豆粒ほどの非凡さ
とても些細なことが、ひどく胸に残ることがある。
都内に向かう車内。窓際の席に私は座っていた。外は晴れている。
羽のついた虫が、窓に止まっていた。
よく見かける様な豆粒ほどもない大きさの羽虫だ。
それはちょうど私の視線の先にいて、邪魔に思ったので右手で軽く振り払った。
虫は大儀そうに飛び、少し横の窓の壁に落ち着いた。
数分後、彼は死んだ。
彼なのか彼女なのかわからないが、ふと目をやったらその軽い身体は電車の窓枠にポトリと落ちていた。
力なく、あまりにも静かに。
寿命だったのだろうか。振動で揺れる無抵抗な姿が、彼がもうこの世界に居ないことを物語っていた。
(…私は、)
彼の最後の一瞬を、邪魔だなと。
乱暴に振り払ったのだ。
音が消えた。
電車内の話し声も、街の騒音も、どこか山奥に潜んでしまったみたいだ。
彼が死んだ。
名前も無く関わりも数秒しか無く、生物としての種族さえ違う彼が。
会話なんてできないし、友人関係を結ぶことも難しい。興味関心を持つことも、どちらかというと虫が苦手な私としてはほぼ無いだろう。
しかし小さな命がコロンと亡くなったその事実は、突如として目の前に横たわった、”儚さ”は。
不思議な重みで私を停止させた。
誰かが言った。
”物言わぬ自然から学びとれる人こそ、真に幸福な人だ”と。
私はなにを、汲み取れば良いのだろう?
周りから見れば、偶然見た虫が死んだとかこんな話はどうでも良いことだと思う。せいぜい「ああ命は大事だよね」みたいな、薄っぺらな道徳の教科書っぽい結論に落ち着いて忘れられるようなことだ。
でも死んだのだ。
些細で取るに足らない、日常の一コマにもなり得ない出来事だけれど、確かに消えたのだ。命が。彼の身体はいつか掃除のおばさんに雑巾で拭き取られるか、窓から床に落ちて誰かの靴に踏まれて擦り減って無くなってしまうだろう。
私はこの記事で、生類憐みの令みたいなことを訴えたいのではない。
きっとこの夏腕に留まった蚊は平然と叩くだろうし、「豚カツうんま」とか言ってその後平和に胃もたれを起こしたりしているはずだ。
だから極端に「他の生き物を殺すな!」とかは言えない。
でもこの一連の出来事に、何か意味を見出したくなったのだ。あの儚さから、感じるものを形にしたくなった。だからこうして文章を書いている。
”平凡なものを緻密に見れば、非凡なものが見えてくる” (文化勲章受章画家 東山魁夷)
電車内では当たり前の光景として、私含めほとんど皆、スマホをいじるか音楽を聴くか本を読むかしている。一人の世界に入りながら、それぞれの目的地に運ばれていく。
“それはね、勿体ないよ。”と。
そーゆーことを学び取れと、言われたんじゃなかろうかと。
“イヤホン外して、スマホを閉じて、窓の景色や広告、乗り合わせた人の表情、機械の動く音…そういうのに意識を配ってみなよ。
いつもと違うものが、絶対に見えるはずだから。
君の想像力が育まれるはずだから”
確かに彼が身を挺して、というか人生(虫生?)を挺して教えてくれたことは、偶然とは言え私がスマホから目を離し窓の外を見つめていたからこそだった。
それが無ければ、ツム◯ムこそしないが音楽なり本なりで、一人の世界に浸ってただ時間を過ごしていたことだろう。
外からの刺激は、人生の学びを深くしてくれる。「虫の知らせ」とはよく言ったものだ。
ガタン!と電車が音を立てた。
彼は、風に吹かれて私の前から消えた。