氷河の幻流

氷河の幻流

冬の日。傍目にはそこまで高齢に見えない長尾(71)がコンビニのレジ打ちをしている。ありがとうございました、と見送った客の自動ドアからの寒風に手を擦る。導線に並びかけた次の客を案内するが、冷凍食品を陳列していたベトナム人のダン(二十代)が駆けてきて自身のレジに導き、接客を終えた。やはり激しく風が舞い込み、ドア付近の新聞や吊り下げたパウチがカサカサ揺れる。寒そうにする長尾に、ダンは近寄った。

長尾 いいんだよ別に……
ダン 間氷期らしいですよ
長尾 え?
ダン 地球は、氷河期の中で暖かい間氷期ですよ
長尾 はぁ……。だから寒いと?
ダン いつ氷期になるか、分からないです
長尾 ……?
ダン いらっしゃいませ、こちらにどうぞ

長尾はダンの働きぶりに感心しつつ、外を見る。雪がちらついてきた。
肉まんのケースから、韮臭い湯気が立ち込める。再び、ダンが隣に来た。

ダン 行くんでしょか、アレ(自転車のジェスチャーをして)
長尾 ああ、行くよ
ダン 退勤押しときましょうか
長尾 え……?駄目だよ
ダン バッジ返しときますよ
長尾 あとちょっとなんだからさ……
ダン 暗くなってきましたね

確かに日の入りは早くなったが、夕方の4時、薄く空が紫がかった程度だ。
ダンは寒い戸側のレジから代わってやりたそうにしている。

長尾 じゃあ、レジ代わって、在庫見てから帰るよ(カウンターから出て)
ダン 川野さん、子供産まれたそうです
長尾 え
ダン だから、正社員になるそうです。こちらどぞー

聞きに戻りづらいタイミングだった。もっとも、それ以上話すこともないのかもしれない。バックヤードに戻った長尾は、緑のロゴが入った大きな四角い配達用バッグを背負って来た。バッジで退勤を押し、

長尾 いつもお気遣いありがとうね
ダン いえ

接客の合間を縫って陳列に戻る。長尾はコンビニの裏手に周り、シャープなボディのロードバイクを押し、跨りかけた瞬間、腰に痛みが走った。小さく呻いて、片膝から崩れる長尾。駆け寄るダン。

ダン !、大丈夫ですか!
長尾 う、うちではたまになるんだが、外では初めてだ。ほっといたら治るから
ダン ほっとけませんよ。左側が痛むのですね?

ダンは長尾の左アキレス腱に親指と人差し指を添えるようにして挟んだ

長尾 触らないでくれ!
ダン この寒さが原因ですかね。寒い朝は、足が吊るでしょ

痛みに悶える長尾。だが、いつもより痛みが引くのが早い。

長尾 あれ……?大丈夫そうだ
ダン 座ると悪いので、しばらくこのまま……
長尾 お客さんが並んでいるよ
ダン 年上の方を助けられないことは恥ですから
長尾 もう大丈夫だ。ありがとう。戻ってくれ
ダン ……無理はなさらず

店内のレジには思ったより人が並んでいる。

長尾 手伝うよ
ダン ……(首を振る)。申し訳ございません、大変お待たせしました。どうぞ。
長尾 まだか川野くん……。はっ……(辞めたということに気づく)

いつの間にか雪がちらつきはじめていた。
近くで、街に反響した赤子の泣き声が聞こえる。
頭ではレジに戻りたいと思っていたが、動けずにいる。
そうこうしている間に、ダンは客を捌き、長尾に一瞥をくれると、また陳列を始めた。
長尾は下腹を抑える。降雪で古傷が疼く。鼻水を拭う。涙も流れているような気がして目元を拭うが、乾いた目元に触れただけだ。
作業に没頭するダンの頭だけが見える。
数歩踏み出してみた。自動ドアが反応し、入店メロディーが流れる。すぐさまダンのいらっしゃいませが飛んでくる。数歩戻った。
自動ドアの閉まるまでの時間は思ったよりも長く、店に引き寄せられる風を一身に受けた。
ダンの頭が見えなくなる。
先ほどの赤子の声がほど近くで聞こえた。店の駐車場に差し掛かったあたりだろう。
何故だか怖くなり、自転車を起こして店内に逃げ込んだ。

長尾 ダンくん、赤ん坊
ダン ……はい?
長尾 あの赤ちゃんと女の人……川野くんの妻子じゃないかな
ダン はぁ。サイシ?
長尾 こっちに来てるよ
ダン ……それがどうしたんですか
長尾 …………うらやましいなあ
ダン え?
長尾 彼、17時から夜勤の人が来るまでの間だけ働いて、学生とかでもないのに。それなのに奥さんができて、子供まで作っちゃうのか。おかしいね、こんなの
ダン ……他人のことを気にしても仕方ないですよ
長尾 他人事じゃないんだよ!
ダン ?、長尾さんは他の人より元気じゃないですか。まだまだ大丈夫ですよ
長尾 さっきのはなんなの?足を抑えたやつ
ダン ああ、中医学です。ホントはそれを学ぶために来たんですけど

長尾 ……
ダン はは
長尾 今日の配達はやめにするよ
ダン その方がいいですね
長尾 無責任なことはいわないでくれ
ダン ……
長尾 休んではいられないんだが……とても疲れた。配達をしていて何より疲れるのは、綺麗なロビーのマンションで、ドアを開けたら子供が待っていた時だよ

自動ドアが開く。外と中の空気が混ざり合うと同時に、赤子の声が店内を満たした。

長尾・ダン いらっしゃいませー

長尾 ……寒いなぁ

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