代替脳 冷凍睡眠

代替脳 冷凍睡眠

【あらすじ】
架空の令和三年。『亜種』と呼ばれる、新型ウイルスの新たな変異株が日本を席巻した。窮地に追いやられた劇団・奴隷の邦(どれいのくに)は、代表・五能の指導により暴力的手段と扇動を以て感染拡大の収束を実現。多くの揺るがぬ支持を集めた。数年後、毒性を増した亜種の第二波に奴隷の邦は再び立ち上がる。しかし、記者会見場に現れた副代表・三沢が行橋博士と共に発表したのは新技術「冷凍睡眠」だった。亜種に蹂躙され、少数のみが生き残る架空の未来。


……そんなことより、いつになったら演劇ができるようになるんですか?


【備考】
登場人物の性別は役者に合わせ全て反転可。但し"三沢"のみ女性が演
じて欲しい。“トガタ””行橋”は女性推奨。


《一幕》
1-1 2020年代半ば。冷凍睡眠の技術を発表した後に三沢は姿を眩まし、五能は権力闘争に明け暮れ多くの団員は殉死し奴隷の邦は瓦解していた。
団員・津軽はかつてのアジト跡に同じく団員である大間を呼び出す。
気乗りしない大間と胡乱な挨拶を交わし、やがて大間が切り出した。


大間 みんな死んでしまいましたね


自嘲でも厭世でもない挑発の言葉だった。津軽が反射的に返す。


津軽 みんなじゃねえだろ!
大間 あ?
津軽 死んだのと、行方不明だ
大間 ああ、そうですか
津軽 訂正するべきじゃないか
大間 どっちも同じでしょ
津軽 ……この野郎!
大間 ほらもう始まった!唾飛ばしながら近寄るなって!
津軽 チッ
大間 そうやって気が立ってるのが何よりの証拠ですよ。私たちだけ で何ができるっていうんです?
津軽 抗体を獲得した俺とお前なら続けられる!
大間 あなたの誘いに乗るために来た訳じゃないことくらい分かるでしょ う。面と向かってNOと言うために来たんです
津軽 ……
大間 では私が宣言しましょう。本日を持って奴隷の邦は解散です。共に 研鑽した日々は決して悪くはなかったですよ(去ろうとする)
津軽 お前に決める権限はねえ
大間 は?


今度は逆に挑発に乗ってしまった自分に嫌気がさした様子の大間。
津軽は続ける。


津軽 腹を割って話そう
大間 私の考えは再三お伝えしているはずですが
津軽 やって証明するんだ
大間 何を
津軽 先人たちの二の轍を踏まない為に、お前の力が必要だ!
大間 堂々巡りじゃないですか。帰ります(去ろうとする)
津軽 待てよおい!お前これからどうするつもりか話すって言ってたろ!
大間 もういいですよ
津軽 この野郎匂わすだけ匂わせやがって……!
大間 おいっ


津軽は大間の鞄の端から覗いていたチラシを取り上げる。ついでに車のキーも巾着切りした。チラシには蛍光色にでかでかと『冷凍睡眠』と書いてある。


津軽 なあ大間。今日はここまで顔出してくれてありがとう。これ駅前に 貼ってある奴だよな。……ほんとは話したくて堪らなかったんじゃ ねえの?冷凍睡眠、お前まさか興味あるのかよ
大間 グレーなバイトでその資金が集まりましてね。末期患者の老人が抗 体持ちの血液で透析をしてるんです。何の成果も見られませんが
津軽 手が届いたのか!?冷凍睡眠に
大間 冷凍処理自体には。これでは数年も保存して貰えないでしょうが
津軽 足りない分はどうするんだ。たかるツレもいないだろ


たかるツレとは大間の死んだ恋人である。当然大間は青筋を浮かべるが、
津軽の無神経さ・必死さの連続に哀れみの気持ちさえ湧いてきて、


津軽 冷凍睡眠"エコノミープラン"。……目覚めの悪さはお墨付きだな
大間 ええ、そうですね……


大間は眉間を抑える。津軽はあくまで無邪気に、


津軽 どこでやんの?
大間 そのチラシと同じ色のでっかい看板が見えるでしょう。そこで薬剤 を射った後冷凍を行います
津軽 あの雑居ビルか!?……でその後は?
大間 通称冷凍庫に運ばれるとのことです
津軽 もし事故にあったらどうすんの。輸送中に
大間 その可能性はこれに限らずあるでしょう
津軽 お前度胸あんね(感心)。……いや、そもそも何でお前冷凍睡眠 なんかするんだ
大間 もう何もかも生きて支え続ける意味がないと判断したからです
津軽 そうやって一人一人降りていったら来る未来も来ないぜ
大間 近頃よく私の生まれた村を思い出すんです。ただ資本家の恵みに預 るためだけに一日中働いて、負担を分散するためだけに家族を作っ て
津軽 は、今更何だ。俺たちは社会にはとっくに愛想尽かせてるだろ
大間 羨ましくもありますよ。未だにそんな反骨精神を持ち続けているこ と。どうせこうなるなら、社会に真っ向から楯突いてまで成し遂げ たことは一体何だったんだ!
津軽 お前どうした。壊すべき社会だから壊してきたんだろ。変えるべき だから
大間 ええそうです、その志は変わりません。ですが、今となってはその 努力も虚しい。先進国には蔑まれアジアの人間には憎まれ
津軽 そんな奴らのことどうだっていいだろ
大間 現実見ろよ!亜種を恐れて海外資本はどこも完全撤退。アジアから 労働力を連れてこれるはずもなく……いや、アンタみたいなのには 住みよい国になったってことですか?
津軽 ……
大間 はぁ
津軽 …………手術はいつなんだ
大間 2月です
津軽 まだ3ヶ月先じゃねえか。……おい、俺はこの間公演を3本打つ。 ずっと温めていた本があるんだ。付き合えよ!
大間 はぁぁ?だからもうこれ以上あんたと関わりたくないんです。 五能さんも三沢さんもいない俺たちが一体何なんだ
津軽 なあ、俺たちゃガキじゃねえんだ。いつまでも五能さん三沢さん言 ってる場合か?確かに奴隷の邦は瓦解したかもしれない。なら俺た ちで新しく始めるんだ
大間 違えわ。お前に一体何が出来るんだ?
津軽 え
大間 ゴミ戯曲ばっか量産しやがって
津軽 おいおい
大間 おいおいじゃねえよ!ガキはてめえだ。あの人たちはなあ、混迷す る時代でも的確に真実を導いてきた。変異株が亜種と呼ばれた時隠 された情報を暴いたのは三沢さんだ。テメエ等の利権を貪ることし か頭にない政治家を皆殺しにしてやったのは五能さんだ。それと同 時に劇団として作品を残してきた。二人の右腕だ何だ自称していた が、腰巾着でもねえよお前なんか!
津軽 ……お前、そんなこと思ってたのか
大間 そんなこと?ただずっと下らない奴だと思っていたよ。特にテメェ のツレが呼吸器に繋がれてからの腑抜け様はな!
津軽 ………………
大間 そろそろ降ってくるらしい。一人でも頑張って下さいね。寄り付く 客がいればな(帰ろうとして)
津軽 ……車だろ!?


チラシの時にスった大間の車のキーを掲げている。ヤケクソ。
大間はポケットを探り、溜息に似た呼気を漏らす。


津軽 団員じゃなくても、奴隷の邦にシンパしてる奴なんて大勢いる。そ いつらも集めて
大間 ハナから五能さんと三沢さん探すの諦めてんじゃねえよ!(去る)
津軽 おい!…………スマホで鍵開けられるのか……


車で走り去る音。取り残される津軽。雨音。


1-2
白い拘束衣に身を包んだ男が椅子に戒められている。すりガラスの奥のように光る瞳には蒼い景色が映っている。その中にはいくつもの光が揺らめき、宇宙にも水中にも思える。男は指先で肘掛けを繰り返し叩き、指先で刻むパターンを延々と繰り返している。
……深夜、寒風吹きすさぶ山中の道路から三沢は眼下の施設を見下ろし電話で応答している。


三沢 ああ、では手筈通り潜入する。……最後の”冷柩車”の受け入れから 物音一つない。相変わらず”冷凍庫”が聳えるばかりで……誘い込ま れているようだ。なあ?


それに対し答えはない。電話の相手は五能だが、三沢は疑念を抱いていた。


三沢 ……お前、今何してる?姿も見せず指示を飛ばすだけか。それと も、俺はもう捨て駒か?冷凍庫に潜入するんだ、行橋博士との軋轢 は避けられない。内通者は分かった。誤魔化すな。……五能、俺が お前の下で仕事をするのも今回が最後かもしれないな


電話口からは、『何か他に言いたいことはあるか』と帰ってくる。


三沢 言いたいことだと?もう全て言ったさ。奴隷の邦で権力を得て演劇 から足を洗っちまったお前がどんな未来を思い描いているのかは知 らんが、あの時、第十四回公演が流れてしまったことを今でも口惜 しく思ってる奴だっている。立ち返るべきじゃないのか、昔のよう に……


電話口から帰ってきた言葉は、『なあ、昔って、何年前だよ』だった。


三沢 ……そうか。浮かれてたのは俺だけか。そうだよな。例えばさ、そ れでも演劇を生で観たいって奴を集めて……そんな奴いやしねえが さ、或いは嫌がる連中を無理やり劇場に詰め込んで強制的に演劇を 観せるなんて滅茶苦茶、俺たちならいつかやっちまうんじゃねえか なって思ってたけど……俺も、未来を見据えることにするよ。忙し いのに済まないな。……成功を祈っていてくれ


電話を切る。「冷凍睡眠の施設に潜入し、内通者と会え」。
十中八九、嵌められているとは気づいていた。


1-4 
一軒家の二階の子供部屋、少女が横たわっている。空腹感と、窓から射す正午の光に目を覚まし、PCの電源を入れビデオチャットに接続する。


ちみ 皆さん!ちみです!昨日に引き続き窮地です。今週のジャンクの話 はやめてください。私まだ読んでないんですから!


嫌々話を聞く体勢になるPC越しの面々。気づきつつも饒舌に語るちみ。


ちみ 私はこれでまる二日ご飯を食べていません。私の空腹問題も重大で すが!母に何かあったと思われることの方がもっと重要です!…… UBERを送って下さるというのはありがたいですが、部屋からは出 られませんし窓ははめ込まれています。解決策は考えてくれました か!?


一人が答える。『だから警察呼べば?』


ちみ だから警察は呼べません。二階に私を閉じ込めていることが知られ たら母は罪に問われるでしょう。ましてや子にワクチンを受けさせ ていないなど。そして私も連れて行かれた先でワクチン接種を余儀 なくされます!……ねえ、ちょっと。新連載の評判良さそうです ね。あまり詳しく言わないで下さい。他は!?


既に粗方の解決策は昨日のうちに提案されたし、みな手の出しようがないことを悟り半ば興味を失っている。


ちみ 行橋博士と奴隷の邦の五能って人がワクチン未接種の子供を支援し ているのは知っています。が、それで助かるのは私だけです。反ワ クチン主義者は独自制裁ですからね。だから私はそれらの機関に頼 らずこの状況を乗り越えねばなりません!みんな、知恵を貸してく ださい!……そうですか、今週のバンピはそんなことになっている んですか。流石に大詰めですね。……ねえ。皆だって、部屋から出 ないことを選んだんでしょう!?明日は我が身かもしれないんです よ!? 真剣に考えて!私、このまま部屋から出られずに死んじゃう かもし れないんだよ!お腹空いたし、もう……


自然と零れた涙を拭うちみ。誰もが子供じみた戯言だと思っていた。
ふと、彼女が無意識に思い出すことを拒んでいた母との最後の会話が思い起こされる。


ちみの母 千衣沙、お昼ご飯よ


ドア下に設えた戸から食事を運ぶ。


ちみの母 ねえ千衣沙……冷凍睡眠、知ってるよね?昨日ね、お父さん の……お父さんが、まとまったお金を送ってくれて、それでもしか したらって思ったんだけど、どうかしら。……ごめんなさい、やっ ぱり忘れて。でも、もうこれ以上は……お父さん、どうして……
ちみ お父さん、多分死んだんだな。もうずーっと声も聞いてない。それ じゃあ、お母さんは私を置いて……?そうだ、あの後呑気にご飯食 べて、ゲームなんかしなきゃよかった。お母さんときちんと話し て。そしたらこんな部屋で、飢えて死ぬこともなかったのかもな


ちみは手元に転がっていたコミックをぱらぱらめくる。『ハンティング+ハンティング』の36巻だ。


ちみ 『ハンティング+ハン ティング』……この結末も、観れないのかぁ


PCではちみの友人らがジャンクの感想を交わしている。その中の一言がちみの目を覚まさせた。


ちみ は……?何?もっかい言って……?……トガタ先生が失踪!?!?


怒涛の勢いでPCに齧り付くちみ。呆気にとられる友人ら。


ちみ またか!またなのか!?一年半振りに連載を再開して……もう!? 理由は何……見せて!失踪のため……失踪としか書いてない。過去 の休載の時にはきちんと理由が書いてありました。だが今回は何 だ、失踪!?!?


立ち上がるちみ。友人らは引き攣った笑顔で『げ、元気になったね』と。


ちみ 元気になんてなってません!通り越したんですよ!空腹と、呆れ が!


ちみはウエストポーチに『ハンティング+ハンティング』36巻とスマホを詰め込み立ち上がる。そして画面の向こうの友人らに宣言する。


ちみ 私は、トガタ先生を探しに行きます。そして、もし下らない理由で 消えたっていうんなら、完結するまで一生尻を叩いてやりま す !……狩人試験オリジナル問題!外から鍵の掛かったドアとはめ込 まれた2階の窓、この部屋から脱出するにはどちらを選ぶ!?私の 答えは……こっちだーーー!


椅子で勢いよく窓ガラスを粉砕する。クッションにするため布団を落とし、カーテンを外して窓枠に括りつけた。外の匂い、風……


ちみ 窓って割れるんですね!私こんな部屋で死んでいく訳にはいきませ ん!トガタ先生を見つけたら、また連絡します!


窓枠を乗り越え、数年ぶりの外へ踏み出す。ボフッと布団が彼女を受け止める音。ちみの母は、父の死亡によって家族関係を洗い出され、ワクチンを射たせていない子を匿っていることを察知され拘束されていた。間もなく家に捜索が来るだろうが、その間に逃げ出すことができたのは彼女にとって幸か不幸かは分からない。


《二幕》
2-1
一幕の数年前、2021年から数年後。亜種の第二波到来の前夜。
テレビからニュースキャスターの声。
『亜種の第二波到来が危惧される中、政府はその兆候を否定……万博を控えた大阪府からの要望か……』


津軽 テメーふざけたこと抜かすなこの野郎!!


酩酊した津軽が酒瓶を投げつけテレビを破壊した


八戸 おーい!アナウンサーに当たるなー!
大間 その前に俺のテレビだろうが!どうしてくれんだよ……
弘前 これは派手にやったね
八戸 やっちゃった
大間 八戸~テレビが脳みそつるつる軽軽の馬鹿に壊されちまったよ
八戸 はいはい、じゃあ今度家の持ってくるよ
大間 マジ?やった!
津軽 おい、また八戸に金出さすのか?
大間 持ってくるつったろ
津軽 これだからな~大間抜けのマグロさん
大間 てめどの立場で煽ってるんだ(津軽を踏みつけ)
津軽 うおおお刺さってる!背中に刺さってる!(液晶の破片)
弘前 さっき三沢さんから連絡来てたんだけど……第14回公演、延期だ って
八戸 ……まあ分かってたよ。うちらが感染者出してちゃね
津軽 なんで弘前のとこにだけ来るんだよ
弘前 みんなのとこにも来てるよ


大間、怒りのままベランダに煙草を吸いに行く


津軽 やめとけ!死ぬぞ!
大間 は?
津軽 やめとけ~死ぬぞ~


ベランダのガラス戸を開ける。部屋着の薄さと真冬の寒風で全員固まる。


八戸 上着持ってきな!(大間に駆け寄る)
津軽 お、良妻!
八戸 うっさい
大間 いい、やっぱり止める……

大間は八戸の肩を叩き腰を押して部屋に戻してから、台所の換気扇下に向かった。弘前はその妙に親しげな仕草に気づいてうっすら帰りたくなる。

八戸 さあ亜種第二波が来るぞ!
津軽 変異しようがヴァージョンアップだろうが俺は効かん
弘前 高括ってられないよ。21年に罹患して無事だった人が今度は重症だ
津軽 おい大間戻れよ。せっかくいい役だったのに拗ねるのは分かるがよ
八戸 今度はどうなることやら
津軽 どうせろくなことになりやしないさ
弘前 結局緊急事態に際した十分な法整備はされなかった。経験がある分 マシになるだろうけど、期待はできないね
津軽 経験なんてないだろあいつら文句言ってただけだぜ
弘前 ああ、どちらにも期待はしていない。権限も実務能力も差はないの なら、やはり奴隷の邦のような超法規的な活動が物をいうことにな る
八戸 今度の政府とは、協力できるといいね


台所から大間戻る


大間 寒ぃ。おいガラス掃除しとけよ
津軽 ガラスじゃありません液晶です
大間 ぶち殺すぞ!
八戸 折角ニコチン補給したのに
津軽 肌が土気色だぞ!寒さと酒のせいだけか!?


津軽が大間の肌の色をいじることは珍しくなく顰蹙を買っているが、酩酊した津軽はいつも以上に気づく様子はなく、


津軽 しかし延期か。これからまた暗黒の時代が続くのかね。それも日本 発で
八戸 亜種第二波に対応できるワクチンさえあればねえ
大間 五能さんが行橋博士と協力して開発を進めていると聞いてますが
八戸 え、そこどういう繋がり?
大間 何でも新技術の開発に協力するとか
津軽 あー、飲みに集まるのも暫くお預けか……


少し静寂。弘前だけ帰り支度を始める。


津軽 俺、一人芝居やろうかなって思ってるんだ
弘前 ……いつ?
大間 やめてくださいよ
津軽 事態が収まってからだよ!これ書いたんだ。よかったら読んで くれ


鞄から3冊本を取り出し渡す


八戸 『駅前』……(タイトルを読み上げかけて)
津軽 あー言うな言うな!恥ずかしい!
八戸 別にデータで送ってくれたらいいのに
津軽 俺は紙派なんだよ
大間 うちのプリンター勝手に使いやがったな!
弘前 ……そろそろ解散かな。明日もあるし
八戸 ねえ大間、これからうちに来て、それからテレビ持ってこようよ
弘前 じゃあ、また。津軽くん、お開きにしよ
津軽 え、読む流れじゃないの!?
大間 帰れ!(上手くオチず)……あとテレビ弁償しろ!


2-2
夜も更ける頃、津軽は恋人であるゆりと暮らす家へ帰る。
戸を開けると、薄暗い明かりの中、ダイニングの椅子に座るゆりの背中が見える。傍らには荷物の詰まったボストンバッグがある。
いかにも、実家に帰ります、とでも言いそうな雰囲気


津軽 ゆり?ただいま……?
ゆり しぃちゃんおかえり……コロナ、罹っちゃった
津軽 そ、そうか。何かと思ったけど、コロナか。安心した
ゆり 安心したって
津軽 いやその、別れ話かなと
ゆり 違うよ
津軽 だよな、だから、安心した
ゆり あ、あんまり近寄らないで。触ったところは拭いたけど
津軽 分かった。寝てろ
ゆり あのね、発熱外来に空きがあったから行ったんだけど、亜種って診 断されて、元気なら自宅で経過観察って言われたんだけど
津軽 ああ、何かして欲しいこと……
ゆり その……五能さんから連絡が来て
津軽 え
ゆり 今度のは、亜種は亜種でも、別物かもしれないって。だから行橋博 士と研究させてくれないかって
津軽 へえ、連絡先どこから知ったんだろうな、劇団のメルマガか?個人 情報の横流しじゃん!
ゆり どうせ職場にも行けないし、協力してこようかなって
津軽 ああ、行ってこいよ
ゆり しぃちゃんの出世のためにね。覚えがよくなりますよう
津軽 馬鹿言うな
ゆり 明朝向かいます。……公演は中止?
津軽 延期だよ
ゆり そっか。……これでしばらく、しぃちゃんの舞台を観れない ね。一人芝居は?
津軽 それはな……そもそもチケットが売れてなくて、皆にも今日初めて 言ってみたんだけどでも……中止にせざるを得ない状況になって なってむしろありがたいというか……
ゆり そっか。頑張ってたのに、残念だね
津軽 劇場からNGが出ない限りやったっていいんだぜ!?
ゆり 止めた方がいいよ
津軽 ……そうだよな
ゆり 落ち込まないで。私が観てあげるから
津軽 ゆり
ゆり 私だけの客席でも、しぃちゃんは全力投球でしょ
津軽 はは……(過去、実際そういう状況の舞台を思い出して)違うよ、 お前さえ観てくれていたら、俺はどこまでも頑張れるんだ
ゆり うん。約束する。私ずっとあなたの演劇を楽しみにしてるから
津軽 じゃあ 観てくれるか?ランタイムは1時間少し
ゆり 夜遅いから声抑えてね
津軽 ああ。……津軽企画第二弾!『駅前SOS』!!


電車の音。

五能からの電話。『津軽。久しぶりだな。……行橋博士の病院で預かっている本荘ゆりだが、たった今呼吸器に接続した。感染していたのは亜種の第二波、桁違いの毒性だ。検査では陰性でもぬかるなよ。三沢の指示によく従え。また演劇ができる世界のためにな』


2‐3
「亜種」第二波の到来が確実となり「奴隷の邦」団員たちは動き出した。

住宅街、暴力による都市ロックダウンを目論む大間は住宅前のブロック塀に背中を預け、出てきた住人に声をかける。


大間 これからお出かけですか?お買い物でしたら、今朝簡易検査で陰性 であった我々奴隷の邦がドローンにて代行します。(男性は大間を 押しのけ外出する)お仕事ですか?ならお勤め先にはこうお伝え下 さい。……奴隷の邦に暴行を受けたと


おもむろに取り出した鈍器で背後から男性を殴打した。

テレビ局の駐車場前。弘前は身を屈めトランシーバーで連絡を取る


弘前 予定通りテレビ局駐車場より目標の車出庫確 認。よーしじゃあみん な、そこのカーブで狙ってね。せーのっ


部下が各々の手段でタイヤをパンクさせる。車はスピンし路肩に乗り上げた。フロントガラスに長い獲物を持った弘前が足をかけ、


弘前 劇団奴隷の邦だよ。亜種第二波は第一波とさほど変わらない!って 嘘。そういうのでも、ちゃーんと罰していくことにしたから。この 期に及んで誰のために嘘をつくのかな?


獲物でフロントガラスごと一突きし、満足げに仕事を終えた。

某政府の施設。無数の人混みを前に八戸は言う。


八戸 無辜の市民たる私たちが、丸腰で邪悪の本拠地に歩み入ること。デ モでなくして何だというのでしょう!? ここに居座る者たちに、直 接民意を届けるのです!……(建物の敷地内に進行するデモ隊。ふ と列の先頭を外れ、何やら資料を漁り電話して)うん、裏付けは取 れそう。そっちにデータ送るから、記者会見の準備急いで!

場所代わり彼らのアジト。

弘前 みんな、いい仕事をしているそうじゃないか
大間 でも実力行使なんてほんの数例ですよ。街宣車で奴隷の邦が見張っ ていると言えば出てくるのは馬鹿だけです
八戸 街宣の音声出回ってるよ。これ送れば会社休めるって
弘前 いいことじゃないか
大間 今日の会見で、活動の成果が公表されるんですね
弘前 満を辞してね。政権の転覆も一度や二度では足りないだろう
大間 そんな中使えねーのが一人……


津軽は隅っこで深刻げに呆けている


八戸 津軽くん、身近な誰が感染してもおかしくないってずっと分かって るじゃん。津軽くんの仕事も他の団員がカバーしてるんだし……
弘前 強権的に振舞う僕たちがそんな態度だったら流石に示しが付かない
大間 いいんですよ。こいつが腑抜けなんて最初から分かってたことです
弘前 三沢さんからメッセージ……。『津軽に伝えろ。居ても足しになら ん人間を抱えておくほどの余裕はない。会見の終わりまでに答えを 出しておけ』
八戸 こわ
弘前 これは……最後通告だね
八戸 今の津軽くんには気休めかもしれないけどさ、私たちは亜種の第一 波には効いたワクチンを打ってるんだから。回復することを願うし かないよ。てか本格的な第二波が来る前に入院できて逆に良かった んじゃない?
弘前 まあそれは言えてる
八戸 うん。分かった?それじゃーまた演劇ができる未来のため、劇団奴 隷の邦第14回公演に向けてがんば…………ゴホン!


八戸の咳き込みに一同振り向く。……そして同日午後


弘前 陽性。分かった。僕も急いで検査しないと。お大事にと伝えて。そ ろそろ会見が始まる。また夜。……


テレビを見る弘前。三沢と見知った顔の団員、行橋が並んだ。そして……


弘前 …………『冷凍、睡眠』?


《三幕》
3-1
1-1の終わりから。大間の車のキーを持ちしょげた様子で街を行く津軽。
降り始めた小雨に空を見上げると、例の雑居ビルの広告が目に入る。
その前方、がらんどうの駅前に屋台型の特設テントが設けられていた。
そこに居たのは、


津軽 ……弘前!?


弘前はスピーカーの録音から宣伝文句を連ねている


弘前 『安い!冷凍睡眠が今なら安い!ノア生命保険社は冷凍睡眠の販売 を通じ、一人ひとりに安心できる人生設計のお手伝いをいたしま す!冷凍睡眠で不安をパッと消しましょう!今ならTポイント貯ま る使える!』
津軽 弘前!
弘前 『相続税対策にも持って来い……あ、津軽くん。久しぶり』
津軽 お前、生きてたのか
弘前 『運良く。感染したものの軽症で済んで』
津軽 何やってんの
弘前 『冷凍睡眠のセールスマン。屋台で移動しながら広報活動中』
津軽 それも衝撃だが……連絡くらいしろよ
弘前 ああ……うん
津軽 生きているなら、もう一度演劇をしないか?俺たちが火付け役 に……
弘前 『それが嫌だったんだよ』
津軽 え
弘前 『それを言われるのが嫌だから君とは連絡を取りたくなかったん だ。駅前にいても会わないだろうと思ってたけど……まさか外を ほっつき歩いてるなんてね。やるわけないだろ』
津軽 そうか……済まなかった
弘前 『あとさ、僕たちだから別にいいけど、マスク持ってるの?』
津軽 ああ今日は大間と会うだけだったし、やっぱり街に人がいないから
弘前 『へえ、大間くんと会ったんだ。彼は行橋博士らに誘われて私的な 治安維持部隊に所属しているそうだね。元気してた?』
津軽 そんなこと言ってなかったぞ。まさか連絡取って……

弘前 (口が滑った、という表情)
津軽 ……スピーカー越しに話すのやめろよ
弘前 まだ何かあるの?
津軽 営業トークでもしろよ!(半ギレ)
弘前 津軽くんお金無いでしょ。帰ってノア社のHP見てよ
津軽 ノア社……絶対黒幕じゃん
弘前 (つまらなさそうな顔)
津軽 何とかゆりを冷凍睡眠させてやれないか
弘前 え、”まだ”死んでないってこと?まさか。感染したのは第二波流行 の前夜と言ってもいい時期……一年以上前。ずっと呼吸器に?
津軽 ああ。何とかならないか。保険屋だろ。俺に保険掛けて殺すとかで もいい。何か……
弘前 いや……その必要はないかもしれないよ。ノア社が推奨する新プラ ン『代替脳』があれば
津軽 『代替脳』……?
弘前 患者から取り出した脳を培養液の満ちた水槽に移し替え、電気信号 を接続するうちの独自技術でね。そうすることで寝ている患者と今 まで通りのコミュニケーションを取ることができる。是非実験に協 力してみないか?これは未承認の技術で冷凍睡眠とは何の関係もな いんだけど……
津軽 冷凍睡眠じゃない?身体は?
弘前 破棄する。並行して研究しているクローン技術が完成し次第その体 に移し替える。どうせ助かる見込みもないんだよね?ならやってみ る価値は十分ある
津軽 ……
弘前 会話は文字ベースで専用のアプリを通じて行えるよ。カメラもつい てるから戯曲だって読めるし、演劇も観てもらえるね
津軽 ……
弘前 これを逃す手は、ないんじゃないかな?


迷う津軽の脳裏にゆりの笑顔が浮かぶ。
津軽は両の手を握り締め、やおら顔を上げた――――


3-2
それから数日後の駅前。半円形のタイルを舞台に、客席に見立てた場所に三脚のカメラを置いている。そして、その傍らには脳の浮かぶ水槽――


津軽 劇団奴隷の邦番外公演千秋楽!『駅前SOS』!!


通勤鞄を抱え、満員電車で船を漕いでいる津軽演じる会社員風の男。駅に到着するマイムはそれなりに板についている。吐き出されるようにホームへ降り、人の流れのまま地上へ。人ごみを避け、低く飛ぶ鳩を躱し……


津軽 あっ、フガシ先生の五年ぶりの原稿が!


強風に煽られ、鞄の蓋が開き、中の原稿用紙が宙に舞う。
原稿用紙を拾い集める津軽……そして、少し前からそれを奇異の目で見つめていたちみが駆けつけ手伝う。この時、ちみは靴を履いていない。


ちみ 大丈夫ですか!?
津軽 えっ!?あ、ありがとうございます……え?
ちみ あれ、白紙?これも、これも?
津軽 お、お嬢さんありがとう。(原稿を奪い取って)タクシーにしよ う。来るかな……
ちみ もしかして集平社に行くんですか!? 私も連れてって下さい!
津軽 ああもう入校の時間だ。いや、フガシ先生の作品を届けるためだ俺 のクビぐらい……電話しよう
ちみ まだ一台も通ってませんよ?何が見えてるんですか?ひょっとして ワクチンでおかしくなってしまった人?
津軽 だあああうるさい!撮影してるのが分からないのか?
ちみ あ……YouTuberの方でしたか……失礼しました
津軽 違うよ
ちみ 違うんですか?では一体何を……
津軽 演劇だよ!俺は今演劇をやってんだ!
大間 てめえから白状してくれやがるんだな!


背後に大間が立っている。その表情は見るからに怒髪天を突いていて


津軽 大間!?お前もしかして……
大間 んな訳あるかクズ!昨日から駅前で大声で喚く馬鹿がいると報告を 受けて来たが……案の定てめえか。現行犯には、射殺許可……


大間、懐から銃を取り出した!ちみは怯え津軽の後ろに隠れる。


津軽 それは川崎の警察から奪ったニューナンブ!俺らの仕事の成果じゃ ないか!
大間 離れろガキ!
津軽 へっ、自警団気取りがよ
大間 何故奴隷の邦を名乗った?奴隷の邦はお前のものじゃない。断じて お前がその名を語るな。お前如きが……!
津軽 聞いてくれ!俺、やっと失くしたものが何なのか分かったんだ
大間 黙れ!


大間は銃を放った。ビデオカメラが粉砕する。
脳の入った水槽に照準を合わせる。


津軽 やめろ!
ちみ ちょ、えっ、えっ?


津軽は大間に背を向け水槽を抱きしめて庇う。背中にひっついていたちみが最も銃口に近くなる。大間はちみが靴を履いていないことを発見する。


大間 お前……二階から逃げた反ワクチン主義者の娘か
ちみ ……
大間 靴を買ってやろう。こっちに来れば、母さんもいるよ
ちみ ……!


ちみ、迷った様子で津軽から離れる


大間 すぐにでも撃ち殺してやりたいが。こいつを保護していたら死体が 野晒しになってしまう。次はないぞ(ちみを連れて去る)
津軽 ……はぁ。カメラ壊されちまったな。データ移してたっけ?脳に直 接インストールできないのかな。なあ?


津軽はカメラの残骸を片付けながら言う。
ゆりの言葉は津軽のスマホに表示されるがその詳細は必ずしも観客が知る必要はない。また、彼女が話したことはバイブレーターで通知される。


ゆり 『やめた ほうが よかっ たね』
津軽 そんなことないさ。千秋楽まで漕ぎつけたんだ。今日は巡りあわせが悪かっただけ。帰ろう


津軽は水槽を頭の上に乗せて家路を歩く


津軽 遠回りしようか。……ほら、カノガワの遊歩道。俺は一年前来たけ どゆりはどうだ?大分久しぶりなんじゃないか?あそこ、誰も管理 しなくなって草が背丈まで伸びてきてたんだけどさ。誰がやったか 知らないけどちょっとだけ元通りになってんの。うちの水道もさ、 ゆりが寝てる間に止まってたんだけど、いつの間にか通ってたん だ。エントランスの掲示板にさ、手書きでご迷惑おかけしましたっ て書いてあって。確かに、ちょっと街から離れるとインフラはボロ ボロだっていうけど。なんとかどん底に落ちないように誰もがちょ っとずつ支えてるんだって実感するよ
ゆり 『しぃ ちゃん の しごと も りっぱ だよ』
津軽 ありがとう。ドローンで食料運んだり、街の瓦礫を少しでも片付け て……亜種第二波の前はふらふらしてたけどな。正直言って、今の 方が生きてる実感がある
ゆり 『あしゅ だいに は って ながく ない?』
津軽 長い?ああ、亜種第二波……調査が進まなくて、名前が定まらない らしい。でも、海外や一部では専ら…………。そうだ、一号線、ア シハラに繋がる高速が復旧したらしいぜ。安全は保証できないって 書いてあったが。そしたらさ、車拾って里帰りしようぜ。ゆりの両 親に手合わせて、それでさ、それが終わったら、結婚……
ちみ 集平社には行かないんですか?
津軽 はぁ?行かないよ。そもそも人居るのか?
ちみ フガシってトガタ先生の読み切りの時のペンネームですよね?それ が五年ぶりの新作ってどういうことですか?
津軽 って……え!?
ちみ あなたは本当に……編集さんではない!?
津軽 お前……大間は?
ちみ あのヤバい人ですか?靴屋で撒きました
津軽 お前と一緒にいることがバレたら今度こそ殺されちまうよ!
ちみ そうですか?あの人以外なら他人の振りすればいいじゃないですか
津軽 奴らの情報網とあいつのマメさを舐めるなよ……お前、あれだろ。 親が反ワクチンで部屋に閉じ込められてる……
ちみ 違います。私の意志でもあります
津軽 つまり……射ってない(急速に距離を取る)
ちみ ちょっと
津軽 最近抗体持ってる奴としか話してなかったからこの距離感だったけ ど!流石に移しちまったら申し訳ねえよ!大人しく保護されてく れ!
ちみ 嫌ですよ。(首を振る津軽に)……じゃあ、さっきのはなんだった んですか?編集者さんでもYouTberでもなくて、あれが演劇……痛 っ!


ちみは距離をとった津軽に近寄るが、足裏の痛みに躓いてしまう


津軽 おい
ちみ いたた……二枚履きしていればこんなことには
津軽 そういう問題じゃない。……おぶってやる
ちみ でも
津軽 でもじゃねえよ。……靴は何センチだ
ちみ 23.5です
津軽 同じくらいか。貸してやってもいいよな?
ちみ 何ですかその脳みそ
津軽 ほら


津軽、ちみに手を差し伸べる。ちみ、素直に津軽におぶられて


津軽 絶対落とすなよ!(水槽)
ちみ はい!
津軽 ぶっ……(水槽が顔にめり込んで)前が見えん……


3‐3
冷凍睡眠施設内に潜入した三沢。暗赤色のライトが白物家電のような色合いの内装を照らしている中、仄明るい明かりが漏れる部屋を見つけた。
白い拘束着の男がまっしぐらに眼前のモニターを見つめている。


三沢 お前が内通者か?


モニターに脳髄のロゴが写る


合成音声 よく来てくれた。待っていたよ、三沢
三沢 一体何の企みだ
合成音声 もう目的は達成されているよ。ここまで来てくれて、私を信用してくれてありがとう……
三沢 は……?


モニターからの怪光線により三沢は倒れてしまった。


3-4
津軽の部屋。津軽は風呂上がりで頭を拭いている。ちみは床に座り、水槽のカメラにハンティング+ハンティング36巻を見せていた。


津軽 おい、シャワーどうだ
ちみ 足の傷に沁みてしまいそうなので……今日は遠慮します
津軽 甘ちゃんだねえ……急に途中の話読まされて楽しいか?
ゆり 『わたし 35 まで よんで たよ』
津軽 マジ?興味ないと思ってたわ
ちみ かくなる上はダン・拳・波
ゆり 『どはつ てんを さく いかり』
津軽 ……知らん話で盛り上がられると疎外感感じちゃうなー
ちみ ところで津軽さん、この脳みそは本当にゆりさんなんですか?
津軽 じゃあお前何だと思って話しかけてんだよ
ちみ 賢いAIの可能性もありますよね
津軽 違うよ。思い出だってちゃんと言えるし。なあ?
ちみ 私もそのアプリ入れます。プレイストアに有りますか?
津軽 ねえよ。今度ノア社のメンテナンスの時居たら入れてもらえ
ちみ ノア社……黒幕ですか?
津軽 やっぱそう思う?やっぱノア社は黒幕なんだぜゆり!ははは!
ゆり 『♡』
津軽 な、急に何だよ……俺もだよ。凄く嬉しい
ちみ 何ですか……分からん話をしないで下さい……
津軽 着替えくらいしろよ。ゆりの服借りてさ
ちみ そうですね。お借りしていいですか?
ゆり 『いい けど かって に みない でね』
津軽 勝手にって何だよ
ゆり 『つれて って』
津軽 あいよ


津軽は水槽を連れてクローゼットへ向かう。ぽつんと取り残されたちみは『ハンハン』を数ページ捲ってみたが、少し笑って二人の後を追いかけ
た。
暫くして二人の声が響く。


津軽 これとかどうだ?……キツい?
ちみ うーん、もうちょっと緩いのがあれば
津軽 これは……絶対キツいな。これも……全部無理か?
ちみ 我が儘は言いません!詰め込めばいいんです!
津軽 寝巻きがそれだと苦しいだろ?……あれ?これ見たことないな。何 だこれ……ははははは!ちょ、スマホがめっちゃ震えて、ははは!
ちみ ちょっと、狭い中で暴れないで下さい!
津軽 ゆりに言ってくれ!手が塞がってて……ひひひ……
ちみ わーーー!


二人がクローゼットから押し出されるように出てきて、スマホの振動が止まった後も笑い転げている。津軽はおもむろに水槽を抱え、


津軽 ……ゆり、会いたかった……会いたかったよ
ちみ ……
津軽 これからまた、始まるんだ


二人を見つめていたちみが尋ねる


ちみ あの、津軽さん……明日は予定ありますか?
津軽 いや、特に
ちみ 私が家を出た理由はお話しましたよね。失踪したトガタ先生を探す ためです。最初は仕事に関係ある場所を探す予定でした。でも私、 トガタ先生が生まれたイイズに行ってみたいんです。トガタ先生が どんな街で過ごしたのか知りたいんです……。そしてあわよくば見 つけて、早く続きを書いてくださいって……へへ
津軽 イイズ……イイズの何処だ?
ちみ 温泉街にほど近い海辺の町です
津軽 ……沈んでる、だろ
ちみ …………へ?
津軽 イイズは……ゆり生まれがその辺で、 山手のご両親の墓にお墓参り に行くんだが、確か海辺の町には行けなかったはずだ。なあ?…… もう2年前の”太平洋沿いプレート間地震”で
ちみ えっでもさっきも調べましたよイイズ。甚大な被害にあったとは書 いてありましたが
津軽 追いついてないんだよな。亜種に地震にミサイルに台風に豪雨に噴 火に。そして、俺ら奴隷の邦が変えてしまった社会の仕組みに
ちみ え……津軽さん、奴隷の邦の……?
津軽 言ってなかったか?
ちみ 総理大臣の暗殺とか、テレビ局占拠とか、あなたが?
津軽 俺だけじゃないけど。暗殺は元総理だなあ。後の世への禊として な。リッテレは無血革命だよ
ちみ ……
津軽 どうする?集平社には連れて行ってやってもいいぞ。トガタの行方 も聞き出してやろうか?
ちみ 私……いいです、自分で行きます(荷物をまとめて玄関へ)
津軽 今か?止めとけ、死ぬぞ!
ちみ え……?
津軽 死にゃしねえが。夜は警察や大間みたいな雇われ自警団気取りがウ ロウロしてやがる。引き籠もりは得意なんだろ?暫く家に居とけ
ちみ ……(大人しく引き返し、津軽と離れた場所に座る)
津軽 ……俺はミタハラの出身なんだよ
ちみ !
津軽 習うか?あ、学校行ってないんだっけ。ヒロシマ・フクシマ・ミタ ハラ三大カタカナ地名。ミサイルが落っこちて、原発がぶっ壊れ て、太平洋地震で海すら海に飲みこまれたように沈んじまったあそ こだ。俺が生きてる間だけでも、有り得ないようなことが何度も起 こった。その度胸を痛めてもキリがないぜ
ちみ ……
津軽 だが、俺に演劇がある。才能はないようだが、ゆりが居る。俺が逃 げ出さない限り、ゆりは俺の観客で居てくれる。何があっても、何 があってもだ……!


やや狂気がかった剣幕に言葉を失くすちみ。津軽は大きなあくびをしてクローゼットの方に消えた。ちみはスマホを操りイイズを調べる。
行政からのお知らせ『イイズの被害状況について』には流された観光地の建物や通行止めの柵の写真が掲示されていた。
YouTube『トガタ先生の故郷イイズに行ってみた!』は三年前。
Twitterには観光地やその人の故郷としてのイイズを偲ぶ投稿。
だが、どうやら行けない訳ではない。
津軽は寝巻きに着替え、水槽にナイトキャップを被せて戻ってくる。


ちみ 津軽さん、やっぱり私……
津軽 気が済むまで居ろよ、うちに。……一人で暮らしたきゃ綺麗な空家 を見繕ってやる。タワマンだってガラ空きだぜ。イイズに行くには 車が要る。答えを急ぐ必要はない。俺は服でも敷いて寝るからベッ ド使え。おやすみ……


3-5
強烈な西日が射している。都市の瓦礫に躯体を傾けた軍用トラックに兵士たちが乗り込むと走り出した。津軽は水槽の入った鞄を抱え、トラックが悪路を進む様を器用に表現しているが対してちみはボヨンボヨンとバランスボールに乗っているが如く跳ねている。
暫く、津軽ひとりが盛り上がっている芝居が続く。


津軽 新美術館まで700メートルの看板……大使館跡地……ここが本当に ムツギなのか?なあケント、強化血清を射った新入りってのはどい つなんだい?(言わなくとも不慣れな様子から分かるさ、という目 線でちみを見て)誰かタバコくれよ。あとチョコ……サンキュ、ほ れ(チョコを吸い口に塗りたくったタバコを一つちみの前に放り 投げて)もうすぐ日が暮れるから、危険が迫ったらケツに灯し て後ろの奴らに知らせてやりな!東京アラートってな!ギャハハハ 。おい、来橋博士肝煎りの強化人間だか知らねえがよぉ、ロク に訓練も受けてない 甘ちゃんが来ていい場所じゃねえんだよ! (……爆発音)襲撃だ!(投げ出され)前がやられた!クソ、停戦 地帯のはずだろ!(銃を構えるが、鞄の中身を確認し)攪乱の意味 無しか!応戦する!


芝居は続く。津軽は水槽の入った鞄を抱え遮蔽物に逃げ込み応戦を始めるが、ちみは銃弾入り乱れる戦場にぽつんと立っている。銃声止んで、


津軽 倒した……?ケント!しっかりしろ! お前は……息がある。強化血 清プロトタイプの……こんな無残な姿になって……(手榴弾のピン を外し顎に詰め込んで……爆発。だがその音は有名ゲームのレベル アップのファンファーレ。一瞬動揺が見える津軽の背中)。おいガ キ、穴だらけだってのに平気そうだな!?何故闘わなかった!
ちみ ……(答えない。が、これは台本通りではない)
津軽 いずれにせよ、これを安全に運ぶのが俺たちの役目だ。名前は
ちみ ……
津軽 名前は!?
ちみ …………止めませんか?
津軽 何!?
ちみ 止めませんか。さっき音違うの鳴りましたし
津軽 銃声で耳が狂ったか
ちみ ……(時間をかけて言葉を選ぶが)虚しいです
津軽 言ってなかったか。本番中役者はな、どんなアクシデントがあって も舞台の世界を守るんだ
ちみ 虚しいです
津軽 ……
ちみ 先に帰ります(歩き出して)
津軽 道は分かるのか。止めとけ。死ぬぞ。マジで!
ちみ 遭難なんてしませんよ!
津軽 違う。そっちの方はバーバリアンの住処だ
ちみ バ……?
津軽 何て言やいいかな。地震の後、船で盗みに来た火事場泥棒共が残留 してる地区なんだよ。バーバリアンってのは蛮族
ちみ なんでそんな場所で……
津軽 ここは実際の停戦地帯だからだ。あの建物からあっちに行ったら奴 ら警察に問答無用で殺されんだと。ホテルの備蓄や缶詰で食いつ ないでるらしいぜ
ちみ 何で……何でそんな場所で演劇をする必要があるんですか
津軽 モチーフとして面白いだろ!金持ちの街として栄えた場所が今や瓦 礫と不法滞在者の街!現場であることが批評性を持つんだよ
ちみ 誰も見てないのに?
津軽 誰も見てなくともだ。俺たちが感じればいい
ちみ エゴじゃないですか
津軽 創作行為は全部エゴだよ
ちみ じゃあ、血清……注射も批評性ですか。注射を射った人間が生き残 ってそれ以外は死ぬなんて、ワクチンを射っていない私への批評で すか
津軽 どうだろうな。お前がそう思うならそれが正しいよ
ちみ 駅で初めてあなたを見てからずっと思っていました。こんなことを して一体何の意味があるんですか。全部エゴだからって開き直って
津軽 それは全て観客のためだ
ちみ どこに観客がいるんですか!
津軽 ……
ちみ 分かりますよ。あなたは、ゆりさんが俺の演劇をずっと見てくれる と言っていました。でもそれは、物言わぬマネキンを客席に置いて いるに過ぎないんですよ。あなたのいう現場感とか批評とか…… そ れって、本当に、デリカシーがないですよね
津軽 違うよ。客席にゆりやお前が居てくれることで、俺にとって演劇が 意味を取り戻したんだ。今この国で演劇をやる意味を持っているの は俺だけだ。俺が演劇を再び興す。誰が拒否しようとな。俺は奴隷 の邦団員津軽だ。この志は消えていない!
ちみ そうですか……分かりました。今までひと月余りですが、大変お世 話になりました。ゆりさんと、末永くお幸せに(先程と反対側に歩 き出し)
津軽 道が分からないだろ。ゆり、案内してやってくれ。(スマホと 家の鍵と水槽をちみ渡す)。どっか行くなら、ゆりを家に置いてか ら行ってくれよ。じゃあな。短い間だったが、達者でな。トガタ先 生、見つかるといいな


ちみは頷き、歩き出す。スマホを見る。ゆりから沢山のメッセージが表示されていた。最新のメッセージは、『あんな ひとで ごめん ね』。


ちみ いえ。十分お世話になりました。ただ、私にはついて行けなかった だけです。津軽さんが大事に思っていることに
ゆり 『かれが ほんと に だいじ に すべき は あなた』
ちみ いいえ。ずっと言ってるじゃないですか。ゆりさんさえいればいい と
ゆり 『わたし ずっと しぃ ちゃん の えんげ き を みて た い けど』
ちみ え
ゆり 『あの みちを ひだり』
ちみ ゆりさん……もしかして
ゆり 『いまま で ありが とう』


ゆり 『さよなら』


3-5
ひと月後。ポリタンクからストーブに灯油を入れるように水槽に培養液を満たしていく津軽。しかしその水位は六分目程度で止まってしまう。


津軽 約束したじゃないか。ずっと俺のことを見ていてくれるって。…… 俺に金さえあれば、普通に冷凍睡眠させてやれたのに。頑張って生 きててくれたのに、本当にごめんな……。ゆり。最近は起きてる時 に会えたことがない。昔は、夜通しでも話を聞いてくれたじゃない か。……あの日、ゆりが目を覚ましてからもう三ヶ月だ。月いちで やってきた公演もここで一区切りだが、実は最初の予定と違う本を することにしたんだ。昔に書いたやつ。これなら千衣沙が演劇のこ とを分かってくれるんじゃないかと思って引っ張り出してきたん だ。童話をモチーフにした作品なんだけど……酷評だったなあ。 事実を中途半端に当てこするから駄目なんだって言われたっ け。 でもゆりはさ、赤ずきんちゃん可愛いとかさ、これって今起こって ることの風刺だよね、とか言ってくれて。そうだ、それこそが俺が 今言いたいことなんだって。ゆり。最後まで付き合ってくれよ。俺 は、お前がいないと、最初から全て無かったも同然なんだ


薄明かり。赤いローブに身を包んだ津軽扮する赤ずきんは水槽と同じ形の鳥篭を抱えている。他に七匹の子山羊に扮した弘前、ラプンツェルに扮した八戸、北風と太陽の大間がいて、意味あり気な絵面を作っている。
面側の端から眺める三沢が蛍光灯のオンオフをしている。津軽たっての要望で読み合わせだったが、一同微妙な表情。三沢のため息を皮切りに、


八戸 ……説教臭!
大間 高校演劇ウォッチャーだった時百回見た気がします
弘前 最近あれ読んだの?『本当は怖いグリム童話』
八戸 『本当は怖いグリム童話』を読んだ放送部女子高生2年の処女作
大間 じゃなんで私だけイソップ寓話なんです?
八戸 本当はダークファンタジーにしたかったけど顧問に風刺っぽく色付 けされて内心めちゃ不満な演劇部女子
弘前 社会に関心を向けるのも結構ですがもっと身の回りの機微に目を向 けてみましょう。子供らしい感性で
大間 こ、講評会~
八戸 過去の作品の焼き増しでしかなく、メタファーを履き違えている
弘前 世にも奇妙のタモさんパートみたいな、教訓っぽいセリフ嫌い
八戸 タモさんはあんなダサナレーションしません!
大間 俺が劇作するなら意地でもあんな台詞いれませんけどねー


一通り文句が終わる。津軽は、一瞬その表情は伺えないが、ローブを脱ぎ、笑いながら


津軽 おいおいお前ら!滅茶苦茶言やいいってもんじゃねえぞ!
八戸 だって……ねえ?
弘前 実際津軽くんこれ何作目?
津軽 ちょ三沢さん、どうでしたか!?
三沢 ……俺は、お前の社会と迎合しない姿勢は評価しているし、今回も それは顕れていたと思う


一同、続く言葉を待つが、これ以上ない様子。


八戸 はいこれ(台本を津軽に返す)
津軽 え?
弘前 もしまた書くなら、先に誰かに見せてからにしてね(台本返す)
大間 書いても我々に見せないでくださいね(台本返すが……)
津軽 おい!
大間  へ?
津軽  持って帰れ!
大間 嫌ですよ
津軽 普通台本残すだろ(無理やりポケットに押し込もうとする)
大間 ものによりますよ
津軽 一ページ目……あらすじと配役のとこだけでも!
大間 何で私だけ!


津軽、一ページ目を折り畳んで大間と攻防の末ポケットに捩じ込む。そのまま大間は帰っていく。三沢は残っている。


三沢 その鳥籠は、眠り姫の暗喩か
津軽 ……はい!
三沢 なら説明過多だ。あと子山羊のナレーションか?あれは酷い。自分 自身があんな説明を聞きたいか。よく考えろ


期待の目で見つめ続ける津軽


三沢 俺は時に宛名のない手紙を書き続けているような気分になる。お前にはあるんだろう、宛先が
津軽 あります
三沢 そうか。それは、お前のかけがえのない財産だ。決して手放すんじゃないぞ。……戸締りは頼んだ


三沢は出て行く。
小道具を片付け、窓を閉め……

津軽 湯呑み出しっ放しにしやがって。喫煙者は換気扇消せ!……これ置 いて帰ったら文句言われるな……


鳥籠は持って帰る。稽古場兼アジトの鍵を閉める。
22時の暗がりの街灯の光に、ゆりが立っていた。


津軽 ゆり……!?来てたのか
ゆり 近くに用事があったから待ってようと思って
津軽 他の奴らに見られなかったか?場所は教えない決まりだから
ゆり 隠れたよ。会っても気まずいから
津軽 そっか。……こんな遅くまで。涼しいから、カノガワの河川敷歩こ うぜ
ゆり うん。書いてた台本、みんなどうだった?
津軽 ああ、大好評だ。俺が奴隷の邦の劇作家に収まる日も遠くない
ゆり 衣装はサイズ合ってた?
津軽 問題なかったよ
ゆり そっか。良かった。…………しぃちゃんは、演劇楽しい?
津軽 ああ、楽しいよ
ゆり 今日、家庭訪問に行ったの。学校に来なくなった子の
津軽 ああ
ゆり もう、このご時世じゃ仕方ないんだけど。亜種と似た症状がまた流 行り始めて、外に出させたくないって親御さんがたくさんいて。そ の子はもともと学校に来るのがしんどいって言ってたんだけど ……。私、自由でいいと思うって言ったの。そしたらその子、自由 でいいなら、お父さんを殺して、お母さんをおかしくさせた人たち を殺してから死ぬって
津軽 ……
ゆり 奴隷の邦が憎いって
津軽 ……
ゆり 私、あなたのどこが好きだったか、よく考えたの。そしたら、あな たを見守ってあげたいって気持ちが一番に来て。でもそれって、あ なたを素敵に思うからそういう気持ちになるわけじゃないって気が ついて

急に津軽は背後を振り返る。ナイフを持った人影が立っていた……なんてことはなかった。

ゆり どうしたの……?ねえしぃちゃん、演劇は楽しい?
津軽 ああ、楽しいよ……
ゆり そっか。ならいいや。……でね、その子、コニャン……コニャンゲ リアス?いつも覚えられないの……(スマホのメモを見て正しいタ イトルを諳んじる)が好きだって言うから、映画が再々延期だって いうでしょ。だからそれまで生きてようよって……。あれ、明かり が消えてる……?

マンションの階、数時間前に家庭訪問で向かった部屋。明かりがついていない。見上げた屋上には、月明かりの人影。

ゆり チヒロちゃん!止めて!

夜の静寂にゆりの絶叫が響く。一瞬一瞥をくれた顔は……千衣沙――!?

ゆり チヒロちゃん!!

脱力したように月下の影が崩れる。その頭が不可逆の位置まで降りた瞬間、津軽はゆりの目を覆った。そう遠くない場所で、身体が弾けた音がする。ゆりは津軽にしがみつき泣いた。

津軽 釣り合わないんだ。俺たちは、無力だ


舞台は彼らの部屋に戻る。ゆりは力なく横たわり、津軽は水槽として、空の鳥篭を見つめている。


ゆり 『わたし しぃ ちゃん の えんげ き を ずっと みて い たか ったん だけど』
ゆり 『もう だめ みたい』
ゆり 『はじめ から わかっ てた よね』
津軽 生きていてくれ……生きて、ずっと俺を見ていてくれ
ゆり 『わたし この からだ に なって』
ゆり 『いちど も ねむれ てな い の』
ゆり 『とても つらい わ』
津軽 世界がまた元通りになるまで生きていようよ

ゆり 『もと どおり に なんて ならな いわ』
津軽 約束しただろ。ずっと俺の演劇を楽しみにしてくれるって
ゆり 『あなた には みら い が ある でしょ』
津軽 ……
ゆり 『こんど は こんな もの いらな いよね』


そう言って、ゆりは鳥籠を取り上げた。羽ばたきの音。


ゆり 『わたし あなた と いきら れ ない けど』
ゆり 『あなた の な かに いるわ』


津軽は涙に濡れながらゆりの手を取ろうとする。だがその手は宙を切り、


ゆり 『ああ かぜが ここち いい』


鳥の鳴き声。チチチチ……と鳴く。津軽、自分の両手を見つめる
ゆりが籠を開けると鳥は羽ばたいて行った。


ゆり 『また いつで も あえる よ』


津軽にとって永遠の観客はこの世から消えてしまった。


4-1
大間の頭に言葉が響く。大間の身の上で重要なニュースだが、他にいくら付け足しても足りないことはない。
『……人女性が適切な治療を受けられず亡くなっているのが発見されました。新型コロナウイルス亜種による肺炎とみられます……』『……管理局を訪れて説明を求めたが、明確な回答を得られなかったとして怒りをあらわに……』『友人や近所の住民によると、同居する男性から暴力を振るわれていたと……』『在留資格を失っていたことから……』


そして、この言葉が同時に響く


『こう呼ぶべきです、日本ウイルスと』『東京五輪型ウイルスが世界に及ぼした被害は……』


大間 ククク……ざまあみろ……ざまあみろ……!


大間は歪んだ笑みを浮かべながら街を下り、駅に辿り着く。ポケットからICカードを取り出し改札にかざす。……が、改札は閉まり


津軽 『やめとけ、死ぬぞ!』
大間 は?
津軽 『やめとけ、死ぬぞ!』


すると寒風が構内を駆け抜け、大間は震え上がる。が、ふと我に返って


大間 チッ……期限切れか


改札を引き返し窓口に向かう。そこにちみが全力疾走で駆け込んでくる。


ちみ うおおおおおお!トガターーー!
大間 !?!?


案の定改札に弾かれる。すると、駅員の制服を纏った弘前が現れ、


弘前 お嬢さん、切符もなしに列車に乗るおつもりですか?
ちみ はい!
弘前 ……じゃあ、代わりになるものはお持ちでないですか?


ちみはウエストポーチを漁り、『ハンティング+ハンティング』36巻を取り出す。


ちみ これでどうでしょう!?
弘前 ……一等車両へどうぞ(36巻を回収し)
ちみ やったーーー!
大間 ……
弘前 あなたはどうされますか?


大間は憮然とした表情でポケットを探す。折り畳んで、洗濯した形跡のある台本の一ページを見つけ、手渡した。


弘前 フッ、……これで?
大間 ……
弘前 まあ構いません。(カチャッと切符を切る)三等車両へどうぞ


大間はちみの後を追う。ちみは一等車両に着く。座席には白い服の男が居た。周囲が星雲のような、深海のような青に包まれる。


男  お嬢さん。こちらにおいでなさい
ちみ ……トガタさんですか!?
男  違うよ。誰だいそれは
ちみ そうですか……では座りません
男  そう言わず。この席が一番見晴らしがいい
大間 (駆け込んできて)……五能さんっ!?
男  君、ここは一等車両だよ。戻り給え
大間 五能さんですよね!?違うんですか!?違うわけがない!
男  お生憎だが、違うね。だが、三等車両の君がそれほど待ち望むなら……そうだね、『上』にいるんじゃないかな?
大間 上……上ですね。ありがとうございます!うおおおお!


叫び、大間は『上』に猛進した。


男  さて、私は行くよ
ちみ お手洗いですか?
男  違うよ。君にこの席を譲ってあげたくてね


ちみに席を譲ると、男は指と瞳でパターンを刻んだ。


ちみ うわー生暖かい!ねえ窓開けていいんですか?……あれ、居ない


列車は寒風の根源へ向かう。


4-2
3-5の終わりから。ゆりと別れ、失意に横たわる津軽。この状態で寝込んでおり、弱々しい。部屋の鍵が開かれ、男が津軽の傍らに立つ。


津軽 ……五能さんっ!?
男  違うよ。私は行橋だ。五能くんに世話にはなっているがね
津軽 行橋……行橋博士
行橋 さて、今回私から奴隷の邦団員である君に折り入って頼みがある
津軽 頼み……俺が使い物になるように見えますか?
行橋 他でもない、五能くんの願いだ……。任せられてくれるな


行橋は懐から注射器を取り出し、津軽の腕を掴んだ―――


4-3
五能を探していた大間が『上』から帰ってくる


大間 五能さん!どこにいるんですか!どこにもいないんですか!?


降り立った先に、ちみと三沢を発見する。


三沢 太宰治の代表作といえば?
ちみ 銀河鉄道の夜!?
三沢 はっずれー
ちみ うわーーーまたかーーー悔しーーー
大間 ……三沢さん?三沢さん!
三沢 !、大間か
大間 三沢さん……俺はずっと五能さんとあなたを探していたんですよ!


同じ空間に津軽が現れた


大間 津軽……
三沢 なるほど、これで手駒が揃ったというわけだ
大間 どういうことです?
三沢 ここは冷凍処理をされた者が完全に凍結される前に見るいわば共通 幻覚だ。冷凍庫の中で、俺たちは意識を共有している
大間 共通幻覚!?
三沢 そしてこのタイミングで俺たちが集ったのは五能の思惑通りだ。奴 隷の邦の団員は死んでなどいなかった。政府によって、いつで も反政府のアイコンとして利用できるように囚われ凍結されていた んだ。ここにいる団員の魂を探し出し解放するんだ!いいな!
大間 はい!分かりました!(駆け出す)


しかし、津軽は黙って三沢を見つめている


三沢 どうした。早く行け
津軽 三沢さん……俺は……
三沢 何も言わなくていいさ。好きにしてみろ
津軽 はい、迷惑はかけません!(駆け出す)
ちみ 私は何かしますか?
三沢 いいよ。また国語の問題を出してやるから、そう遠くに行くな。あ いつに着いていけばいい
ちみ はい。またね!


手を振り返す三沢。3人がいなくなると、三沢は階段を降りていく。
三沢が潜入した先の部屋。白い拘束着の男が居る。


三沢 見つけたよ。もうこれ以上、悪夢には抗えないか


三沢は男の肩に手を添え


三沢 五能。まさかお前が、俺たちと心中したいと思っているなんて考えもしなかったよ。いや、心中などと言ったら行橋博士に小言を言われてしまうな。生憎ここには、津軽と大間しかいなかった。他の奴らはどうしているのかな


男は仕切りに指先のパターンを刻んでいる


三沢 これでいいんだな。幾つか目論見違いがあるようだが。今日の俺たちが諦めた道を、進もうとする者がいるらしい


三沢は男のパターンを刻む腕の拘束を解く。


三沢 本当にこれでいいんだな。本当に……


やおら男の左手が掲げられる。冷凍睡眠が始まる。


4-4
共通幻覚内を駆ける大間。息を荒げている。


大間 誰ひとり見つからない。本当に居るのか……?(再び駆け出そうと して)動かない……?まさか、もう……
八戸 やっほ。久しぶり。頑張ってるね
大間 八戸!?どうして
八戸 どうしてって。共通幻覚なんて嘘っぱちだからだよ。これは、ただ の夢。全部諦めた顔して、やっぱりまだやりたかったんだ?
大間 それは五能さんと三沢さんがいたらの話だ。ただ滅ぶに身を任せる のは嫌だった。だから自分で冷凍睡眠を選んだ
八戸 冷凍睡眠なんてしたら一生会えないかもしれないじゃん。二人を諦 めてたのはあなた自身じゃない
大間 違う。俺はさっき三沢さんに会ったんだ。そしてこれは奴隷の邦を 解放する作戦だと
八戸 言ってることが滅茶苦茶だよ。最後まで自分に正直になれなかった ね
大間 俺を笑いに来たのか
八戸 抱きしめにきたのよ
大間 ……
八戸 今日まで生きていてお疲れ様。色んな問題を先送りにしちゃうけ ど。これからも色んな事が起こっていくけど。ひとまず、お疲れ様
大間 いや、嫌だ!まだ社会にはクズ同然の輩が腐るほどいるんだ!殺し に行く。その為に奴隷の邦に入って、生きてきたんだ!離せ!
八戸 でももう身体がこんなに冷たい。目を瞑って。 おやすみなさい


大間は永い眠りに就いた。


4-5
走り出した津軽を追うちみ。津軽はおもむろに立ち止まった。


ちみ 津軽さん!……どうしてここにいるんですか
津軽 ちみ。聞いたよ。支援プログラムとやらを利用したらしいな。詳し い経緯は再現して話そう。そりゃ(飛び込み前転!)
ちみ !?


4-2、行橋が注射器を取り出した場面。行橋の腕を津軽は振り払い、


津軽 黙って分からん薬品注射される奴があるか!
行橋 これは『不凍液』。冷凍庫の中で作業をする時凍りつくまでの時間 を延ばす効果がある。……五能君は、三沢君と共に眠りに就くこと を望んでいる。三沢君は拒むだろうから、作戦と称して冷凍庫に呼 び寄せ、無事冷凍処理が完了した。君には、二人と同じ冷凍睡眠の シークエンスに入って、二人の姿を確認した後、目覚めて欲しい
津軽 成る程な。そういうことか。馬鹿馬鹿しくなって来た。本当に
行橋 報酬は弾むよ
津軽 何でテメエで行かないんだよ
行橋 時間切れが怖い。無様に寝っこけてる君だ、うっかり凍ってしま っても構わんだろう
津軽 ……行くさ。自分自身の為じゃなく、この時代の為に。やり方は?
行橋 よく分からんが殊勝な心がけだね。完全冷凍前の意識内で、これを 射ちなさい(別の注射器を手渡す)
津軽 意識内……?
行橋 これを射つことで、冷凍槽内で身体が特定のリズムを刻み、帰還の 合図となる
津軽 ……頼まれたよ
行橋 話が早くて助かるよ。……全く、どいつもこいつも冷凍睡眠を自殺 の代替手段だとでも思いよって
津軽 お陰で胡散臭い商売もまかり通ってるしな
行橋 ふん。下に冷柩車を付けてある。向かおう


津軽、着いて行くも振り返り、


津軽 ゆり、今までありがとう!俺はいつまでもお前のことを愛してい る!何十年、何百年経とうとな!

ちみに向き直り、


津軽 ……ってな訳
ちみ そ、そうですか。ではもう行くのですね
津軽 いや。これで、お前が目覚めて欲しいんだ
ちみ は……?あなたは、あなたは本当に自己中心的ですね!私がどんな 思いで冷凍睡眠に就くことを決断したか…… !
津軽 ああ。母さんは捕まっちまって、トガタ先生は見つからず終い。未 来で目覚めたら、亜種も収束して、ハンティング+ハンティングが 完結しているかもしれない。この時代を生きる理由がないわな
ちみ それが分かっていてなぜ私に目覚めろと言えるんです
津軽 ……トガタ先生な、アメリカ移住に挑戦するんだって
ちみ え
津軽 無人島に小屋立てて、一年誰とも接触せずにいれば入国できるよう になるんだと。集平社も承知済みで小屋の中で続きを描くんだって
ちみ ……
津軽 ごめんな。行ったら居たんだよ、イイズに。そこから出航するそう だ
ちみ 何で
津軽 世界にはまだまだ沢山の読者がいるから、そっちの方を向きたいん だって。日本にはもうファンが少ないって嘆いてたぜ
ちみ そんな
津軽 ファンレターの一通でも送ってやれ。お前みたいな若いファンが居 たら喜ぶぞ。どうだ。起きる気になったか?
ちみ 嫌です!……嘘じゃないんですか、先生に会ったというのも
津軽 写真撮ったんだけどな。ここじゃ証明しようがない
ちみ ファンレター、昔は送ってました。でも、私の声なんか届いてない んです。津軽さん。あなたはどうしようもないエゴイストです。い つかの現場性とか批評性とか、その答えも持ち合わせていないんで しょう。……どうせ、どうせあの後死んでしまったんでしょうゆり さんも!だからこんな場所まで来て私を呼び戻しに来た。全部、全 部自分だけの為に!
津軽 届いていたよ。あんたの声は確かに届いていた……


津軽はポケットから折り畳まれた紙を取り出す。
二つの手紙が同時に読み上げられる。


トガタ 『千衣沙ちゃんへ お手紙ありがとう! 今回は不肖私の都合に より暫しのお休みを頂く運びとなりました しかし、ダンたちの冒険はまだまだ続きます。体調が整い次第、永久凍土編の結末をお届けできるよう誠心誠意筆を執ります。これからも末永く読者でいて 下さい。ダン・拳・波! トガタ ミサキ』


津軽 『未だ私を応援してくれる名も知らぬ少女へ こんなご時世に不肖 私などを探し回らせ、心配をお掛けしてごめんなさい。ダンたちの冒険に終わりはありません!これからは拠点を移し、まだ見ぬファンを想いながら、物語を紡いでいこうと思います。どうか末永くお元気でいて下さい。ダン・拳・波! トガタ ミサキ』


ちみ たったこれだけの手紙が、また生きる理由になりますか
津軽  ……そうか。だけど勘違いしないでくれ。俺は決してお前に誰かを 支えて欲しいとか、俺を待っていて欲しいとか、そういうことは思 っていないから。事実を伝えたかっただけ
ちみ ……
津軽 ……(頷きながら微笑む)
ちみ ……
津軽 今の手紙が、切り札だったんだけどな
ちみ え、それだけ!?
津軽  あっお前それ実は説得して欲しかったってこと!?
ちみ  違います!!
津軽 俺……あれから、お前と別れてからさ、もし今度会えたら、俺が何 で色んな場所で演劇を企画するのか教えたくて、ミタハラに帰った んだよ。ゆりとトガタさんで
ちみ え!?仲良くなったんですね
津軽 そしたらさ。おれ、昔一人で行った時は、受け入れたつもりにな ってたけど、皆と行ったら、実は全然受け入れられてないんだ!奴 隷の邦の活動にかまけて忘れたふりして、自分の故郷が、ミタハラ って場所が、どんなこ とが起こってたか、ゆりと、トガタさんが居 なきゃ気づかなかった!俺、ずっと泣いてて……


ゆりとトガタが傍らに現れる


ゆり わあ、立ち入り禁止の柵越えたの初めてかも!
トガタ 壮観だな。次はミタハラ編か。ん、あれはミサイルの破片か!?
ゆり ミサイル!?でももっと先ですよね?
津軽 ゆり~
ゆり ん?
津軽 ここさ、昔……今何でないのか分かんないんだけど、ミタハラ郷土 史博物館ってのがあって、小学校の遠足で来たんだけど、こんなの 興味ねーって裏山で弁当食ってたらさ、学年中で俺の搜索が始まっ てさ
ゆり ええ……
津軽 そしたら、クラスでいつも浮いてる奴が真っ先に駆けつけてきて さ、めっちゃキレてきて、弁当ひっくり返して砂かけてきたんだ。 帰って母ちゃんにお前いじめられてるのか!?って言われたけ ど……
ゆり うーん?
津軽 今となっては、早く見つけてくれてありがとうって思ってる
ゆり へえ
トガタ 野犬だ!野犬!
ゆり やっぱり入っちゃ駄目なんだよ!
トガタ かくなる上はダン・拳・波……あれ、キツネか
津軽 ゆりの仲間じゃん(キツネ顔)
ゆり は?
トガタ 何にせよキツネは寄生虫が怖い。車に戻ろう。……どっちへ向か う?
ゆり さっきの雑木林を、海辺にずっと行ったところ……
トガタ 海辺、ね。了解……


三人は車に乗り込んだ。トガタが運転席。荒れっぱなしの道を行く。


津軽 おれ、今まで色んな場所で演劇したりしてきたけど、何か今日、初 めて、その場所を消費しなかった、って感じがする
トガタ あんたの故郷だからなぁ


不意にトガタは雑木林の向こうにきらめく水面を捉えた。出口に近づくほど輝きの範囲は増し、一面が海であることが分かった。しかしそれは――


トガタ 万一を考えて、ここまでにしとこうか
津軽 …………
ゆり …………
トガタ あれはミタハラ第二原発か。問題の建物は……まだ向こうだな


写真を撮りながらトガタは言う。
眼前に形容しがたい光景が広がっている。ゆりは車から降り、


ゆり さっきまでは、潮風を感じてた。でも、この光景を見ると……海す ら海に飲み込まれたような、一面の黒い海を前にすると、とても潮 風なんて言葉で語ろうとは思えない。……私は一生、当事者にはな れない
トガタ どうだい。私はもうここまでで十分だ。……おや、船の準備が出 来たようだ。私はアメリカに向かうぜ!海賊王に俺はな~る!


トガタがどこかへ消えると、ゆりは津軽を見つめている。


津軽 何処へだって行けばいい。ゆりが歩けなくなった分を俺は歩いてき た。だが、それももう及ばない。俺はここが限界だ。この先の道 は……
ちみ 津軽さん……このまま、ここに残ったらどうですか
津軽 それも考えたよ。だけどそしたら、一体誰がこの時代を支えるん だ?生きることのできる奴がこの世界を見届けないでどうする!?
ちみ 分かりました
津軽 え?
ちみ 外に出ればまた、ウイルスの蔓延る世界ですが。私はもう一度、選 んでみようと思います。この時代を生きるかどうか
津軽 気が変わったってことか……?
ちみ いいえ。少し交代するだけです。少し代わって、令和の当事者とし て、見定めてくるんです


津軽は笑って


津軽 ……良かった。何か分からないけど、肩の荷が降りた気がするよ。 俺、何も分からんなりに今までやってきたけど、無駄じゃなかった ってことだよな!
ちみ どうでしょう
津軽 代わってくれて、ありがとう
ちみ いいえ。お礼など不要です
津軽 ゆり、千衣沙……生きてさえいてくれたらいいんだ。生きていた ら、いつか届くかもしれないから……


津軽は半ば放心したような表情だ。ゆりは何度も口を開きかける。


ちみ ゆりさん。こんなこといいたくありません。でも言います。早く、 いなくなって下さい
ゆり そうね。……さよならは、千衣沙ちゃんが代わりに言っておいて

ゆり、あっさりと消える。

ちみ ちょっと!帰還のための注射器はあなたの頭の中にしかないのです から!いい感じで寝ないでください!
津軽 はっ……俺宛の報酬ってのは全部お前にやるから。目覚めたらすぐ 行橋の検査を受けられる手筈になってる。これからのことは、そい つと決めてくれ
ちみ 無責任ですね
津軽 本当にな。お前の批判は甘んじて受け入れるよ
ちみ いいえ。多分私も、似たようなものです

そう言ってちみは腕をまくり差し出した。津軽はケースに入った注 射器を取り出し、上腕に穿刺する。ちみの腕が自然とリズムを刻み 始めた。

津軽 じゃあな
ちみ ええ。近い未来に、また……


自然とちみの左腕が持ち上がる。帰還の合図だ。
暗転。
波の音。少し髪の伸びたちみが中腰で子供たちに別れを告げている。海辺の小学校。


ちみ ありがとう。もう、みんな大げさだなあ。うん、お手 紙書くね。先 生も別の学校で頑張るから、二年生になってもみんな 元気でね。プ レゼント?ありがとう……36巻。そうだ、失くしたままだ。 あり がとう。……それじゃあ。バス停までは来なくていいよ


子供たちに手を振り、同僚に会釈をして、バス停に続く海辺の道を歩く。
その波打ち際に打ち上げられたような津軽。


津軽 なああんた、それは最新刊か?
ちみ ええ、依然として最新刊です
津軽 あんた先生?
ちみ 離任式だったんですよ。小学校の
津軽 ふーん……
ちみ どうしてそんなにびしょ濡れなんですか?
津軽 たった今目覚めたからだよ
ちみ へぇ
津軽 なあ、今、令和何年だ?
ちみ 今は令和――
津軽 まだ令和なんだな!
ちみ 意外と早いお目覚めですね、津軽さん!
津軽 ちみ!覚えていてくれたのか!
ちみ 別に、そういう訳ではありません。……ただ、いきなり放り出され ては不安でしょうので……


そう言ってちみは津軽に手を差し伸べた。その手を取ろうとするも逃げられ、


ちみ 早く行きますよ!これから始まるんですから!
津軽 ああ、令和、待っててくれてありがとう!うおーーー!


津軽は叫ぶが、ちみはタイミングよく滑り込んできたバスに乗り込む。
津軽は呆気にとられ、そのバスを追い走り去った。
二人がいなくなった後トガタが現れ、原稿用紙に何かを書き続けている。
その中に確実に読み取れる言葉があった。
『thank you for "令和三年"!! 』


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