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依存の反対は自立ではない

「依存の反対は自立ではなく、より多くの依存」

mac のメモ帳を整理していたら数年前に読んだ記事についてのメモがあった。

きっと「よし何か書こう!」という意気込みに溢れた後、数日たちすっかり消えてしまったに違いない。

そのメモはこう書いてある。

「依存の反対は自立ではなく、より多くの依存」

なかなかキャッチー。

そして、わかるような、わからないようなw

世の中一様にとまではいかないが、異口同音に「自立型人材」のようなことを求めていたり、「自立」するということを大事にする空気がある。

この「自立」って言葉には人それぞれ様々な意味が含まれていて、一人ひとりの定義があると思うのだが、ここで言いたいのは

自立ということは「多くの依存先がある」ということだ。


このメモの元ネタである東京大学准教授の熊谷先生のこの記事はとても大きな示唆があった。


https://www.univcoop.or.jp/parents/kyosai/parents_guide01.html


彼は脳性麻痺の障害を持ちながら、小児科医としても活躍、障害と社会の関係について研究している。

抜粋
自立とは「依存先を増やすこと」
 親は、「社会というのは障害者に厳しい。障害を持ったままの状態で一人で社会に出したら、息子はのたれ死んでしまうのではないか」と心配していたようです。でも、実際に一人暮らしを始めて私が感じたのは、「社会は案外やさしい場所なんだ」ということでした。
 大学の近くに下宿していたのですが、部屋に戻ると必ず友達が2~3人いて、「お帰り」と迎えてくれました。いつの間にか合い鍵が8個も作られていて、みんなが代わる代わるやってきては好き勝手にご飯を作って食べていく。その代わり、私をお風呂に入れてくれたり、失禁した時は介助してくれたりしました。
 また、外出時に見ず知らずの人にトイレの介助を頼んだこともあります。たくさんの人が助けてくれました。こうした経験から次第に人や社会に関心を持つようになり、入学当初目指していた数学者ではなく、医学の道を志すことを決めたのです。
 それまで私が依存できる先は親だけでした。だから、親を失えば生きていけないのでは、という不安がぬぐえなかった。でも、一人暮らしをしたことで、友達や社会など、依存できる先を増やしていけば、自分は生きていける、自立できるんだということがわかったのです。
 「自立」とは、依存しなくなることだと思われがちです。でも、そうではありません。「依存先を増やしていくこと」こそが、自立なのです。これは障害の有無にかかわらず、すべての人に通じる普遍的なことだと、私は思います。


最後に熊谷さんが言っている、「普遍的なことだ」というのはその通りだと思う。


「それまで私が依存できる先は親だけでした。だから、親を失えば生きていけないのでは、という不安がぬぐえなかった。でも、一人暮らしをしたことで、友達や社会など、依存できる先を増やしていけば、自分は生きていける、自立できるんだということがわかったのです。


この文章はこう入れ替えてみると・・・・

「それまで私が依存できる先は会社だけでした。だから、会社を失えば生きていけないのでは、という不安がぬぐえなかった。でも、副業をしたことで、会社以外の依存できる先を増やしていけば、自分は生きていける、自立できるんだということがわかったのです。」


なかなかの仕上がり。会社、副業と言うのはあくまで一例。

依存先は親でも会社でも同棲中のパートナーでも登録している研修会社でもなんでもいい。要は自分がそこ以外に依存できる場所がない。そこに依存しないと生きていけないと感じる状態。

これを読んで思ったことは「自立」は人に頼る頼らない、みたいな話ではなく自分で選択できる自由があるかどうかなんだと。依存先の選択肢があるのかどうか?

自分の経験として、独立したからと言って、選択できる自由があるのかは別だなと感じることも多い。(会社にいても選択できる自由がある人もいる)

独立した年に震災があった。多くの仕事が延期になった時に、友人が仕事をふってくれた。

ありがたかったのと同時に自分のこれからに向けては優先順位の高い仕事ではなく、その意向を伝えて短い契約期間を終えた時、延長して欲しい旨申し出を受けた。感謝の気持ちはあったがお断りして、コーチングに集中することをその時は選択できた。でもこれは僕の意思の話だけでなくその時に依存できる先、僕にとっては個人のクライアントさんがある程度いたことや、リーダーシップの学びを共にした仲間が僕の意向を知っていて、仕事を打診してくれていたことが多かった。

これは今書いていて気づいたことで、自分が学んだコミュニティの仲間など、依存できる先としていくつかあったことに気づく。これがなかったら、もしかしたら自分で選択することが結構難しかったのかもしれない。

どういう学びのコミュニティが依存できる場所になるだろう?どこかで書いてみたい(覚書 for me)


もとい。

人と会社は対等で入れるのか?

この数年、僕はなぜ独立してまでコーチングや組織開発などの仕事をしているのか考えてみると根底にある問いとして「人と会社は対等で入れるのか?」というものだった。


対等ではない関係が無意識的に世の中の大半を占めているのでは?という僕の中の大いなるおもいこみでもあるが、同時に対等な関係がお互いが本領発揮ができたり、生きている実感がより大きいという願いでもある。

「会社に依存するしか生きれない。」と無意識に思いながら会社と対等な関係は築けない。そこがなければ生きていけない全体なのだから、結局自分のパワーを相手に明け渡すしかないのだ。

Co-Active というアプローチを通して企業で働く人たちがより対等で協働的なコミュニケーションで本領発揮することを応援したい。そしてその前提は選択できる自由があるかどうか?が本当に大きいという体感がある。

「収入源が多岐にわたっている」だけの話ではなく、いざとなった時に助けを求められる、依存できる場所があることがその人自身の「自立」につながる。

「自立は、より多くの依存」


直感的にこれは多くの人を自然体に、そして力の出る方向にむかう見方になるのでは。少なくとも僕にとってはそうだ。


そして体験的には、「収入源を複数もとう!」というよりも、「何かあった時に頼れるコミュニティや仲間がいる」ということがより本人の自立を後押しする実感がある。

最後に「自立」という言葉に対応する英語がいくつかあるが、”Independence” という言葉の語源について調べてみた。


independence
in-「否定」de-「下へ」pend「ぶら下げる」-ence「もの、こと」
別のものにぶら下がらないこと

・・・・・

文章の終わり方に困ったときは語源調べ。

語源から、何か本質的な示唆やこれまでの主張を強化してくれることがある、という困ったときの依存先。


今回はうまくいかず。
「より多くの依存」的なニュアンスが語源にあれば・・・。

世の中そんなに甘くなかった。他の依存先を探そう。

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