笑の内閣『12人の生まない日本人』感想
劇評大賞に応募するためにtwitterに書いた感想をまとめました。
笑の内閣『12人の生まない日本人』
反出生主義という閉じていくための思想でどう会議モノが展開していくのか期待していた。くじ引き公募で選ばれた市民がどのような議論を経て反出生主義に辿り着くのだろうか。あらすじにも「なぜ日本は少子化なのか?そして反出生主義とはなんなのか?」とあったように、12人各々の生む・生まない事情が交わされていき、それがいつしか反出生主義という先鋭的な考え方を醸成していくストーリーだと読み取っていた。
しかし、反出生主義の議論はまさにそれを持ち寄ってきた6番の主張のみがきっかけで巻き起こり、6番ありきで議論が続いていく。認知度の高くないであろう主張を6番が都合よく講釈してくれるのだ。
私含めた観客が望んでいたのはこのような特定の人物による解説ではなく、子どもなど生まれないほうが良いという閉鎖的な主張を織り交ぜながら議論を交わす市民の姿ではなかっただろうか。すぐに反出生に同調するか対立するかの空気が形成され少子化や本来の小学校統廃合の議題が背景に退いてしまった。
反出生主義を扱う会議モノと謳われていたのは承知の上で、観客が『12人の生まない日本人』に期待していたのはこれまでに渡って政治を題材にした作品を作ってきた京都市会議員立候補経験者の描くタイトル通りの生まない理由、少子化についてのダイアログであり、ホワイトボードに書かれるわかりやすい反出生主義の解説ではないだろうと思う。
上演10分前に会場に入ると作演の高間氏と6番を演じる髭だるマン氏の前説が行われていた。舞台には机がハの字に並んでおり、三角の名札には演じる役者の名前が書かれている。注目したい役者がいるならその対角に座ってくださいという説明があった。名札をひっくり返すと役の市民に振られた番号が書かれている。「この人はいつもひっくり返すのを忘れるから」と高間氏が名札を番号に変え笑いを誘っていた。舞台奥には役場の職員2人が座る司会席がある。
観客の中には6番の語る反出生の解説が面白かった人もいるかもしれないが、私の関心のピークはそれぞれの自己紹介だった。
反出生主義を率先して解説する6番の存在は作劇の手抜きだと感じる。集められた10人の市民は少子化や生む理由・生まない理由を語るのに適したステータスを持つメンバーで、元々はもっと少子化に焦点を当てた作品にしたかったのではないかということが伺える。
6番の存在がネックである理由に、反出生主義は建設的な議論へ至りにくいという点がある。6番が一人で反出生を語る中、多くの登場人物は説き伏せられるばかりでそれこそ自己紹介以来個性が影を潜めていく。それぞれの語る生まない理由・生んだ理由が全て「生まれなければ苦しみなどない」という元も子もない議論に回収されていき、誰の意見も不完全燃焼のまま終わる。このやるせなさは意図したところではあるのだろうが煙に巻かれてしまった感覚があり、“論破”に特化しているだけでまるで議論が積み重なっていかない空虚さが漂う。
また、人物の多くが反出生主義に無知であり、感情をぶつける以外で正面から反論できる人物が不在に等しかったのも煮え切らない原因であった。出産にまつわる意見を持つ女性や子は生まれるべきという価値観を持つ者はそれと衝突するが、知識不足ゆえ反出生がどうこう以前に自分の置かれた立場・苦境を理解してほしいと訴えているだけのように見えた。
この舞台において、反出生主義(者)の前ではどのような人物であろうとその属性の抜け殻しか存在していない。説き伏せるためだけの論と、言いくるめられるだけの登場人物ら。対話の芸術である演劇にまるで不向きな対立だ。
そして反出生主義とはテイカー気質の態度であるため打ち倒した意見を包摂することができない。子を成すことは苦しみを再生産するだけだから生まないようにしようね、生んだ・生まれたゆえ生じた苦しみはあなたのせいだよ、と責任の所在を当人に押し付けているに等しいのである。国は国民の苦しみを軽減するために動いている、だから子を生まない方針に舵を切るべきだという台詞があったと思う(多分。二つの台詞を混合している可能性あり)が、人が苦しい理由・責任を個人に求めるなど国のすることではない。仮に国が責任を取るので生まないでね、と嘯いてもそれは国の失態を免責してくれと頼んでいるようなものだ。お前が苦境にあるのはお前のせいだという自己責任論と異なるのはひとりひとりが自主的に絶滅を選択するという点であるが、自己責任論を内面化しているとも取れる。
最後の一人が納得して子を生まないことを選択するまでが反出生主義だが、人口が減り共同体が維持できなくなった世界で果たしてそんなことが実現できるだろうか。言うまでもなく反出生とは無責任で荒唐無稽な主張なのだが、会議に集った人間がアホばかりだったばかりに「苦しみをなくす」一点張りの主張に巻かれていったのである。
しかしそんな6番にも付け入る隙がありドラマが生まれそうなシーンがあった。「今おれは幸せだ」という台詞は、反出生主義が妬み僻みから生じたものではないという予防線ではないだろうか。メンタルが不安定だと反出生主義に陥るのだと言っている訳ではない。現状に不満のある人間が主張しているわけではないという体を保たなければ、反出生主義はメンタル不調による社会性の失調として”治療”に値してしまうからだ。ゆるやかに全てを閉じていく、経済も産業も、当然社会福祉も削がれていく中で、反出生を主張する自分が精神的な福祉を受けるのは筋が通らない。実際に6番がシングルマザーと連れ子と過ごす日々を幸福に感じているのかどうかは分からないが、一抹の不安もないはずはないだろう。つまり、幸福で在らなければ主張する資格がない主義を使い理論武装することで、逆説的に自身は心身ともに健康であると言い聞かせているのではないだろうか。
自分のために簡単に言い直すと、6番は反出生主義とは心身ともに健康・幸福でないと主張できないものと思っており(そうではない状態だと妬み僻みだと言われる)、自身の不健康な心身状態を欺くために反出生主義を唱えているのではないだろうか、ということだ。
仮に「将来連れ子に何かあったら?」「(6番が離婚経験者だったか危ういが)妻にまた裏切られるのでは?」という指摘に下手に返せばそこが弱みだとバレてしまい、ならばそのために子どものための支援を、離婚・親権に関し男性にも強い権利をと建設的な議論に移行せざるを得なくなるだろう。
だがやはり登場人物は苦しみを生まないためという主張にひれ伏し、6番の柔らかい部分を突くことが何故かできない。
そうしてドラマが生まれる芽を摘み、6番がそれぞれの立場を十把一絡げにちぎっては投げしていく演劇として面白くないやりとりが続いた。作演もそれは分かっていたのだろう、マイルドヤンキーの2番が言った「これがディベート大会ならあんたの優勝ですよ」が全てだ。続けて言った「子どもたちや今を生きる自分たちが幸せになれるように考えればいいんじゃないですか(大凡)」も反出生主義をひとり非建設的に語り続けた6番への核心を突いている。散々討論してやっと出発地点に帰ってきたこの感じは悪くない。今日この日、6番が反出生主義について声を大にして語ったことは彼の内面にとっても良く作用すると思う。反出生という仮初に縋ることが彼にとっては必要で、日頃感じる苦しみを解き放つセラピーの役割を果たしたのだ。突如神が現れ、6番の望み通り(?)彼以外を昇天させてしまったが結局は時間を巻き戻すことを選んでいる。誰も苦しんでいないにも拘らずだ。6番が本当に望んだのは、苦しみを生まないために子を作らない世界ではなく、それぞれが納得した上で子を成したり、子を作らないことを選択できる社会なのだと思った。
そこに辿り着く山道を登るにしても、こうも説明ばかりで終わるとは思わなかった。
6番がいない議論を観たかったと思うのは私だけではないだろう。9番がそもそも子どもにまつわることにお金をかけて欲しくないと発言した時は期待したし5番のDINKsの実践は反出生に繋がる気配がした。育児のためにキャリアを犠牲にできない女性と弱男は食い合せが悪そうながら現代的な属性だ。そんな彼らと保守的な家族観の1番3番の衝突に始まって、演劇の人たちと距離が遠そうな2番4番のマイルドヤンキー・でき婚の人たちの感覚派な意見と、親・生まれた場所を憎む7番の埋まらない溝であったり、そういった立場の人物のダイアログは見てみたかったなあ。
作演の方が挙げていたベネターの本を中学時代に手に取ったことがあり、うろ覚えだが印象に残っている一文がある。生むことをやめた人類が眺める夕日はとても美しいだろう、と書いていた。一日一日終わりを噛み締めるということだ。今となれば何だその自己陶酔は、と思う。
自己陶酔と破滅欲求が合わさった反出生主義という思想はそれに相対する登場人物たちの立場や属性を薄め、婚姻・出産を初めとした諸問題に建設的な議論が行われることがなく、「生まなければ苦しみもない」一辺倒で片付けて後景化させてしまった。反出生主義をまるで会議モノに向かない非建設的な主張として扱い、上手く織り込まれることがなかった。
私からすれば反出生主義などそれこそ穴だらけの“論破”に容易い意見なのだが、それが他の人物の属性をメタし続けられるように描かれていたのはただ作家の都合だ。再演はしない方がいいと思う。タイトルだけ私に譲って欲しい。
内閣は10年前から10本くらいは観て来ているが今作がワースト。社会派と言われる劇を観て全部Twitterが情報源だろと思うことは多いがそれを内閣にまで思うことがあるとはなあ。私も大人になったということか。
(※審査が始まったらしい中で付け加えるが、Twitterで見たことがあると明確に感じたものは
・睾丸の数を平均したら一人一つ
・大谷翔平の母校であるゆえ、花巻東高校の平均年収が突出した
・ハンガリーの少子化対策の顛末
もちろんTwitterで拡散されたものではなく一次情報に当たっているのかもしれない。)
会話は軽妙だし長さは感じなかったが反出生の織り込み方には明らかにドラマとして瑕疵があると思った。“生まない日本人”に向き合って欲しかった。
まあ何にせよ、反出生主義者の血を引いた者は未来にはいないのだ。
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