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春をくばる

【2020/03/21】

ワニが死んだ。ワニが死んで、大勢の人が悲しんだ。彼の死を伝える最期のツイートには3万人がコメントを寄せ、更に71万人がRTし、190万人がいいねをつけた。ワニと言っても「100日後に死ぬ」という設定で生まれた架空のワニだ。

女の子が亡くなった。数年前、インターネットで死の瞬間を実況しながら飛び降りた。「なんだ、構ってちゃんかよ」人ひとりの命が失われたと言うのに、驚くほど世間は冷たかった。悲しむ人もいたが数は少なく、人格否定や誹謗中傷、大喜利のネタにして遊ぶ人もいた。見知らぬ子どもが自宅の部屋でひとりで首を吊りましたというニュースで泣いてしまう大衆も、それがビルからの飛び降りや電車への飛び込みとなると一気に半減してしまう。自殺配信なんてしようものなら、更に。中には自分が勝手に見ておいて、「不快なものを見せるな」と怒り出す人もいた。

そうなることはインターネットに明るい本人も、きっと知っていたに違いない。それなのになぜ自殺配信なんて、と思うだろうが、その映像を目にした誰かに、自分は確かに生きていたと知って欲しい、確かにここにいたんだと気づいて欲しい、そんな一縷の望みをかけてしまったんじゃないのか。それほどまでに「生きていることを全く実感出来ない」「誰も自分のことなど気にしていない」「生きていた事を確かめたい」と考えるほど、大きな孤独に包まれてしまっていたのではないか、と僕は思う。

その女の子は僕のフォロワーだった。正確には、使っていたブログサービスの公式アカウントの他に、僕だけしかフォローしていなかった。

「伝説になりたい」

そう言って消えてしまった女の子は、確かにこの世に存在していて、ワニよりも長い間、10年と少し、本当に生きていた。架空のワニの死の半分でも良い、あの子のことを誰かが気にかけていれば、あなたが居なくなったら寂しいよと言う声があれば、あの子は今も僕と同じように高校を卒業して、進学や就職や成人式を心待ちにしていたかも知れない。

たった一人フォローしてもらっていた僕は、そのことに気づけないままだった事を悔いている。もう二度とこんな想いはしたくない。そう思っていたのに、また最近フォロワーさんをひとり失ってしまった。駅のベンチにスマホをセットして、動画を配信し、僕の実家のすぐ側の駅で、その子は電車に飛びこんだ。どこかで見たことのある後ろ姿だった。舞台に来てくれていたような気もするし、たぶん握手もした事がある。でも、その手はもう握れなくなってしまった。

2人の同年代の女の子が、僕をフォローしてから自殺配信したことは、きっと偶然ではないと思う。「伝説になりたい」と言った女の子、その子のことを歌った曲を聴いていた女の子。同年代の中高生の中で比較的フォロワーが多く、仕事で同年代の子どもの事件についてのコメントをする事もあり、他の芸能人アカウントと違ってフォロワーとの交流も多い僕が彼女たちの存在を認識することで、誰かに自分が生きていたことを知ってもらえると思ったんじゃないだろうか。特に2人めの女の子は、1人めの女の子の事を曲にしてくれたあるアーティストと、1人めの女の子の事を覚えている僕の両方をフォローしていた。「なぜ僕ばかり、こんな形でフォロワーさんを喪わなくてはならないのだろう」そう思った時もあったが、今は、「自分の生きていた証になって欲しい」そんな淡い期待をかけてもらった気がしている。このアーティストやこの役者はたぶん自分を覚えていてくれるだろう、そんな謎の信頼があったのかも知れないとフォロー欄を眺めて思う。だから忘れない。絶対に忘れない。本になって映画化されなくとも、僕は忘れない。

とは言え、人を救うのは難しい。「死にたい」とつぶやいている子に迂闊に声をかけて、強すぎる希死念慮に巻きこまれ、危うく自分も死の欲望に吸い込まれてしまいそうになったこともある。死を前にした人間の精神は非常に不安定で、一緒に死んで欲しいと頼まれて怖くなる事もあるし、突然理不尽な事で罵倒されたり、一緒に住んで欲しいとか、24時間一緒に居て欲しいとか、私以外の人と親しくしないでと言われて困惑する事もある。虐待児が他人を信じる事が出来ず、里親を試すためにわざと問題行動を起こすことがあるが、死にたい人も良く同じように他人を試す。真剣に話を聞けば聞くほど、近すぎる距離に戸惑ったり、試すために傷つけられたり、コロコロ変わる話に振り回され、こちらが病んでしまいそうになる事もある。

僕の出来る事には限界があるから、一緒に死んであげることは出来ないし、無限に話を聞くことも出来ない。でも、過去に声をかけたほとんどの人が、僕を死の淵に引きずりこもうとしたという事は、それだけ「生きているのに、寂しい」のだと言うことでもあり、こうなってしまうまでその寂しさを耐えてきた子たちのこれまでの人生を考えると、胸が苦しい。死にたい人間は限界まで追い詰められているので、近づく人を飲み込んでしまう。「一緒に死んで欲しい」を「一緒に生きていきたい」にする事はなかなかに難しい。わかるよ。誰だって死ぬ時はひとりぼっちだけど、ひとりで死ぬのは怖いもんね。

余命わずかのドラマの登場人物や、Twitterの架空のワニはこちらの私生活に干渉して来ないので、安心して「死なないで」と声をかけることが出来るが、現実の人間はそうはいかない。僕は最初の自殺配信で後悔してから何人かの人に声をかけたが、相談に乗っているうちに闇にのまれ、「自分の身が危険になって」どうしようもなくなってしまった事が幾つもあった。人を救うのは難しいなと思う。いまだにどうすれば良いか分からない。お医者さんやカウンセラーに、人の相談を聞く職業でありながらどことなく冷たく素っ気なく感じる人がいる理由も分かる気がする。それぐらいの距離感でないと「のまれる」のかも知れない。人間は架空のワニじゃないから、同情や綺麗事だけではどうにも出来ないこともある。

でも、それは死にたい人に声をかける人間が少ないから起きることなんじゃないだろうか。溺れている人間をひとりで救おうと飛び込めば、凄い力でしがみつかれて一緒に沈んでしまうけど、大勢でなら、一人を救出する事も出容易く来るのではないだろうか。

みんなに声をかけて欲しい。ひとりじゃないよと。来年も再来年も満開の桜を一緒に見よう。また今日も、幸せな人にも、そうでない人にも、同じように平等に朝がきて、同じ1日が与えられる、それが生きているということ。外もあたたかくなってきた。ほんの些細なことで良い。エレベーターのドアを開けて待ってあげること、満員電車で潰されそうになっている人の壁になってあげたり、席を譲ってあげること、落とした荷物を拾うのを手伝うこと、無表情ではなく笑顔で接客すること…もしかしたら身近な人間関係がどうしようもなく苦しい人がその中にいるかも知れないし、その人は死ぬために覚悟を決めて外に出たのかもしれない。今日も一日、外で出会うどこの誰かも知らない人に、少しずつ春を配って欲しい。

溺れた人を助けるために自分の命をかえりみず海に飛び込むことは出来なくても、その人のまわりに無数の浮き輪を投げ入れることはできる。

「今日も確かに生きている」「少し良いことあった」「生きていても良いんだ」

皆がそう実感出来る瞬間を、少しずつシェア出来れば…と思う。


春名風花🌸


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