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九月は讃美歌による。

the cabsが解散したあの年、私はまだ15歳だった。
はじめて聴いた時「いいな」と思いはしたが凄くハマる訳でもなく、ただ"知っている"だけだった。同時期にKEYTALKも知り、the cabsの解散とは裏腹に彼らはメジャーデビューをしていた。KEYTALKもthe cabsも同じようにハマっていったが両者の音楽はまるで対極にあったように思う。
12歳から本格的に精神を病んでいた私は暗い音楽によって支えられてきた。凛として時雨、syrup16g、THE NOVEMBERS、People In The Box等等。(暗い音楽を聴かない人からしたら「暗い音楽って何?」という感じかもしれないが、まあ分かりやすくいうなれば歌詞に「死にたい」だの「消えたい」だの「殺したい」だの負の感情が入ってるようなもの。そこまで分かりやすくなくとも文体や音から希死念慮や鬱屈とした様が感じ取られるものを言っている。)その、暗い音楽があったから私は今まで耐えられてきたと思う。ある人は言い過ぎだ、ある人は音楽で救われるなら大したことの無い悩みだと言うかもしれない。が、事実。私は音楽がなければとっくに自死していただろうと思う。その中の一つにthe cabsの音楽もあった。特に15歳頃にずっと聴いていた。家庭環境があまりにも他と違っていた私に彼の音楽は救いとなった。音ももちろん好きだが、高橋國光(the cabsのギタリストで全ての作詞作曲を行っている)の紡ぐ歌詞が私はとても好きだ。文章が好きだ。言語化できない想いがそこにはある。美しい映画のような、救いのない事実だけがそこにはあり、それが私には他人事のように思えず、ただそばに居た。そこに居た。だけれど私が知った時彼は失踪しており音楽をできる状態ではなかった。彼が音楽を行うことはもう無いのかも、と思っていた。けれどösterreichというソロ名義で彼は始動した。東京喰種で高橋國光が音楽を再開すると聴いた時私は嬉しくて泣いた。ただ生きてるだけで嬉しかったのに、そんな彼がまた音楽を紡いでくれた。最初に出した「無能」という曲はすごく歪で、でも美しく彼らしくあった。石田スイという人物がthe cabsを愛し、繋いでくれたもの。嬉しかった。人間どんな風にきっかけが出来るかは分からない。その後彼が舞台に立つことになった。TK from 凛として時雨のライブでゲストとしてösterreichが呼ばれた。私は急いでチケットを取った。彼がまた表に出てくるなんて夢にも思わなかったから無理してでも行こうと思った。場所は今は亡き新木場STUDIO COAST。私はひとりでに会場に向かった。けれどその時の私は強い希死念慮に襲われ思わず最寄りのコンビニへ駆け込み剃刀を買った。コーストのトイレでリストカットをした。大好きなのにTK fromも最後まで見る事が出来なかった。信じられないほどの疎外感を受けてしまい何かを食らってしまった。でも高橋國光をこの目に焼き付けられたことが本当に嬉しかった。それから私は彼のライブ全てに行きたいと思った。が、その時期にコロナが流行り全てがから回る。でも有難いことに彼は精力的に活動を続けてくれて、楽曲の提供も行うし新しいCDも発売した。
ちょうど二年前、渋谷で(確かWWW Xだった気がする)ライブがありそれに行った。けれど私は心が死んでしまったように何も感じれなかった。何も受け取れなかった。目の前に高橋國光がいるのに感動することが出来なかった。知り合いのフォロワーが沢山いて、みんなが各々の感情を吐露している間私は何一つ共感できなくてそれがまた悲しかった。その年はそれっきりライブには行かなかった。
それ以来のライブだった、österreichをみたのは。高橋國光を見たのは。

長野県にある「やまゆり」というお店で小編成のライブを毎年夏頃に行っており今年も開催が決まった。無理してでも行こうと、どうにかスケジュールを合わせて向かった。長野県に降り立つのは初めてで、すべてが新鮮だった。私の地元沖縄は海に囲まれていて山などない。真逆の地で私はワクワクと緊張が止まらなかった。最寄り駅に近づくと私は緊張が強くなり、気分が悪くなった。駅からやまゆりまで徒歩20分ほど。結構な坂を歩く。が、澄んだ空気と新鮮な風景でそんなに気にならなかった。夜は街頭なんか全然なくて真っ暗な中帰った。
お店に着くと当たり前のように高橋國光が立っており、お弁当を食べている。そこにいる。それだけで胃から何か上がってくる感じがした。開場16:00、開演17:00。みんながご飯を食べたり飲み物を飲んである程度落ち着いた頃ライブが始まった。
österreichの入場SEでもある菅野よう子のfolly fallを彼らが演奏し歌った。高橋國光の低く落ち着きのあるコーラスが私はとてつもなく好きで、尚且つ苦しく声にならない声が出た。それから普段通りösterreichの曲を演奏していったのだが國光が「最後に少し懐かしい曲を」といって演奏し始めたのが第八病棟だった。

第八病棟、the cabsの楽曲のひとつで回帰する呼吸に収録されている。彼が、彼本人がthe cabs時代の曲を演奏するのは恐らくこれが初めてだった。österreichのファンの大半がthe cabsのファンで追っていると思う。けれどもタブーのようなパンドラの箱のような、触れてはいけない物のような扱いがあった。彼の音楽に触れてきてない人間にこの事を伝えるのはとてつもなく難しいことだが、簡単に言うならば奇跡だった。もちろん、自分の曲だからやる可能性は0ではない。0ではないけれど限りなく0に近いものだった。それはファンのみんなが知っている。一番分かっている。言葉にならなかった。私は涙が堪えられなかった。本当は声を張り上げて泣き出してしまいたいほどだった。くしゃみをひじの内側で受け止めるように、私は思いっきり口を抑えて鳴き声を押えた。押し殺し、泣いた。歌でこんなに泣いたのはTHE NOVEMBERSとの対バンでösterreichがカバーしたChernobyl以来だと思った。鎌野さんのキーに合わせたアレンジだったが、彼のギターの音が本物を物語っていた。そこにいるんだ、事実としてそこにあるんだ、と。周りからも啜り泣く声が、鼻をすする音が沢山聞こえた。きっとみんな同じ気持ちでいたと思う。

彼が、高橋國光が今後the cabsの曲をやるかは分からない。けれど、歴史が動いたと言っても過言ではないようなことが起きたんじゃないかと、自分は思ってしまった。そしてやまゆりという場所に来て良かったという気持ちと来ない方が良かったのではという気持ち。両方あった。二度とthe cabsは再結成しないだろう。本人が言いづらいなか、cinema staffの三島が代弁するかのようにライブで言いきってくれた。あの夜救われた気がした。ただ、すべてがぐちゃぐちゃになるような、言葉にならない感情で昨日は飲み込まれてしまった。

何も分からない、分からないけれど彼が音楽を愛し、続けてくれたらいいなと思う。私もそうやって生きていけたらいいなと思う。

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