見出し画像

ウマ娘と文化の盗用

白人が着物を着ると「文化の盗用」であるとして批判されることがあるそうだ。補足として「欧米で文化の盗用が批判される背景には欧米社会に蔓延する人種差別問題があり、各種の特権を享受する白人が被抑圧者の文化を敬意なく剽窃することが問題視されている」みたいな解説が添えられることが多い。理屈としては理解できるような気もするが、理屈ではなく具体的なエピソードとして「白人モデルがキモノを着てファッション雑誌の表紙になったので炎上しています」、と聞くと、具体的な感覚の部分ではやはりよくわからないというのが正直なところだ。何を着ようが自由のはずなのにキモノ着たくらいのことで炎上してしまう背景には欧米社会の深刻な人種間対立があるんでしょうね、くらいのことを言って済ませたくはなる。

炎上した、というのがポイントの一つではあって、これが一部の思想家や先鋭的扇動者だけが批判したのではなくて多数の一般人から一斉に批判されたのであれば、そこにはマスの感情を揺さぶる何かがあるはずで、その「何か」のうち「人種間対立」の部分を理解するのは難しいにしても、もともとの言葉面である「文化の盗用」、自分が属さない文化を借用する行為がなぜ他文化構成員の感情を強く逆撫でするか、という部分について想像することはできる。

なぜ文化の盗用が批判されるのか。人種間対立を取り去ったら、残るのは「他人の欲望に対する怒り」であると思う。

話は変わるが京極堂シリーズが好きだった。京極堂シリーズというのは京極夏彦の初期の連作で、言ってしまえば探偵モノではあるのだが、探偵小説としての面白さとは別に、ホームズ役である京極堂の語りが抜群に面白く、大学時代の俺は完全にこれにヤラれてしまっていたというか、京極堂史観とでもいうべき思想をインストールされてしまっていた。真似するのが簡単ではない作風なので京極夏彦がフォロワーを産んだのかはよくわからないけれども、京極堂シリーズが多くのクリエイターに影響を与えたのは間違いなく、那須きのこ「空の境界」の運転免許のエピソードなんかは「京極夏彦とか、お好きなんですね(ニチャァ」と話しかけたくなる魅力に溢れている。

京極堂シリーズ一作目「姑獲鳥の夏」では、語り手の三文文士・関口が友人の古書肆・京極堂に雑誌記事について相談する場面がある。時代は大戦後、関口は下世話なカストリ雑誌にいかがわしい記事を書いて糊口をしのいでいるのだが、記事のネタとして「妊娠二十ヶ月になってもまだ出産しない妊婦がいる」というネタを仕入れて、京極堂に相談する。京極堂は身内友人に対してはおそろしく口が悪いけれども気は優しい、令和の目で見れば古典的なツンデレで、関口に辛辣ながらもやんわりと、そんな記事を書いてはいけないよ、と諭すのだが、この会話が素晴らしいのである。曰く、たしかに異常な出産によって生まれた子が長じて鬼になるという話はあるけれどもこれは因果が逆だ。まず鬼や豪傑がいて、この鬼なり豪傑なりが超人的な力を持つことの説得力を増すために、かれら異常な存在にふさわしい異常な過去が遡って創作されるというのが正しい。武蔵坊弁慶は歯が生えそろって生まれたと伝えられるが、歯が生えて生まれた子がみな弁慶になるわけではなく、弁慶にふさわしい出生のエピソードが後付けで創作されたのである。本邦ではこういう迷信があったから鬼子は例外なく出生時に殺されたけれども、もし異常な出産から生き延びて普通の人生を送った者がいたとしたら、逆にこの異常出産の過去は遡って消えてしまうだろう。京極堂はそんな話を散々脱線しながら日も暮れるまで続け、関口は愚鈍に描写されるがこれはこれで察しの悪い男ではないから、京極堂がやんわりと「だから妊娠二十ヶ月の妊婦の記事なんて書いてはいけない、異常出産とその後の生には何の関係もないのだから」、と諭してくれたことを理解するのである。

京極堂のキメ台詞「この世には不思議なことなど何もないのだよ」に端的に象徴されるとおり、京極堂の魅力は理解の快楽である。たとえば座敷童の話、座敷童が住む家は栄えるし去った家は滅びる、という話には誰もが子供時代に触れるけれども、子供であるから字面を言葉通り受け取るだけで、その意味や背景については考えない。しかしあるときそこに「座敷童は富の移動を説明する民俗装置である」という解題が添えられる。するとボンクラはたちまち京極夏彦や那須きのこにヤラれ、民俗学や文化人類学にヤラれ、さりとて論文を書くでもフィールドワークに出かけるでもなく、ただただ輝かしい青春を書物に埋もれて空費するのである。

しかし今となっては京極堂シリーズに対する俺の感情は甘酸っぱいものがあり、それは民俗学や文化人類学に対する疑念や諦念にも通じるのだが、これは突き詰めれば学問への嫌悪、究極的には学問それ自体ではなくその背後にある他人の欲望に対する嫌悪に起因するところがある。学問とは理解の追求であり価値の探求であるが、その理解なり価値なりはそれ自体の効能とは別に、ある人間なり集団なりの正当性を裏打ちするために機能することが多い。これが政治利用された究極の例がアーリアン学説であり逃亡奴隷精神病であり、それらに対する嫌悪感というのは広く理解されるところであるけれども、俺はここに、誤っていたから/邪悪な目的で利用されたから、という嫌悪とは別のところで、正当性を学問で裏打ちすること自体に対する嫌悪もまた感じる。

文化盗用になぜアメリカ人があれほど拒絶感を示すのか、その感覚の多くは人種間の不均衡に根差すのであろうから俺には実感できない部分であるけれども、それとは別に、けっきょくあれも突き詰めれば他人の欲望に対する嫌悪であり憎悪なのではないか。座敷童という迷信(科学的に考えれば妖怪が移動したら家が貧乏になるなどありえない)に社会的な意味(富の移動と新参者の隆盛を説明する)を見出すのはそれ自体が快楽だが、その研究動機には未開人に対する敬意と信頼の眼差しがあり、ひるがえって人間に対する賞賛がある。敬意なり信頼なり賞賛なりといえば聞こえはいいけれども、「未開人にも知恵がある」「これだから人間はすばらしい」という理解への欲望はどこか歴史修正への欲望にも通じるところがあり、明るいだけのものではない。

たとえば俺はアメリカ人がヨガとか禅とか大好きなことに対して可愛らしくも思うけれどもまたなんとなく反感も覚えるわけだが、それを「あいつら敬意がないから」と括ってしまうのは雑駁というもので、敬意の有無が問題ではなく、連中がヨガでフィジカルもメンタルもスッキリ⇒これを昔から知ってたオリエントの人間すばらしい⇒科学と非科学を包括する私最高、式に自身の正当性をなにかに裏打ちさせる根性を俺が嫌悪している面がたしかにあるのだが、しかしここでヨガとか禅とか菜食主義とかチャネリングとかそういうある種「いかがわしい」例しか挙げないのは不誠実というもので、では正当性を裏打ちとおっしゃるけれどもたとえばスポーツに打ち込むのはどうか。あるいは弁護士として社会正義のために戦うことは「自身の正当性を裏打ち」にはあたらないのか。当然、あたります。これは難しい問題で、逃避と昇華の弁別は主観的にならざるを得ないといういつもの話になるのだが、欲望というのは人間にとって不可欠な精神活動でありまた欲望の正邪と結果の正邪は無関係なので、欲望それ自体を批判するのは筋が悪い。

「可愛らしくも思うけれどもまたなんとなく反感も覚える」というのは俺にしてはなかなか抑制のきいた上品な表現だが、じっさい擬人化界隈は昔から何度も批判されてきたし、またその批判と反論が噛み合ったためしがない。擬人化といえば島田フミカネであるが、彼は兵器のディテールと女の子を組み合わせてメカ娘のイラストに仕上げることには抜群の才能を発揮したけれども、擬人化フォーマットの可能性を世間に理解させることまではできていなかった。なぜ兵器に女の子の恰好をさせるのか、その理屈を最初にシステムとして完成させひろく世間に理解させたのは艦隊これくしょんであろう。

なぜ艦これは二次大戦の艦船を擬人化するのか。艦船には個性があり、残酷だからである。戦艦の擬人化って戦艦大和とかですか? 程度のヌルい理解しかなかったオタクどもに艦これが提示した初期キャラは吹雪や叢雲といった駆逐艦、言ってしまえばミリオタ以外誰も知らないようなドマイナー艦船であった。そしてキャラの背景を知ろうとWikipediaを閲覧したオタクは、艦船には明確な個性があることを発見するのである。なにせ駆逐艦といっても200人から搭乗する巨大兵器であり、往時は遠くハワイやニューギニアまで出撃したのだ。艦船ひとつひとつにそれぞれ全く違った艦史戦歴があり、平時と戦場との魅力的なエピソードがあり、そして例外なく悲しい最後を迎えている。艦船には個性があるのだ。大和に武蔵、エンタープライズにプリンスオブウェールズ、幸運艦雪風や孤独の女王ティルピッツといった超有名どころだけではない。いつも明るい酒飲みお姉さんの隼鷹というキャラクターにオタクどもは商船改造空母の悲哀、豪華客船として建造されるはずだった良いところのお嬢さんが戦争に駆り出され、周囲に気を使わせまいとつとめて明るく前向きに振舞う姿を見て、胸を熱くして兵站に励んだのである。ゲーム上では過去が忘れられず酒に頼ってるとかキャラを作ってるみたいな具体的な描写は無いのでこれはオタクの過度な想像力、言ってしまえば妄想である。

このオタクどもの妄想を「可愛らしくも思うけれどもまたなんとなく反感も覚える」と表現するのは少々甘すぎるかもしれないが。ミリオタ連中が反感を覚えるのは当然として、どこが可愛らしいのかといえば、ここには発見の感動とそれに続く新鮮な情動がある。人は初心者であり続けることができない。知識は増える、経験も増える、分別も備わってゆく、しかしそれと反比例するように感情は動かなくなってゆく。興味は尽きることがないにしても、ジャンルを追い続けているにしても、最初に感じたような感情の動きは避けがたく失われていく。だからオタクが艦船の個性を発見した瞬間に対して、ビギナーへの好意的眼差しと、かれらが感じる新鮮な感動に対する憧憬を向けるのは俺の身贔屓ばかりというわけでもなかろう。釣りキチは最初に魚を釣り上げた感動を忘れていないから今でも釣りを続けているんだろうが、しかし彼は今でも魚を釣りあげるたびに同じ感動を味わっているだろうか? そんなことは不可能だ。縁日で掬った金魚が翌日に死んでいたとき子供は泣くけれども、あの種の悲しみなり、死なないでくれと心の底から祈る感情なりを持ち続けたままアクアリストをやれる人間はいない。20万円のアロワナが死んだってせいぜいが首をかしげる程度のものだ。

感情は麻痺してゆくし、それが残酷さに対するものであれば尚のことだ。艦これは明らかに残酷さを意識しており、それは兵站とロストというシステムで実装されているが、しかし艦これの限界、あるいは優しさというのはゲームの目的それ自体が残酷ではない点だ。たしかに史実における大戦期艦船の船歴は例外なく悲劇的であり、より具体的に言えばすべての艦船は連合国の艦船を撃沈し撃沈され徹底的に消耗しつくして終戦を迎えるわけだが、翻って艦これの敵というのは深海棲艦というよくわからん宇宙人のような連中で、要は藁人形のようなものである。この深海棲艦は闇堕ちした艦娘のなれの果てであることが匂わされてはいるのだが、それはそれとしてとりあえず意思疎通も不可能であるからには倒すしかないわけだし、ゲーム上でも敵を倒すことそれ自体に対して罪悪感を覚えさせるような導線にはなっていない。システムとして表現されているのはあくまで限られた資源で兵站を回しながら艦娘を戦場に送り込み続ける、戦闘はリアルな命のやりとりであり撃沈された艦娘は死亡(データロスト)する、という残酷さ止まりである。大戦期艦船の悲劇的な船歴はあくまでフレイバーの部分であって、ゲーム内で艦娘がロストするのはプレイヤーが意図的に轟沈させた場合に限られるから、日々の戦闘も基本的には名誉に彩られた輝かしいもので、同族殺しの血生臭さは無い。

ではウマ娘はどうか。

競馬に限らずスポーツというのは残酷なもので、勝敗には勝と敗しかなく、試合というのは勝者と敗者を決める活動であるので、って当たり前のことを書いているが、この当たり前のことが残酷になってしまうのは、あるいは小学生のドッジボールが残酷でないのにもかかわらずシリアスな競技スポーツが避けがたく残酷さを帯びるのは、やってる人間が人生かけてるからである。高校野球は高校三年間の春夏二回ずつ、どう頑張っても六回しかチャンスがない上に、これが一回負けたら終わりのトーナメント形式とくる。二死ツーストライクまで追い込んでも次にホームランを浴びれば一点入ってしまうし、悪くすればそのまま試合が終わってしまう、これは尋常な残酷さではない。まあ高校球児にはその後のプロ人生もあろうし野球選手は引退まで長いけれども、これがたとえばサッカー選手なら三十そこそこで引退してしまうし、しかもキャリアの後半は故障まみれの悲痛な消耗戦である。と、いう「正常な」感覚を持っているのは俺がスポーツというものに皆目興味がないからで、スポーツを愛好し観戦し語る連中というのはこうした残酷さに無自覚であり、自己批判的に言及したとしてもそれは口先だけのことである。麻痺するからだ。瑞々しい情動を保った初心者で居続けることは誰にもできない。

馬の寿命は二十年以上あるそうだが、競走馬としては六歳で引退してしまう。競馬のレースはクラス分けされていて、いきなり天皇賞やらに出れるわけではなく、年に七千頭から生まれるサラブレッドが新馬の頃からひとつひとつ勝ちを重ねてクラスを上げて、GIレース出場権を獲得できるのがまずほんの一握り、そのハイパーエリート揃い踏みの十八頭が競争して勝つのがたった一頭であるというのだからこれは尋常な苛烈さではない。中央競馬で戦えるのは基本的に四・五・六歳の三年間、その後のキャリアは良くて繁殖、悪くすれば食肉転用、そもそも引退前に骨折したら安楽死であるのだから、ひとつひとつの試合の重みが違う。剣奴や闘犬が存在した時代にあっては競馬は比較的穏当な紳士の娯楽だったのかもしれないが、現代の感覚からすればサラブレッドという存在の歪さからして文化の美名では糊塗しきれない違和感を覚えてしまう。

ウマ娘が盗用しているのは競走馬の生涯と、競馬の残酷さだ。権利者公認なので盗用という言葉は不適当にも思えるが、そもそも競馬文化それ自体に対する権利を保有できる団体など存在し得ないのだから、文化の盗用という概念を認めるのであればここも同じく盗用と呼ぶべきだろう。競走馬の生涯という鉱脈を擬人化しキャラ付けした点、それら競走馬の生涯が基本的には物悲しい点は艦これに通じる。艦これは敵を深海棲艦に設定することで一部の残酷さを回避したけれども、ウマ娘は現実の競馬そのままにウマ娘同士で戦っている。だからウマ娘から競馬に触れたオタクはこの異常な残酷さに衝撃を受けるし、ビギナーのみが持ちうる瑞々しい情動でもって競走馬のWikipediaを読んでは彼らの戦歴に胸を熱くし、また胸を痛める。誰かがウマ娘を「これは馬オタが死に際に見る夢だ」と言っていたが、俺はそれは違うと思う。馬オタは虹の橋を渡った競走馬たちが楽しく暮らしていますなんて空想を必要としない。麻痺してしまうからだ。その種の鎮痛剤的な夢想を必要とするのは馬たちの死をまっすぐ悲しむ人間だけだし、そして人間はそうやって悲しみを真正面から受け止め続けることはできない。

それではウマ娘がどう残酷さを回避しているのかというと、まず寿命の問題をボカしている点にくわえて、これは別にウマ娘の発明というわけではないけれども、ゲームは複数の正史を並列提示できるメディアであるからというのが大きく、レース後ライブの存在とかは副次的なものでしかない。十八頭のうち一頭しか勝利できないとしても、その一頭の選択権はプレイヤーに委ねられているし、またプレイヤーには次のプレイで別の一頭を勝利させることも許されている。だからウマ娘においてプレイヤーは無限に続く優駿の季節を何度でも繰り返して、すべてのパートナーに勝利の栄光を掴ませることができる。残酷な世界で誠実に戦う、オタクの大好きな文化行為で、これに対して文化の盗用であると激怒する人間がいるのは理解できるし、それは権利者公認だから盗用ではないとか文化盗用の問題は人種間の非対称性に起因するのであってウマ娘にはあたらないとか愛とリスペクトがあるから盗用ではないとか、そういう理屈で調停できるものでもない。

しかし散々書いた通り今回俺は基本的にオタクの側に好意的で、それは身内びいきからのものだけというわけではなく、今オタクどもが感じている鮮烈な情動というのはビギナーしか持ちえないものであって俺にはそれが眩しく思えるからだ。競馬に長く触れてきた人間には知識と経験と分別があり、その蓄積なり継続なり才能なりには敬意が払われてしかるべきだけれども、しかし彼らが競馬の残酷さに対して、その過酷な世界を駆け抜ける競走馬たちのきらめきに対して、ビギナーたるオタクどもがいま感じているよりも鮮烈に感情を動かせているかと言えばこれは疑いなく、否である。感情を動かしたら偉いのか、ということではなく、ビギナーが感じる鮮烈な情動というのは誰しもが一度しか体験できない特別なもので、それに冷や水をかけるような行為には俺は与したくないということだ。オタクどもが艦これに麻痺したように、やがてウマ娘にも避けがたく麻痺していくのだとしても、いまだけはこの素敵な邂逅を俺は祝福したい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?