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脱力化への肯定と協働。


自分にとって不要な人間はむしり取り、居心地のいい人間(都合のいい人間とも捉えられる)を植え込んでいくことで庭を構築していく。というスタンスでこの1年ほど制作しているが、最近はどうにも他者との関係性、つまり構築された庭がネットワークのようになっていくのではないだろうかということを考えている。自己(ここでいう自己は書き手である私自身)が置き去りになっていっている感じが否めないのでここに記しておく。記す必要なんてない気もするが、自分の行動が他者を巻き込んでいく要素がとても強いのでエゴの前置きとしてほしい。

そもそも、他者をむしり取り、自分の庭に植え込む。これは思想の上書きである。思想を植え付けたいこともあるが、それは自己と他者(植えられる人)を同期させたいからなのではないだろうかと考える。他人の気持ちなんてわかる訳がないと考えてしまっていることが原因な気もするが、単に自分以外の人間を失望させたくないのかもしれない。実際、完全に思想を植え付けるのは他者との”同期”になるので不可能だ。どこまで植え付けても自意識は存在する。
では他者の自意識を残しながらも部分的に私の思想を植え付けるのはどうだろうか。影響を受けることが植え付けられる最小単位だと考えれば可能だと言い切れる。できれば洗脳みたいな感じが理想ではあるが、それだと他者から受ける物事の”突然変異”みたいな事象がなくなってしまうので私のやりたいことと反している。部分的に他者の自意識を残しつつ、思想には賛同してもらう。庭の中に植えられる状況が現状での最適解と言えるだろう。

植物たちが互いに反応して共生するように、庭に植え込まれた他者たちが協働する。ゆくゆくは集合意識となり、人為的ではない状態で自己と他者の境界が無くなっていけばいいのになと思う。それが部分的であってもいい。
今、いろんな人に草をむしってきてもらっているのはそれに向けた助走と言える。実際にむしってくれた人は無意識のうちに庭の構成に賛同していると捉えれられるし、それすなわち部分的に私に対しての肯定ということになる。

他者と同期する為に私自身も大きく生活や思想を変えたこともあったが、完全な同期は不可能だった。それは自己と他者がイコールで繋がるだろう、境目が無くなるだろうと期待したが、意識の底に自意識がある以上は限度があった。そうするとじわじわと認識や感覚へのズレが気になってくるのは言うまでもない。他者への期待値に自分自身が翻弄される状態になる。
特に”自己と他者”(他者と自己ではない)が同じになって欲しい、ある種の自己に対する途絶えることのない肯定を望んでいる私からすると無理を続けている状態なのかもしれない。他者に対して何かを渇望する以前に自分自身の中にだけ存在するエゴを肯定して、脱力化に向かった方が他者に対する境界の高さも変わってくるのではないだろうか。そうなって欲しい。

2023.6.19 辻悠斗

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