1/5 

◆ロバート・ダーントン『革命前夜の地下出版』(岩波書店、1994年)革命前夜の地下出版 (NEW HISTORY) | ロバート ダーントン, Darnton,Robert, 素子, 関根, 宏之, 二宮 |本 | 通販 | Amazon。全体を斜め読みの後第1章のみ精読。個人的に、歴史学の方法論や18世紀フランスの啓蒙思想あたりの学習に今後役立っていくのではないか。シンプルに面白く読みやすい歴史書。

◆方法論。「一枚の大きなタブロー」ではなく「一連のスケッチとして書くこと。「印刷術が揺り動かした世界は、それ自身の「人間喜劇」をうちに秘めているのであり、そのドラマは、あまりに豊か、あまりに複雑なので、一巻の書物のなかに封じこめることはできない。そこで私は、体系だった研究はのちの著作に委ね、そのもっとも興味深い部分だけを素描しようと試みたのである」。訳者によれば、彼の真骨頂は「史料を読むことにいかに熱情を注ぎ、またそれをいかに愉しんでいるかを目のあたりにすることができた」ことにあるという。

◆訳者あとがきでは、その方法がカルロ・ギンズブルグらの「ミクロストーリア」や、プリンストンでの同僚クリフォード・ギアツのいう「厚い記述」と重ねられる。また、ダーントーンの数量的アプローチ批判は、その後ロジェ・シャルチェによってより原理的なかたちで展開されるが、それを踏まえた上で数量的分析の可能性を論じた論文として長谷川輝夫「書物の社会史と読書行為」(『思想』812号、1992年2月)が紹介されている。
→クリフォード・ギアツ読む。

◆第1章、越野章史先生のコンドルセ論文(「フィジオクラートとしてのコンドルセー1776年の公教育論―」(『教育科学研究』20号、2003年)みやこ鳥 (nii.ac.jp) を 思い出しながら読む。「最後のフィロゾフ」と言われるというコンドルセの評価。

「したがって、啓蒙思想と革命の結びつきを明確にしようとするならば、アンシアン・レジーム下の文化世界の構造を検討し、形而上学の高みから下りて、底辺にまで入り込むことが必要なのだ。底辺からの分析規準によれば、後期啓蒙思想は飼い馴らされたもののように見える。ヴォルテールの『哲学書簡』は一七三七年には爆弾のように炸裂したと言えるが、一七七八年にヴォルテール礼讃が行われた時までに、フランスはそのショックを吸収してしまった。彼の後継者たちの仕事には、ショッキングなものは何もなかった。というのも、この連中はみな「上流社会」の中に吸収され、包みこまれてしまったからである。もちろんコンドルセのような例外を数えなければならないが、シュアールの世代のフィロゾーフは、奇妙なことに言うべきことをほとんど持っていなかったのだ。(中略)こうして彼らがヴォルテールの境界で肥っていったその間に、革命の精神は、底辺にうごめく飢えで痩せこけたどん底の住人たち、貧窮と屈辱によってルソー主義のジャコバン的解釈を生み出した文化的賎民(振り仮名:パリヤ)の方へと移ったのだ。」p.52,53

「旧来のエリートの多くは、コンドルセ、バイイー、シャンフォール、ラ=アルプのようなアカデミー会員ですら、自分たちが権利を享受してきた機関の打倒に反対しなかった」p.51

◆啓蒙思想家の特権にあずかれなかった側(地下出版側)にとってのルソー(越野論文のエピグラフにもルソーの引用)。

「この俗流ルソー主義――これは「どぶ川のルソー」Rousseau des ruisseauxたちにとってごく自然な呼び名であるが―――は、フランスの上流階級の文化やモラルをルソーが否定したいたことと関係があるだろう。どん底の住人はジャン=ジャックを自分たちの一員だと見ていた。彼の経歴を辿ることによって、彼らは自分たちの願望の実現を夢想しただけでなく、自分たちの失敗にも慰めを見出すことができたのである。ブリソーやマニュエルのような典型的誹謗文書作家と同様ブルジョワから外れていたルソーは、その後彼らの境遇を離れて「上流階級」へと上って行き、この社会の真の姿を見て、他でもないエリートの文化そのものが社会の腐敗の要因であることを明らかにしたのだったが、働く階層の出身で半ば文字を識らなかった妻と共に、どん底に相接するような場でのつましい生活へと戻り、そこで純粋かつ浄化されたものとして死を迎えた。三文文士たちはルソーを尊敬し、ヴォルテールをひどく嫌った。社交界のひとヴォルテールは、ルソーを「哀れな男」と呼んで蔑み、ルソーと同じ年に、「上流社会」の胸に抱かれて死んだからである。」p.47,48
→ルソーは1712生まれ、1778年死去。

◆その他引用。

「英雄的啓蒙主義から後期啓蒙主義への移行は、「上流社会」と融和させ、滅びゆくアンシアン・レジーム最後の日々の「甘い生活」に浸らせることにより、啓蒙の運動を飼い馴らされたものにしてしまったのである。」p.20

「底辺世界の拡大についての情報は逸話的な資料に由来するもので、統計的なものではないのは確かである。マレ=デュ=パンは、相当数の三文文士を含めて三〇〇人もの物書きがカロンヌの年金に応募したと主張し、次のように結論した。「パリは、ちょっと文章が書けるからといって、それを文才と思い違いをした若者たちや、物書きをもって任じ、飢えにさまよい、物乞いをも辞さず、パンフレット書きに性を出す、書記・小役人・弁護士・兵隊といった連中で、あふれている」。」p.22

「世紀初頭よりは、出版者はいくらかよい条件を提供するようになったとはいうものの、著者たちは、原稿にたいしてろくな支払いをしない書籍商・印刷業者組合の親方たちと、まったく支払わない偽版(海賊版)出版者に挟撃されていたのである。」p.26

「世紀半ばの偉大なフィロゾーフの中で、ディドロ以外に誰も書物が売れたことによって生活しえたものはいない。そのディドロも、どん底暮らしから完全に解放されていたわけではなかった。メルシェは、彼の時代には、たった三〇人ばかりの紛れもない「職業作家」だけが、文筆で生活を支えていると述べている。」p.26

「アンシアンレジーム最後の二、三〇年間には、サロンはますます、高い地位にのぼったフィロゾーフの領分になって行った。その代わりに彼らは、カフェをもっと地位の低い文士たちに引き渡したのである。カフェはサロンの正反対のものとして機能した。これは誰にでも開かれており、まさに道路から一歩踏み込めばよかった。もっとも、路上の生活との距離には、カフェにより程度の違いはあったけれども。高名な人びとはプロスコープレジャンスに集まったが、一段下がる者たちはパレ・ロワイヤルの名高いカフェ、カヴォ―に集合し、もっとも惨めな三文文士たちはプールヴァ―ル沿いのカフェに出入りした。彼らはそこで「ペテン師・兵隊徴募人・スパイ・すり」などの地下世界と混じりあっていた。「ここには、ポン引きや、男色者や男娼しか見つからない」。」p.30,31

◆第5章。猫殺しのエピソードは『猫の大虐殺』(岩波現代文庫、2007年)がより詳しい。

「残酷さの中の儀礼の要素は注目に値する。なぜなら、儀礼は、アンシアンレジームの民衆文化の中に満ち満ちており、とくにマルディ・グラの期間中は、下層階級の人びとは、しばしばおふざけの公開処刑で終わる儀式で、世界をひっくり返してみせるのであった。猫を断罪することで、印刷職人たちは象徴的に親方を裁判にかけ、ストリート・シアターカーニヴァルと騒々しい魔女狩りの混沌の中で、彼らの不満を爆発させたのだ。
 こうした材料から引き出される結論は、印象主義的になりがちである。しかし、私が了解するのは次のことである。まず第一に、仕事の道具とか身近な仕事についての会話のような、特定のもの、具体的なものの大いなる強調であり、また、「ここ」と「いま」、身近の事物や直接的な関係からなる日常的世界への一般的な関心である。労働者はこの世界を儀式で飾り、これをジョークで活き活きとさせる。そこでは仕事そのものが、集団の儀式、通過儀礼、楽しみを必然的に含んでいたのである。仕事と遊び、労働と今日「レジャー」と認められているものとの間に、明瞭な区分けの線はなかった。
「レジャー」とは、
一日に一二時間、一四時間、ないし一六時間ものあいだ、仕事と遊びを区別なく混ぜ合わせていた一八世紀には存在しなかった現象である。
 同時に、ジョークと隠語とが、こうした仕事の不安定性と不規則性―――暴力・飲酒・貧困化・不意の離婚・そして一時的解雇―――を強調していたのである。仕事とは職人たちの隠語でいう「一巻もの」labeur、つまりそれは、特定の会社に常勤のかたちで雇用されるというのではなく、ある書物一巻を請負うのであり、偶発的のようなかたちで生じるものであった。」

→大変面白い。『猫の大虐殺』必読。サラリーマンにとっての初期映画と印刷工にとっての猫殺しはどう似ていてどう違うのか。

「こうした粗末なメディア(「手書き新聞」のようなパンフレットや「口伝えのニュース屋」――引用者)で、政治は、国王、宮廷貴族、大臣、そして愛妾たちの戯れ事として、どぎつく報道された。宮廷の彼方で、そしてまた、サロンを舞台とする社交界のスターたちの足許で、「一般大衆」は噂を喰って生きていたのだ。そして「一般読者」は、政治を、悪役と英雄はいるが争点のない―――善と悪との、またはフランスとオーストリアとの死闘はたぶん別として―――、自らは参加することのないスポーツとみなしていた。一八世紀の一般読者はおそらく「誹謗文書」を、近代のこれと対応する読者たちが雑誌マンガ本を読むように読んだのであろう。しかしこの人びとは、これを冗談にとったりはしない。というのは、悪役や英雄は読者にとってまさに現実のものであったからである。彼らはフランスの支配をめぐって戦っていたのだ。政治は生きた民間伝承であった。そういうわけだから、一般読者は、フランス社会の上層部における性病、男色、妻の不貞、私生児、そして不能についての興味をそそる話を『噂の真相』La Gazett noireで楽しんだあとで、「売春宿からまっすぐに王位へと進んだ」デュバリー夫人の描写に、納得したり憤慨したりしたのだった。
 これは『社会契約論』よりも、危険な宣伝であった。この宣伝は、大衆をその支配者に結び付けていた礼節の感覚を切断した。暗黙の道徳主義が、庶民の倫理観と「お偉方」の倫理観とを対立させた。なぜなら、誹謗文書は、いたって卑猥であるにもかかわらず、いたって道徳的でもあったからである。たぶん、それは、革命の間に結実するに至るブルジョワ的道徳を普及させさえしたのだった。」p.263,264

「書籍商にとっての「哲学書」と、警察にとっての「有害図書」のあいだに、ほとんど違いはない。重要なのは、その地下出版としての共通性であって、双方とも、非合法性において同格であった。シャルロとルソーは、合法的な社会の柵のそとでは兄弟だったのである。」p.268

「これらの作品は、反宗教、反道徳、反礼節という共通の分母を持つに至るわけだが、ほかでもないその生産様式が、それに寄与したのである。これらの書物を印刷した外国人は、フランスにも、ブルボン朝にも、そしてしばしばカトリック教会に対しても、なんら忠誠心を持っていなかった。(中略)たぶん、地下世界の汚辱は、そこを横切る書物にしみこんだのである。メッセージはたしかに媒体に適合していた。しかし、なんたる事態であろうか! もっとも高尚な哲学を、もっとも下劣なポルノ作品と一緒に分類する体制は、自分自身を掘り崩し、それ自身の地下世界を穿ち、哲学が誹謗文書に堕するのを助長する体制である。哲学が落ちぶれた時、それは節度を失い、長点にいる人びとの持つ文化とのかかわり合いを失う。宮廷人、教会人、国王たちに敵意を抱くとき、哲学は世界を逆さまにするために身を投じた。「哲学書」は、自らに固有の言葉で、社会の土台を掘り崩し、世界を転覆させることを大声で求めたのだ。反体制文化は文化の革命を求めた。―――そして一七八九年の呼び声に答える準備ができていたのである」p.268,269

 →下部構造が上部構造を規定する、というマルクスの図式がもっともミニマムに現れている気が。本の出版と流通が本の内容を決める。

◆昨年鷲見洋一『編集者ディドロ:仲間と歩く『百科全書』の森』(平凡社、2022年)編集者ディドロ: 仲間と歩く『百科全書』の森 | 鷲見 洋一 |本 | 通販 | Amazon が刊行、年明け今月には、日本18世紀学会 啓蒙思想の百科事典編『啓蒙思想百科事典』(丸善出版、2023年)啓蒙思想の百科事典 日本18世紀学会『啓蒙思想の事典』編集委員会(編集) - 丸善出版 | 版元ドットコム (hanmoto.com) が出版予定。
 ロミ『三面記事の歴史』(国書刊行会、2013年)三面記事の歴史 | ロミ, Romi, 和之, 土屋 |本 | 通販 | Amazon とルイ・シュヴァリエ『三面記事の栄光と悲惨―近代フランスの犯罪・文学・ジャーナリズム』(白水社、2005年)三面記事の栄光と悲惨―近代フランスの犯罪・文学・ジャーナリズム | ルイ シュヴァリエ, Chevalier,Louis, 孝誠, 小倉, 傑, 岑村 |本 | 通販 | Amazonの2冊いずれ読む。

◆村上春樹は毎日日記をつける期間がたまにあるというが、その内容は決まって、食べた等の無味乾燥な記録に終始するという。確か『1973年のピンボール』では、主人公があらゆるものの数を数えてしまう癖を持っていた時期のことが書かれていた。そのへんの感覚。
 
 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?