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写真の理論を読み終えて。

やっと写真の理論を読み終えた。常に持ち歩いていたのでボロボロになってしまった。読んでいて個人的に残ったところを書く。

・ロザリンドクラウス 「写真の記号的作用。写真が現実に対する痕跡」→シンディシャーマンの作品の引用で「ありそうな場面、いそうな人物を作り出す」既にありそうな場面の複製を作る行為の中にセルフポートレートの存在が気になった。複製物の中に自身を入れることで自己すら記号化するのだろうか。

・写真の大衆的側面→撮影技術、プリントの質からくるのだろうか?思想や作家の哲学よりも制作機材に依存する、写真の場合は工業製品を扱うのでその辺りが絡んでくるのだろうか。製品を扱う技術で制作物の質が左右される→元々抱えている写真の制作プロセスの短さ、模倣のしやすさに囚われることで写真の後ろにあるはずの客観性や社会性から離れ、倫理的対象ではなくなる?芸術であるか思考しない、撮ること、プリントすることに意識が向き、考えないで作れてしまう危険性。

・写真は客観視するメディア=現実の記号化→セルフポートレート・撮影者自身も記号にする力。(写真行為はセルフポートレートに繋がる。)
見ること。描写の存在。→写真≠画像の性質としての描写

画像や描写の体験=視覚芸術
写真はなぜ視覚芸術なのか。写真行為→複製・描写の獲得から考える。
伊丹豪は世界をよりリアルな複製にする複製装置としてカメラを用いた。
東地雄一郎は画像の複製を繰り返すことで写真機を用いずに写真行為を成立させた。
・写真の持つ視覚的アプローチは身体性(メディアとしての)の無さ、画像の獲得や描写に対する決定権が機械にある→介在する体は目がほとんどであること。

・写真から描写を取り除く=装置としてのカメラの原理が見えてくる。蓋を開けないと成果が見えない。

2023.1.24.03:51追記

写真行為の細分化。撮ってるジャンルは写真の枠組みの中での話であって、写真そのものの中にある写真を構成させる、写真として認識される要素を知ることで自分自身の写真行為が見えてくる気がする。そもそも見ることも写真の一部な訳だし。カメラに依存する構造から抜け出せる動機になりうるはず。



シャーカフスキーとジェフウォールが特に気になったので読み直そう。

2023.1.23 辻悠斗

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