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複製を得る満足感と思考させない力

全くnoteが進まない。というかここ最近は本すら読めていなかった。多分写真を撮らないといけない強迫観念に襲われていたからだろう。

そもそも写真を信じていないはずなのに何故画質とかにこだわって機材選びをしているのかと自分でも本当に不思議だと思う。カメラを介した画像の取得は趣味でしかないと考えていたが趣味だと言っているものを作品として提示するのは極めて失礼だろう。きっとまだ心のどこかで写真行為そのものが、つまり、写真を撮ることで自分自身を反映させてくれる力があると信じているのだろう。

写真は欺く力が強いメディアだと認識しているが、他者を欺くと同時に撮り手の自分自身も欺いているのではないかと思う。本を読んだりテキストを書く行為のうわばみとして写真があるべきはずなのに、経験の反映を視覚化させる写真そのものを見て満足している。というか写真を撮ることで自分自身の思考が変わるわけでもないのにカメラを介して撮ることにこだわっているあたり、写真はアップデートを拒む要素を含んでいるのではないかと。

高繊細な現実の複製は情報量の暴力であり、視覚を満足させる。それすなわちテレビを垂れ流して思考することを放棄させるマスメディアと同じなのではないか?いくらスタートが写真だったといえ、根付いている無意識の写真洗脳から一度切り離せねば。

2023.2.26 辻悠斗

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