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お天道様の右手

72時間全力疾走。
あなたは、耐えられますか?

突然何の話かと言いますと、私の祖父の話です。

彼は3日間、布団の上で、普通の人が猛ダッシュしている時に比例する心拍数で生き続け、今年の8月下旬、92年の生涯を閉じました。

92歳で72時間耐久レースというと、あの「走れメロス」でも尻込みするんじゃないかなあと思います。

「なんて強い心臓…」と、お医者さんも驚いていました。

強い人でした。

亡くなる半年前まで現役で勤め、背筋はシャッキリ、駅を歩けば階段を必ず選ぶ体力と、家に居るなら家事は当然、祖母の介護、更には本の執筆までこなす、活力ある人でした。

なぜ今この話をしているかと言うと、きっと祖父の死は、私たち肉親以外の人にも何か気づかされる、学ぶことがあると思うからです。


人が死ぬということ。

その死に様に、在り方が現れる。

そこから我々は、教わることがある。


だんだんと息遣いがかぼそくなっていく祖父の枕横で、私はそう考えていました。

不治の病を宣告され一時期は体調を崩しながらも、7月末には祖母と毎日近所を散歩するまでに回復していた祖父。

しかし突然また入院し、そのまま危篤状態に。コロナで面会禁止の中「もう最期だから」とお医者さんが配慮してくださいました(祖父の病気はコロナではなかったので、会うことができました)。

私たちが駆け付けた時、あんなに生気にあふれていた祖父の腕は、冬の小枝のように細くなっていました。


その夜はなんとか持ち堪え、そこからなんと一週間。祖父は、残される私たちが心の準備をするための時間を作ってくれました。延命治療です。本人は望んでいなかったかも知れませんが、遠くにいる親戚が最期会うために、祖父の子ども(私からみた父や叔父叔母)が選択したことでした。

その間はできる人が昼夜問わず代わりばんこで病院に寝泊まりし、祖父の看病をしました。

薬の副作用で熱が出たり、関節が痛んだりして…祖父はしきりに「マッサージ、マッサージ」とせがんでいました。その度に傍についている者は足をさすったり揉んだり、祖父の意識が朦朧として言葉がよく聞き取れない時もありながら、手探りでやっていました。


我慢強い祖父でも、辛かったのでしょう。これまで一切弱音を聞いたことが無かったので、うめく姿を見て、その苦しさはよっぽどのものだったのかなと思います。

その後、「やっぱりもう可哀想だ」という事で延命治療は停止になりました。すると、当然ですが祖父の心拍は次第に落ちていきます。しかし、それでも3日間耐えてくれました。それが先ほど言った、普通の人なら全力疾走で72時間走り続けている状態です。すごいことだと思います。

この、危篤だと病院に呼ばれて延命→治療停止して息を引き取るまでの約一週間、祖父は私たちに時間をくれました。そのお蔭様で、皆戸惑いながらもゆっくりと、その死を受け入れる準備をしていくことができました。

そして全員の心の準備が整った時、祖父は、静かに呼吸をやめました。


13時54分。

セミの騒ぐ、雲一つない晴天の日でした。

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”子孫に土を。よい土を”

そう願い続け行動し続けた祖父の、まさに生き様が詰まった最期だったと、私は思っています。


順番が前後してしまいますが、どんな事をしてきた人なのかというと、祖父は生涯農業に従事し、故郷の土を守りたいと、40を過ぎてからは政治の世界で活躍した人でした。

祖父の働きかけで、私たちが住む地域の下水は整えられ、水道水が美味しくなったと聞いています。

「ミネラルウォーターなんて飲むもんじゃない、蛇口の水でいいんだ、ここのは美味しいんだから」と、祖父は言ったそうです。

確かに、美味しいのです。飲んでみると甘味があって、臭くないのです。そういう自然の恵を、守ろうとした政治人生でした。

祖父は著書の中で、昨今の環境破壊を嘆いてこう書いています。


『私たちはいま、土と戦争をくり広げています。もちろん土は無防備です。人間に侵略されるままです。そして人間どもは土を虐げ、土を金に換え、土を踏み荒らしてとどまるところを知りません。…だが、この限りない大地を失いつくしたとき、人びとは戦いに敗れたがれきと焼土のただ中をさまよう姿を思い浮かべないでしょうか。』


子孫に土を。よい土を。

農家に生まれ農家を営み、政治家として制度改革に精力していた祖父は、強い人でした。

亡くなる時まで、残される人たちのことを考えて自らの身体を使ってくれたんだと思います。

生まれたのは戦時中でしたので、戦後の日本を生き抜いた人の精神力と身体能力は今の我々には比べ物にならないものがあると言います。が、そこに輪をかけて、祖父は稀有な人だったと孫の私は思っています。


美しい人だと。

あんなに美しい人を、見たことが無いし、これからもきっと、出会うことはないかもしれない。孫の贔屓目でしょうか。ええ、その側面はあるでしょう。

けれど、

92歳まで現役で働き、著作を何冊も残し、子孫が生きる自然環境を残し、最期の最後まで心臓を、命を使い切った人が、どれだけいるのでしょう。

比べる必要は全くないけれど、そういう人がいたということを、覚えておく意味は絶対にあると思っています。

祖父が人生を懸けてつくった「基準」を。

何が言いたいかと言うと

「精一杯生きろ」

ということです。

それが祖父のメッセージだったんじゃないかと。

何もみんな、90歳以上でバリバリ働けとか、政治家になれとか本を書けとか土を守れとか言っているわけれはありません。人それぞれに立場や状況があって、どんな選択をするかは、幅があっていいと思います。

しかしひとつ、共通する志。

祖父が体現した、”志”。

それが、精一杯生きろということ。 

これでいいやと、自分に満足しないこと。

人のために身体を張ること。

祖父の言葉を借りれば

『命の炎を燃やせ』

と。

そういうことを、志として覚えておくことは、意義深いことなんじゃないかと。


祖父の手が冷たくなって、灰になって、空に溶けて行った日から、私はずっと考えていました。

自分にとって、命の炎を燃やすってなんだろう。
どんな生き方を私はしたいんだろう。 


あなたは何ですか?


すごく深い問題だと思います。あっさり答えなんて出てこない人の方が多いと思います。

私も時間がかかりました。でも、時間が経って、ふとでてきたものがありました。葬儀も終わってようやくいつもの日常が戻りつつあった時、祖父の本を読みながら、ふと湧いてきたもの。

それが「絵」でした。

祖父が土と政治に生きたなら、私は「絵」に生きたい。そこで一流を極めてみたい。強く精一杯生きてみたい。


「誰の真似でもない、独創的な絵を。宇宙のような絵を描きなさい」


ベッドの上でまだかぼそくも喋ることができた祖父が、最後に私に伝えてくれた言葉でした。

描くことは、生きることだ。
命の炎を燃やすことだ。

だから私は絵を描きます。絵で一流を目指しています。祖父のように、強く優しく、精一杯生きる人でありたいから。


今これを書いている私の机の上には、亡くなった当日の祖父の顔を描いたスケッチが置いてあります。ドライアイスに包まれて横たわる祖父の隣に寝転がって、私が描いたものです。

不謹慎だと言われるかもしれないけれど、覚えておきたかったのです。

この美しい人の生き様を。最後の最後の表情を。彼は、微笑んでいるように見えました。


ギリギリ間に合いましたが、実は今日は、祖父の93歳の誕生日でした。亡くなった日からこれまで何度も、文章に書こうとしましたが上手くできず、やっと今日、形にすることができました。


“一生懸命、命の炎を燃やしなさい。” 


そう背中で語り続けてくれた祖父の姿を、全部伝えることはできませんが、また、祖父の全てが素晴らしいという盲目的な見方はできませんが、

生きるとは何か。

なにか真剣なものが、あなたに伝わっていたら嬉しく思います。


おじいちゃん、お誕生日おめでとう。
貴方を目指して私は生きます。
土を触りすぎて曲がった右手の指を、ずっと覚えて生きていきます。また会える時まで、見守っていてください。


読んでいただいて、有難うございました。

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「天への土産」

(あなたが、無事に還れますように)

最愛の祖父へ愛を込めて。

はしの