1/8

◆阿部公彦『病んだ言葉 癒す言葉 生きる言葉』(青土社、2021年)病んだ言葉 癒やす言葉 生きる言葉 | 阿部公彦 |本 | 通販 | Amazon、読了(1/10に読み残してた最後の2編読了)。阿部公彦やっぱり面白い。東大の権威を全然感じないのがいつもながらずるい。あと「本を読むのは苦手」とか「小説はそもそも読めないもの」って言ってくれるのありがたい。本ってやっぱりスラスラ気持ちよく読めるものではないよね。

◆「卑近な例で言えば、私たちは生活の中ではわかりやすい価値に注意が向きます。数値が欲しくなる。最たる例がお金です。しかし、お金の価値は一義的ではない。よくお金について「真水を注入する」「色付きのお金」といった比喩が使われますが、同じ一万円でも意味作用はさまざまです。振り返ってみる「あのときの一万円」。一週間後に約束された「楽しみな一万円」。突然、もらった「え、一万円も?」。心理的にはみな異なります。そのメカニズムを理解するには、言語的な想像力を駆使して人間化することが必要です。これも「嘘の効用」の一環です。
 近代人が取り憑かれてきたお金は、実用性の究極の物差しとされがちですが、その機能はほんとうはとても言葉的なのです。演算処理だけでは理解できない。隠れたニュアンスや錯誤や仮想イメージを通し人間の心を動かす。「お金の修辞学」という視点には、まだまだ探求の余地がありそうです。」(「言葉は技能なのか」p.21,22)
→文学の本でこれが出てくるのすごい。重要過ぎる指摘なので宿題に。

◆「蒐集にこだわるように見える鷗外だが、彼にこのささやかな境界横断を許したのは、”写す”という行為だったのかもしれない。写本という古いメディアにも封じ込められていた写すという行為。とりわけ註釈入りの『江戸鑑図目録』は、写すということの行為性を生々しくとどめたものだった。現実に筆を走らせ筆写を行わずとも、読むという行為は”写す”ことのはじめの一歩である。いや、見ることや読むことが、すでに写す/映すという行為を伴うことを『渋江抽斎』の墓場の場面は教えてくれる。読者もまた、それらを淡々と目で追うべく強いられることで、知らず知らずそれらの名前を写すことになり、感染するのである。
 ここには「事務的」であるということの深みが垣間見える。事務作業のたたえる神秘はしばしば文学作品にも描き出されてきた。ハーマン・メルヴィル「バートルビー」に描かれるのは、ウォール街の法律事務所で筆写係として雇われている代書人バートルビー。いたって有能な青年だったが、日々つづく筆写の作業の中で深い憂鬱へと追い込まれ、最後は刑務所で死を迎える。その胸中でほんとうに何が起きていたかは最後まで明示されない。チャールズ・ディケンズ『荒涼館』に描かれるのは、延々と続く裁判の”事務次地獄”。物語が動きだすのは、そんな裁判関連文書のひとつに准男爵夫人が目をとめ、その筆跡の持ち主に思いが及んだときだった。この文書を筆写した人物が、実はヴェールに覆われた彼女の過去と深い繋がりのある人物だったのだ。悲劇はここから始まる。
 このように文学の端緒は、文学からはるか遠いと思える筆写という事務作業や、その産物としての無機的な事務文書にこそ潜んでいる。権力は事務文書の冷たい仮面を鎧としてまとおうとするが、文学はいとも簡単にその鎧を剥ぎ取り、企みを暴き出すことができる。実用という囲いをつくって物につく言葉の聖域をつくろうとしても、魔物の侵入を防ぐことはできないだろう。」(「森鴎外と事務能力」p.141,142)
→論理国語等の昨今の国語教育の改革に対する批判が込められていることは明白。とはいえ、どんなに堅く突っ張った文章でも、どんなに読者とは無関係に進行するかのように思える小説でも、そこに読者への目配せや配慮(「ポライトネス」)、および言葉そのものの魔力のようなものを見出す姿勢は、本書に限らず阿部の著作に一貫している。言葉を無味乾燥な情報(論理?)として見ない、ということ。阿部が事務的な文書に注目するのも、だから戦略としてよくわかる。阿部の阿部らしい立ち位置を確認するためには、とりあえず本書冒頭2編「言葉は技能なのか」と「小説と「礼儀作法」」がコンパクトで良い。
 書道を一度、文字の意味から距離を取る儀礼的な行為として、冷たい事務作業として理解したうえで、それでも侵入する言葉の言葉的な力を捉える、という迂回した見方が可能な気がしてくる。

◆「志賀直哉という作家がある。アマチュアである。六大学リーグ戦である。小説が、もし、絵だとするならば、その人の発表しているものは、書である、と知人も言っていたが、あの『立派さ』みたいなものは、つまり、あの人のうぬぼれに過ぎない」(第一一巻「如是我聞」・三六一頁)。」(「太宰治「如是我聞」より引用。「如是我聞」の妙な二人称をめぐって」p.171)

◆「文学に於いて、最も大事なものは、「心づくし」というものである。「心づくし」といっても君たちにはわからないかも知れぬ。しかし、「親切」といってしまえば、身もふたも無い。心趣(ふりがな:こころばえ)。心意気。心遣い。そう言っても、まだぴったりしない。つまり、「心づくし」なのである。作者のその「心づくし」が読者に通じたとき、文学の永遠性とか、或いは文学のありがたさとか、うれしさとか、そういったようなものが始めて成立するのであると思う。(三五五頁)」(「「如是我聞」の妙な二人称をめぐって」p.176)

◆「幻想文学はゲテモノではない。むしろ、風刺・幻想・ユートピアという三者は一体のものであって、この三者の想像力による燃焼こそ、すべての文学の生命を形ちづくり、推進するエネルギー源なのであって、とりわけ幻想性は文学的離陸の主翼なのである。文学が<虚構>であり、<フィクション>であって、良い意味での<絵そらごと>であるとすれば、その<虚>と<そら>にたいして、実体を凌ぐ影のありようの燃料を充填する不可思議な力こそ、幻想性なのである。<社会主義リアリズム>などという国家権力の光背がないと一人立ちもできないような糞リアリズムこそ、もともと文学という名の共和国では、正統の名にも価いしないドブネズミである。(ニ一八頁)」(由良君美『椿説泰西浪曼派文学談義』 (平凡社ライブラリー、2012)椿説泰西浪曼派文学談義 (平凡社ライブラリー) | 由良 君美 |本 | 通販 | Amazonより引用。「由良先生とコールリッジ顔のこと」p.206,207)
→由良君美読む。

◆「繰り返すことからくる連続性でこそリズムを生む英詩。そこから大江が受けとったのは、そうした連続性によって駆動される記憶のメカニズムだったのではないだろうか。忘れるために落ち着くために語る伝統的な私小説の名文とは違い、むしろ忘れないために、落ち着かないために、しつこくたくましく継承するために語る。そこでは連続することのいびつさこそが力となる。その連続性はバランスを失するほどで、ときには異様にさえ聞こえるかもしれないが、そういう領域に踏みこむことでこそ大江は言葉で記憶するためのひとつの方法を日本語に提起したのではないか。」
→微妙にわからない。大江読むしかない。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?