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◆小林秀雄、岡潔『人間の建設』新潮文庫、2010年(初出1965年)読了。岡潔、授業で読んだときは反発を覚えることが多々あった。今読むとすべて肯首できる。本の読み方が変わったのだろうか。

「小林 私の家に地主(悌助)さんという絵かきさんがときどき来るのですが、この人は石や紙ばかりかいているのです。私はその人の絵を個展で買ったのですよ。大根が三本かいてある。徹底した写実でして、それを持って帰って家内に見せたら、この大根は鬆(す)がはいっている。おでんには駄目だと言うのです。それほどよくかいてある。」p.16,17

「小林 ベルグソンは若いころにこういうことを言っています。問題を出すということが一番大事なことだ。うまく出す。問題をうまく出せば即ちそれが答えだと。この考え方はたいへんおもしろいと思いましたね。いま文化の問題でも、何の問題でもいいが、物を考えている人がうまく問題を出そうとしませんね。答えばかりだそうとあせっている。
岡 問題を出さないで答えだけを出そうというのは不可能ですね。
小林 ほんとうにうまい質問をすればですよ、それが答えだという簡単なことですが。
岡 問題を出すときに、その答えがこうであると直観するところまではできます。できていなければよい問題でないかもしれません。その直観が事実であるという証明が、数学ではいるわけです。それが容易ではない。哲学ではいらないでしょうが。」p.69,70

「岡 ギリシャには、小我を自分と思っているが、それが間違いであるという思想はないのです。しかし肉体的な健康にはかないません。日本人には真似できないものです。私は日本人の長所の一つは、時勢に合わない話ですが、「神風」のごとく死ねることだと思います。あれができる民族でなければ、世界の滅亡を防ぎとめることはできないとまで思うのです。あれは小我を去ればできる。小我を自分だと思っている限り決してできない。「神風」で死んだ若人たちの全部とは申しませんが、死を恐れない、死を見ること帰するがごとしという死に方で死んだと思います。欧米人にはできない。欧米人は小我を自分だとしか思えない。いつも無明がはたらいているから、真の無差別智、つまり純粋直観がはたらかない。従って、ほんとうに目が見えるということはない。欧米人の特徴は、目は見えないが、からだを使うことができる。西洋音楽の指揮者をテレビで見ておりますと、目をふさいで手を振っている、あれが特徴ですね。欧米人の特徴は運動体系にある。いま人類は目を閉じて、からだはむやみに動きまわっているという有様です。いつ谷底へ落ちるかわからない。
小林 あなた、そんなに日本主義ですか。」p,139,140

「(小林)「論語はまずなにを措いても、「万葉」の歌と同じように意味を孕んだ「すがた」なのです。古典はみんな動かせない「すがた」です。その「すがた」に親しませるという大事なことを素読教育が果たしたと考えればよい。「すがた」には親しませるということが出来るだけで、「すがた」を理解させることは出来ない。とすれば、「すがた」教育の方法は、素読的方法以外には理論上ないはずなのです。」p,145,146

「岡 理性というのは、対立的、機械的に働かすことしかできませんし、知っているものから順々に知らぬものに及ぶという働き方しかできません。本当の心が理性を道具として使えば、正しい使い方だと思います。われわれの目で見ては、自他の対立が順々にしかわからない。ところが知らないものを知るには、飛躍的にしかわからない。ですから知るためには捨てよというのはまことに正しい言い方です。理性は捨てることを肯(がえん)じない理性はまったく純粋な意味で知らないものを知ることはできないつまり理性のなかを泳いでいる魚は、自分が泳いでいるということがわからない。」p.147
→「理性は捨てることを肯(がえん)じない」良い。

◆「ピカソのああいう絵は、無明からくるものである」(p.14)と岡は言う。「人は自己中心的に知情意し、感覚し、行為する。その自己中心的な広い意味の行為をしようとする本能を無明という」。さて、芸術は「個性」というものについて「やかましく言っている」が、岡は「その個性は自己中心に考えられたものだと思っている」。「本当はもっと深いところから来るものであるということを知らない」のだ。
 ではどうするか。一つは、無明を捨てること。「人は無明を押さえさえすれば、やっていることが面白くなってくると言うことができるのです。たとえば良寛なんか、冬の夜の雨を聞くのが好きですが、雨の音を聞いても、はじめはさほど感じない。それを何度もじっと聞いておりますが、雨を聞くことのよさがわかってくる。そういう働きが人にあるのですね。雨のよさというものは、無明を押さえなければわからないものだと思います。数学の興味も、それと同一種類なんです」(p.15)。
 無明を押さえること、それはでも、個性を失うことを意味するわけでは、おそらくない。岡は個性についてこう書く。
「小林 岡さんがどういう数学を研究していらっしゃるか、私はわかりませんが、岡さんの数学の世界というものがありましょう。それは岡さん独特の世界で、真似することはできないのですか。
岡 私の数学の世界ですね。結局それしかないのです。数学の世界で書かれた他人の論文に共感することはできます。しかし、各人各様の個性のもとに書いてある。一人一人みな別だと思います。ですから、ほんとうの意味の個人とは何かというのが、不思議になるのです。ほんとうのの世界は、個性の発揮以外にございませんでしょう。各人一人一人、個性はみな違います。それでいて、いいものには普遍的に共感する。個性はみなちがっているが、他の個性に共感するという普遍的な働きをもっている。それが個人の本質だと思いますが、そういう不思議な事実は厳然としてある。それがほんとうの意味の個人の尊厳と思うのですけれども、個人のものを正しく出そうと思ったら、そっくりそのままでないと、出しようがないと思います。一人一人みな違うから、不思議だと思います。漱石は何を読んでも漱石の個になる。芥川の書く人間は、やはり芥川の個をはなれていない。それがいわゆる個性というもので、全く似たところがない。そういういろいろな個性に共感がもてるというのは、不思議ですが、そうなっていると思います。個性的なものを出してくればくるほど、共感がもちやすいのです」(p.26,27)。
 個であるままに普遍に通じること、ここに「ほんとうの意味の個人の尊厳」を置く岡潔の人間観には深さがあると思う。詩とは人間の尊厳そのものなのかもしれない。


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