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団体の解散宣言 _ 9/22

急な連絡だった。思った以上に、威勢のいい決断に若干の衝撃を受けつつも、もはや過去のこととしてその報告をただ聞くに留めた。しかし、全てこれまで築き上げてきたものが途方もなく遠くに朽ちていくような気がして、焦燥感に駆り立てられた。時間が思い出や感じたことの全てがどんどん消えていくような。団体というものは舵を手放した後にとやかく言うのは後の祭りであると自覚しているが、そうは言いつつ後悔とか悲しさとかそういうものがただ先行して私に覆いかかった。10年を迎える前にこんな状況になってしまったのは運命なのか、必然なのか。自らのこれまでの行動を顧みらずにはいられなかった。何もできなかった、自分に対して批判的にもなった。しかし、現状それで今のメンバーが受け入れているのであればそれでいいのだと思う。そう思うと安心したし、社会は案外そういうものなのかもしれないと昂った感情に蓋をできる気がした。諦観できるわけがないが、それに対して抗う気力はないし、現役でないからか線を断つように今なら自然と手放せる気がした。
新しい団体を始めると言うが、それはどうだろうと大分訝しんだ。勿論、その合意形成下においてはその方向性に正当性が保たれているのだろうが、中高生の団体ほど消滅しやすいものはない。大抵うまくいっても2.3年が限度だろう、責任感のある人や自走できる人が集まれば数年単位で活動継続できることもあるが、それは先導者の持続性とノウハウの適切な継続と安定したメンバー稼働率を保てなければ怪しいと感じている。
本当に、他の人に受け継ぐのが適切なのか私は思案する。新しい団体として独立宣言を出したのであればそれはそうとして、正直まだ私たちがやっていきたいと言う主張もできないわけではないと思っている。いいメンバーでやる気のある人たちが集まって、こうして手綱を受け継いできたのだからやはりこれに封はしたくない。と言うのが思いだ。これが無碍にされたままではどうも納得するのが難しい。まだ、立て直せるのではないか、道は探せばあるのではないかと突破口を探っている。12月上旬に動き出すと言うからそれまでに自分自身の暫定解は持っておきたいと感じた。

けれど、こう書き連ねてみてもわかるのは、私の団体への執着である。正直、私はここ1年程度あの学生団体を全力で運営して、それなりに引き上げてきたと自負している。その中で、教育業界の難しさや苦しさにも直面したし、なぜこうも筋が通らないのだろうかと教育機関に対して疑義を抱いてきた。勿論、中にはそれを汲み取って共に企てを行った組織や大人もいたが、それはごく少数で、それだけでは現状を変えるのは厳しかった。けれど、一歩ずつ今のメンバーが持てる力を引き出し、この社会貢献を認めてくれる機会には存分に飛び込んでたくさんの挑戦を重ねてきた。こちらの発言に対して応答が得られなかった日は悲しくなったが、しっかり応えてくれた機関や人たちと巡り会え、対話し共創することの喜びは計り知れなかった。渋谷の100BANCHで3ヶ月ごとの実験報告会でこの期間でこんなこともできた、こんなことも進んだと、対外的に公表できそれをサポートしてくれる環境があったことは本当にありがたかったし、帰りの電車で出来事が彷彿と思い返されると、しっかり今月も突き動かしながら団体を生かすことができたと安心感があった。それは引退直前になると更に高まった。引退式でも色々なメンバーの顔を見つつ、最後活動に幕を下ろした時の充足感は忘れられない。ここまでやってきて本当に良かったと思うし、このメンバーと文化と環境があったからこそ、ここまで私はこの団体に尽くしたいと思ったのだろうと納得しながら活動を終えることができた。
しかし、その団体がなくなろうとしている。姿形は変わらないが、マンションに例えたら、これまで居心地良く暮らしてきた住居に新しい住民が強制的に越してきて、追い出されているような形式だ。これは問題だし、何より気持ちの整理がつかないのは最もなのだろうと思うが、やはりどうにかしなければならない。
止めることはもうできないとわかっているから現メンバーのことは止めないが、やはりこれまで築かれてきた文化は消したくない。
それは<空間>を増幅するようなものだからだ。住民の生業や記憶がくっきりと刻み込まれた<場所>に一線を引き、「<場所>の記憶」を無碍にする。「<場所>の記憶」とは、「ある土地で育まれた住民の思い出や情感のこと」と私は考える。現行の再開発は空間化の圧力が〈場所〉を凌駕し、地域住民が「〈場所〉の記憶」を構築する機会と、その地での記憶を想起する機会を失わせる。これは人々の暮らしと生業の消失を呼び、街に根付く総体を脅かす。
この組織の問題は、都市の問題とは全く関係がないが、起こり得ている構図はこう言うものだと自覚している。だから、抗いたい、それに対して、ただただ反知性的にそれを仕方なしと見直してそれをただ受け止めるなんてことできるだろうか。まだ、第三の道があると少なくとも私は信じたい。


運命には勝てない。でも、運命には負けない。

精霊の守り人

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