 ヒロキとミヤシタがハヤミのアパートに着いたのは、ちょうど午後五時に差し掛かる頃だった。しかし、なぜミヤシタまで引き連れてきたのかがハヤミには分からなかった。二人は仲が悪いわけではないが、別に普段から気兼ねなく話せる間柄でもなく、そのためにハヤミは複雑な感情を抱かざるを得ないのだった。
 この日、サイバラは五時から七時までバイトを入れており、ハヤミがヒロキに電話をかけたのはその為だった。
⸺それで、本当にこのパソコンに大麻が?
 ハヤミ、ヒロキ、ミヤシタがリビングに会する。机には、サイバラのタワー型パソコンが置かれていた。髑髏のステッカーが天辺に貼られていて、ハヤミはそれを良く思っていなかった。ありていに言うと、趣味が悪いと思っていた。
⸺ほら、俺はパソコンの解体なんてできねえだろ。だから、それを鑑みてサイバラはこの中に入れたんだろうな。
⸺でも、なんでこの中に大麻が入ってるってわかったんだ?
 ミヤシタは目を見開いて聞く。
⸺盗聴音声の中で、何かでっかい機械をいじってるような音がしたんだ。その音が止んだと思ったら、今度は袋を開ける音がして、それから不自然な呼吸が入った後、サイバラが突然大きな声を出したもんだからさ。
⸺それは黒だろ。
⸺だから、パソコンの解体ができそうなお前を呼んだんだ。
 ハヤミがヒロキを指差して言った。ヒロキがもたれ掛かっている壁にはコーヒーのような茶色の色素が付着している。

 程なくして、三人はパソコンの解体に取り掛かった。と言いつつも、実質的に技術があるのはヒロキとミヤシタの二人で、ハヤミは必然的に解体作業からあぶれてしまう。二人の作業をぼうっと見ていると、ハヤミは自分に何かできないだろうかと思わずにいられないのだった。
 外はすっかり夕暮れで、太陽のオレンジ色が慕情にも似た感情を思い起こさせた。ハヤミはベランダに身を乗り出し、オレンジ色の光を浴びる。
 サイバラと同居を始めたきっかけなど、あれこれ思い浮かべる。そのうち、ハヤミの中でサイバラを信用したいという気持ちが大きくなっていくのが分かった。
 夕風に触れたハヤミには、様々な音が聞こえていた。薄いカーテンレース越しに聞こえるヒロキの声や、プラスチック器具が響き合う音ばかりでなく、室外機の音はハヤミの部屋以外からも重なるように聞こえる、何かを優しく炙るような熱っぽい音からは、何処かの住人がガスを沸かしている事がわかる。恐らく路地裏だろう、バイクが駆け抜ける音がする。騒ぐような子供の声は団地の公園の方から聞こえる…。カチャン、という自転車の心地よいラチェット音が、駐輪場の方から聞こえる、それは体調を崩して早退したサイバラの自転車に違いない。このときばかり、ハヤミはオレンジの光に意識を掠め取られたかの如く意識的に、音像の正体に気付けないのだった。


 夕陽と争うように、常夜灯が目映く光っている。長く延びた自転車の影の閾を、殺原遥が縫うように駆け抜けていく。