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1995年、暇を持て余した大学生3人が噂の怪物を観に無計画に水沢競馬場(岩手)に行った話

トウケイニセイって知ってますか?

毎年この時期、少し肌寒くなると想い出す地方競馬の交流レースの記憶。ふと数えてみたらもう28年も前のことだった。

阪神淡路大震災、オウム事件、金融機関の破綻など、暗いニュースが続いた1995年。それは10月9日の夜、当時まだ大学生だった私と2人の友人、金と理性はないけれど、暇と精力だけは無駄に持て余してたあの頃…

毎日の様に友達と連れだって駅前をプラプラして、でもお金がないから結局、部屋でダラダラ。ひたすらやり続けた「ダビスタ」で育てた強い馬を持ち寄ってブリーダズカップをしたり、ゴロゴロしながらテレビを見たり、マンガを読んだり、エロ話したり…

その日もそうやって、私の部屋で2人の仲間とグダグダしながら夜が更けていこうとしていた…その時、誰が話はじめたかは忘れてしまったが、明日の祝日(10月10日)に岩手の水沢競馬場で開催される『南部杯』というレースの話になった。

地方と中央のダートの交流重賞が本格的に始まり、交流元年と呼ばれたこの年、ようやく整備され始めた中央のダート戦線(まだフェブラリーSはG2)で、交流重賞2連勝を含む6連勝を飾り、向かうところ敵なしのJRA所属馬ライブリマウントが、明日、岩手のスゴイ馬と対決するらしい。

そのスゴイ馬こそ、生涯成績43戦39勝/2着3回/3着1回(41連続連対は今もなお日本記録)というパーフェクトな成績で、当時現役にして既に伝説となっていた岩手が生んだ最強馬“トウケイニセイ”。

今でこそ、中央競馬だけでなく地方競馬の情報もリアルタイムで簡単にチェック出来る時代だが、当時は携帯どころかパソコンもまだ一般的に普及しておらず、おそらくインターネットという言葉も知ってるか知らないか微妙なぐらい時代。そんな中、私たちにとって、岩手の最強馬“トウケイニセイ”という存在は、ジャパンカップ の外国馬以上に未知の存在であった。

『よし、岩手にいこう!』

誰かが言った。

時計の針は間もなく23時。でも誰も異論はなかった。そうなぜなら、暇と体力だけは有り余っていたから。

何しろ情報がなかった。もちろん、インターネットもまだ普及してない時代。とにかく、持っていた競馬週刊誌や月刊誌で掻き集めたトウケイニセイの情報は…

・今年から全国交流競走となった明日の「南部杯」という岩手の大レースに出走するらしい
・デビュー時から常に脚部に爆弾(怪我)を抱え、なんとか騙し騙し競馬に使っているらしい
・そんな状況の中でデビュー以来41戦連続で連対記録を伸ばし、岩手競馬最強馬といわれているらしい
・脚元に不安を抱えているため、遠征はせいぜい東北圏内で、全国規模の競走に出走したことはないらしい
・地方交流競走の開放に伴い、9歳(当時表記)にして初の全国規模レースへの出走となるらしい
・今年一杯で引退するらしい

そんな山積みの「らしい」から俺たちが導き出した結論…

『やっぱり、岩手にいこう!』

しつこい様だが、スマホはもちろん、まだiモードはおろか、インターネットも普及してない頃の話である。10月の岩手がどのくらいの気候なのかも分からず、お天気情報は新聞の天気欄のみ。とりあえず、箪笥の奥から、ダウンジャケット、革ジャン、スノボのウェアと3人分の防寒着と毛布を引っ張り出し、車に積み込む。

ちなみに、私が初めての携帯電話(東京デジタルフォン)を持つのはこの翌年の冬、あと数ヶ月先の話だ。それでも周囲では一番早かったぐらいだ。

当時、私が乗っていた車は、実家のセカンドカーだったスズキ自動車の「ジムニー」。なぜ、実家のセカンドカーが「ジムニー」だったのか今となっては不思議だが、無骨なフォルムが好きで結構気に入っていた。今でも根強く熱烈なファンを持つ軽四駆の元祖とも言えるジムニーだが、いかんせん長距離旅行に向く車ではなかった。

・高速道路を90km以上で走行すると、かなりのエンジン音が車内に響きわたる。
・とにかく椅子が硬い。
・後部座席は「一応付いてますけど」程度で、大人が長時間乗っていられるほどのスペースはない。
・高速道路で横風をもろに受けると倒れそうになる。

とにかく出発。

3人の財布のお金を合わせると、岩手までの往復と諸経費でギリギリといったところだったが、まあ向こうの銀行でお金をおろせばいいし、『ていうか馬券で勝てば問題ないでしょ』と、こういう時には誰かが必ずそう言う。まさかこの時はあんなことになるなんて、誰も知る由もなく…

闇夜の東北自動車道をひたすら北へ。軽自動車が深夜のトラック野郎たちの合間を縫って緯度を上げていく。

カセットテープでユニコーンの歌が流れる車内のテンションは最高潮に達していた。

【参考】南部杯の歴史と意義
http://www.tesio.jp/08nanbu_sp/08nanbu_signif.html

千葉から水沢までおよそ500キロ。交代で運転すること7時間近く、ようやく水沢競馬場に到着。明け方まだオープンしていない競馬場の近くに車を止め、銀行が開く時間まで仮眠…

しかし、ふと今日が祝日で銀行はやってないことに気がつく。13年前はコンビニにATMも無かった。サラ金といえどもこんなバカ学生には貸してくれない。持ち合わせのはした金で勝負をかけなければならないことになった。

銀行での引き出しをあてにしていたため、帰りの交通費のことを考えると、そんなに多くの馬券は買えない…が、それぞれがお互いに『まあ誰かしらお金を残すだろう…』と身勝手に思っていた。

その日の水沢競馬場は、朝から一種異様な空気感を漂わせていた。岩手の生んだ最強馬が、初めて全国級のレースでJRAのダート最強馬を迎え撃つのである。「ライブリマウントだかなんだか知れねーけど、ニセイに勝てるわけねーよ」周りの誰もがトウケイニセイの勝利を信じて疑わない、そんな雰囲気がどこかしこにも漂う。普段の水沢競馬場を知らないので比較のしようがなかったが、入場者数も相当多かったのではないかと思う。時間がたつにつれて場内は動けないほどの人で溢れかえっていった。

資金の都合で買うレースを絞りたいが、目の前で馬が走り、しかも旅競馬でテンションアゲアゲ、そして睡眠不足、我慢出来るワケがない。結局、朝の1レースから手を出してしまう。そんな中、横で仲間の1人A君が、何枚ものマークシートを記入していた。

「Aよ、なにしてんの?」と私。

「電話で父親に記念馬券を頼まれた。全レースの馬番①番の単勝を買って来いと。①番ならどのレースに必ずいるだろうから」と友人A。

いやいや②番も間違いなくいるぞ、Aのオヤジさんよ…と思ったが口には出さなかった。 いや口に出さないで本当によかった。

地方競馬場、それも南関東ではなく岩手競馬である。知識はゼロ。普段はJRAを主戦場にしている私たちにとっては完全なアウェイ。まずはそこの競馬場の傾向などを掴むことが大事なのだが、レースには限りがある。気がつけば、まったくペースを掴めないまま全員が連戦連敗。

このままではスッカラカンで北の地でのたれ死に。もはやハズれるワケにはいかない。メインレースの南部杯は、トウケイニセイと同じく我々にとっても絶対に負けられない1戦となった。

馬券はトウケイニセイから買うか、ライブリマウントから買うか。その2択しかない。2頭の1点馬券を買うほどの資金はなく、だからといって両馬とも外した馬券を買うほどバカではない。

ではどっちか。普段は穴党でJRA派の私だが、あの日、あの場所でトウケイニセイを応援せずにはいられなかった。

しかし勝ったのはライブリマウント。トウケイニセイはヨシノキングの後塵も拝し3着。デビュー42戦目にして初めて連対を外した。

ここではあえてレースの内容については深くは触れないが、トウケイニセイはすでに9歳。全盛時のトウケイニセイを見たかったという思いが強く残った。

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主戦騎手だった菅原勲は後にJRAGIフェブラリーステークスを勝ったメイセイオペラにも騎乗しているが、トウケイニセイとの比較を尋ねられて、トウケイニセイの方が強いと断言している。菅原曰く「メイセイも強くなっているが全盛期のニセイに比べればまだまだ。一番良い頃のニセイがドバイワールドカップに出たら勝っていたと思う。(ウィキペディアより)
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トウケイニセイが負ければ、当然馬券はハズレ。わざわざトウケイニセイを見に岩手まで来て、トウケイニセイが生涯で唯一連対を外したレースを見て、そのハズレ馬券を持っている。まあ確かに私たちらしい気もするが、ハズレ馬券じゃ、高速道路は乗れないし、ガソリンは入れられないし、お腹も一杯にはできない。

悲しいほど厳し現実がついそこまで迫ってきていた。 俺たち帰れないかも?

ちなみに、勝ったライブリマウントの騎手は石橋守。既にこの時から今と変わらず地味な中堅騎手という雰囲気を漂わせていた。その10年後に彼がダービジョーッキーとなることをこの時、一体誰が予想しただろうか。

迎えた最終レース。最終レースは3人なけなしの金をかき集めて最後の勝負。この日はとにかく、4コーナーで3番手以内にいた馬同士でほとんどのレースが決まっており「とにかく逃げ馬を買おう」という点で意見は一致。逃げそうな馬4頭のボックスを購入した。

レースは購入した馬同士が先頭で3コーナーに入り、そして4コーナーまでもそのまま、「よっしゃもらった!」「ようやく水沢を掴んだ!」と叫びながら、まだレースが終わってないのに払い戻し機の列に並ぶ…が直線、あっという間に差されてあっさり不的中。脱力。

呆然とする3人。3人の残金を合わせても、高速道路料金はおろか、ガソリンもたいして入れられない額。マジで帰れない…

誰もがそう思った時、「あっ!」モニターに映る本日の払い戻し一覧の画面を見て、友人が叫んだ。

「オヤジの①番単勝馬券が当たってる。」

あの全レース①番の馬券だ。しかも、ショッパイ配当ではない。単勝50倍の的中だった。

奇跡は起きた。ありがとうオヤジさん。記念馬券だけど、勝手に払い戻させてもらいます。なぜならこのままでは帰れないからだ。

とはいえ払戻金5,000円+小銭。限られた資金の中で、帰宅するための唯一の方法は

・ガソリン1回の補給
・もちろん一般道をひたすら南下
・途中コンビニでおにぎりとお茶

しかなかった。

競馬場を出る前、朝からほとんど何も食べていなかった3人には、どうしても食べたいものがあった。それは…

水沢競馬場名物“ジャンボ焼き鳥”

でも3本買ってしまうと、ジムニー号がガス欠になっていまう可能性が高い。だから1本を3人で分けた。ホントに美味かった。 そして本当はもっと食べたかった…

私はこの時のジャンボ焼き鳥の味を超える焼鳥に未だに出会っていない。

競馬場を夕方に出て、国道4号線をひたすら南下。ひたすらという言葉はこういう時に使うんだというぐらいに「ひたすら」。家に着く頃は、再び空が明るくなりはじめていた。

若かった日々にはもう戻れないが、思い出は永遠に色褪せない 。

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