コラム「多妻制」

コラム「多妻制」

 現状,移民政策を採り続ける以上,イスラームの流入は不可避となっている。

 世界を見渡すと,一夫一婦制を採用している地域よりも,圧倒的に多妻制採用地域が多い。しかし,我が国の婚姻法は,いわゆる『ローマ法大全』の学説彙纂を採用したフランス民法典を基礎しているため,一夫一婦制が原則となり,その例外として認知制度(婚外子と父親の身分関係を規定)がある。

 イスラームが宗教上の教義として多妻制を採用しており,また日本国憲法で信教の自由を法定している以上,当然,近い将来に現行民法は信教の自由を侵害しているものとして,違憲訴訟が提起されるものと予想される。

 ここで,信教の自由と,我が国の婚姻秩序の維持とが比較衡量され,どちらの法益を採るべきか司法が判断する流れになると思われるが,これについて思うことがある。

 もとより,我が国において一夫一婦制が確立されたのは,大正時代だ。

 というのも,皇太子殿下(後の昭和天皇)が,一夫一婦制を採用すると宣言され,良子妃殿下(当時)のみを娶られたことを受けて,世論が一変,下位の男性であれば一夫一婦制であるが高位の男性であれば一夫多妻制然り,との社会慣習が「皇太子の一夫一婦制宣言」によって改変された。

 司法も,この風潮にならって判例を確立した。当時の刑法罰条にあった姦通罪は妻の身分犯とされ夫に適用されることはなかったが,民事上では「夫が妻以外の女性と情交を為した」ならば不法行為が成立するとされた。

 従い,我が国の「婚姻秩序」とは,比較的歴史が浅く,まだ100年に満たないものであることに注意したい。

 昭和天皇の一夫一婦制の採用は,その後も踏襲され,今上陛下,皇太子殿下と引き継がれるが,この延長線上にある現在,悠仁親王殿下ただおひとりとなってしまった事実は否定できない。

 さて,西欧はどうだったのであろうか。

 西欧社会では,古くからサリカ法典(Lex Salica)が王位継承権に採用され,平民はこれにならっていた。

 サリカ法とは,王位継承権を嫡出の男系男子に限定するものであり,日本の皇位継承権はただ男系男子であり父親の指定を受ければ嫡出とされたが,サリカ法は更に厳格であり,一夫一婦制のもとに生まれた男系男子でなければ王位継承権を持たないと規定する。

 このサリカ法は現在でも踏襲され,リヒテンシュタイン公国も,この法典に拠り王権を相続する。

 例えば,フランスもサリカ法の規定を採用するため,ナポレオンが新規に王権を得た際,何人かの婚外子を設けたが,皇位継承権をもたなかった。(ナポレオン婚外子のアレクサンドル・ヴァレフスキ伯爵は外交官として採用され,外務大臣に就くなどしている)


 さて,我が国は今後どうするべきか。

 いうまでもなく,少子高齢化の解決策の一つとして,労働力の確保のため移民政策が採られている。

 だが,本邦国民に厳格な一夫一婦制度を規定する一方で,移民に対しては信教の自由を基礎とする多妻制を認めるようでは,本末転倒となるのではないか。

 その陰惨な結果は,既にイスラム移民を入れて国籍を付与し,「人口増加した」欧州先進国に見て取れる。人口は増えたが,治安は悪化し,到底労働力とはなり得ない反社会勢力が成長した。

 近年,我が国の最高裁は婚外子の相続分を制限する現行民法規定を違憲であるとの判決を下した。第二次世界大戦後の民法改正以来,頑なに婚外子相続分制限の制度は「合憲」であるとの立場を採ってきた最高裁であるから,歴史的転換であるといえる。

 というのも,婚外子の数が単純に増加しており,これに制限を加えることが秩序安寧に寄与するのか甚だ疑問であるとの結論に至ったものと考えられる。

 さて,もとより,「結婚」とは何なのか。

 それは,言うまでもなく財産保護と相続の厳格化を求めた制度である。つまり,言い換えれば相続させるべき財産を持たない者にとって,結婚とは縁がないものであるといっても過言ではなかった。

 歴史的に,平民が結婚をするようになったのは1872年からであり,それ以前には,多くの平民に結婚の概念は無かった。従い,「家」の概念をあらわす「苗字(名字)」を平民はもたなかった。

 多くの婚外子がいれば,当然に分割相続が為されて,家財は四散してしまう。資産はまとまってこそ運用可能であり,分散させては本来の価値を失う。

 このため,我が国では歴史的にも,例えば「分地制限令」(1673年)などの分割相続を禁止する法令を出すなどしていた。

 そう考えると,結婚と一夫一婦制が当然となり,むしろ一夫多妻制度こそ「特権」であるとの価値観自体が,誤謬のように思えないだろうか。

 一夫一婦制とは,子女に相続させるべき特別の資産を持つ特権階級の制度であった。

 それが,近代化の荒波を乗り切るため,平民をもある種の「貴族化」をさせるべく,結婚をさせ名字を名乗らせ,義務教育を施し,兵役に就かせるとなった近代以降の「システム」に改変させたのである。

 しかし,大量破壊兵器の開発によって,国家総力戦の時代は終わり,戦闘訓練を受けた平民の数が国力となる時代ではなくなった。

 兵士を確保するために整備された戸籍,良質の兵士を育てるための「家と名字」,そして,良い兵士を育てる義務教育も,すべて近代化のためにあった。だが,これは変わりつつある。

 相続すべき資産を有さない以上,一夫一婦制による制限もまた無い。

 つまり,一夫一婦制こそが特権階級であり,一夫多妻制は「持たざる者たち」(あとは野と成れ山と成れ)の制度ではなかったのでろうか。

 現在の日本でも,重婚的内縁関係と認知制度の併用による多妻制度は自由である。ただ,妻の身分が無ければ税制上の優遇や法定相続権,各種福祉手当の受給権が無いといった「国家の保護が無い」状態となるのみである。そこに実体としての制限は無い。

 要するに,明治維新以来の「近代的価値観」の残滓がいまもこの国にあるのではないか。

 結論として,持たざる平民こそ自由な性交渉または乱交性となるべきであり,資産を持つ貴族階級のみが一夫一婦制を採るべきであると思料される。

 一夫一婦制とは,「愛する妻から生まれた愛する我が子」に財産のすべてを相続させ,財産を分割させないための制度である。従い,資産をもたない者にとっては到底縁のない制度であることを今一度確認されたい。

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