#0 記録すること・公開することの意味

noteを始めたわけ

1年間のヨーロッパ留学も残り1か月半。経験したことや考えたことを自分の中だけにしまっておくのはもったいない。最近そう思うようになってnoteを始めてみることにしました。はじめの投稿は何でそんなことを思ったのかについて。

記録すること

異世界に飛び込んだ一年。
環境も人間関係も、話す言葉さえも変えた・変えざるを得なかった状況で確実に前の自分とは違う自分がいる。こんな大きな変化を経験したときのことを忘れないように記録しておこう。そう思って2018年4月から簡単な日記を書いている。

たまに振り返ると鮮明にその時を思い出して懐かしく思ったり、ちょっと恥ずかしくなったり。日々の出来事を記録しておいてよかったなと思う。ただその日記はパーソナルな、人に見せない想定で書いた文章。ただ出来事を書いただけ・感情的な文章で、懐かしいな止まりのことがほとんど。

一方で大学のゼミや研究に関する思考を書き留めたノートはどうだろう?淡々と頭の中を文字に起こしながら整理しているので、見返すと新たな考えにつながる。頭一つでは至らないことも、過去の頭と二つ分ならたどり着ける。ちりも積もればみたいな感じで。

数か月前から日記の書き方を思考中心に変え始めた。出来事も書くけど、それがどんな考えにつながったのか必ずセットで書くように心掛けている。そのおかげ徐々に自分の思考に対する解像度が上がってきた感覚がある。考えることがうまくなった&楽しくなったような。

パブリックな場に公開すること

でもいざそれを誰かに共有しようとするとうまく話せない。言葉にならなかったり、構成がうまく組めなかったりする。ある日このことを友人に相談てみた。


「自分ではわかっているけど、文章にできないことって、本当はわかってないってことなのかなぁ?」
「でも文章にすると抜け落ちてしまう大事なことがたくさんある気がしてるの。」

と聞いてみた。それに対する答えはこんな感じだった。


「もしいくらか情報が抜け落ちてしまったとしても、人に伝わる再現性ある言葉で表すことに意味がある。人に共有するつもりで言葉にすると自分の考えもクリアになってくるし、入ってくる情報にも敏感になれると思うよ。」

その時大学の先生がこんなことを言っていたのも思い出した。


「みんなが理解できないこと・受け入れにくい考えを誰かが言葉に表した瞬間に多くの人が理解できるようになる。この本を書いた著者はその点ですごいんだよ。」

人に伝えることを前提に書くこと。つまりパブリックな場で公開・発信することに意味があると気づいた。SNSには全部カギをかけて限定している自分にとっては思いもよらない発想だった。
(なぜSNSのコミュニティではなくてパブリックなのかについてもこのとき話したんだけど、長くなるのでいったん省略。)

ちょっと一息

さて、ここまでの内容は一人で考えた部分より本を読んで・友人と話しながら発展させていった部分が多かった。実はここからが本番。(長い…笑)記録すること・公開することについてもう少し掘り下げて書いてみようと思う。省略可だけど、、実際私を知っている人には共有しておきたいな。あなたとのかかわり方についてもつながっているから。

“記憶の書き換えに抵抗するために「モノ」を残す”

タイトルのこの言葉は東浩紀の『弱いつながり』という本の一節に登場する言葉を引用したもの。


記憶はいくらでも書き換えられる。だからこそ大事なのは記憶の書き換えに抵抗する「モノ」を残すこと

だそう。少し文脈は違うけど、『思考の整理学』で有名な外山さんが『乱読のセレンディピティ』

記憶は新陳代謝する。忘れたり回想する過程で無意識に美化してしまう。そこから美しさやなつかしさが生まれる

と言っていた。

たしかに、受験勉強の事ばかりで真剣に関わろうとしてなかった高校、好きだったけど苦しかった大学4年間の部活、ちゃんと向き合えなかった人との思い出も、今となってはそれはそれで良い経験だったって美化されている。
でも本当にそれでいいのかな?

無意識に塗り替えられていた大切な記憶

留学の報告書を書くために日々のことを記録していたノートを開いた。すると数か月前の鮮明に覚えているはずの出来事も、断片的にしか覚えてない。しかも多少塗り替えられた形で記憶していたことに気づいた。「あ、私は今、この瞬間の感情に支配されて記憶が書き換えられようとしていた」とハッとなって怖くなった。

ときには嫌な記憶を美化して自己肯定することも、前向きに生きていくには必要なこと。そして自分はそれが得意な方なんじゃないかと思ってる。でもきっとありのままに向き合った方がいいことだってある。そればっかりにとらわれて考えすぎてしまうことは良くない思うけど(見つめる鍋は煮えない)、今の正直な自分の気持ち、考えてることを”ありのまま”に文章という「モノ」として残しておきたいと思った。

誰かの返信を求めない発信/わかりやすい人間になる

・特定の誰かと真剣に向き合うには、理解しようとするそれなりの気力・気持ちと一定量以上の時間の投下が必要。
・誤解を生まないためには、素直に気持ちや意見を伝えるなどして、自分自身がわかりやすい人間であることが必要。

それなりの気持ちと時間を投下したからこそ、心地よい・信頼し合える関係になれたという体験、そういう関係でも相手は他人、知らないこと・分からないことはたくさんあるという感覚から、こう思うようになった今日この頃。

ちょっと重いなぁと感じた方もいるかもしれない。でも本気で向き合おう・分かり合おうと思ったら、そのための労力は相当なものだと思う。(時として面倒になるのも当たり前っちゃ当たり前だよね)確かに私自身、人の気持ちに振り回されたり、まわりが見えなくなって疲れてしまう傾向もあった。(今はたぶん大丈夫)
今はそんな時期も踏まえて、いくら仲良しでも近づきすぎたら疲れちゃうし、自分に投資する時間がなかったら楽しい会話も生まれないって思ってる。だからどちらかといえば自分はまめに連絡とかしないタイプになった。

つまり私のスタンス(であり、なりたい自分)はこうです。
誰かとの時間を過ごすときは本気で集中して、それ以外の時間は仕事や研究や自分の時間に集中する。
そしてこれができたとき、次会った時の楽しさもうれしさも増すというのが今のところの私の考え方。

こんなことを考えていた時に思いついたのが、“返信を求めない発信”
この投稿も私のこと気にかけてくれてるきみ、仲良くなりたいと思ってくれてる人たち(もしいたら)が気楽に見てくれたらいいな、くらいに思ってる。それなら読んでないこと前提なので自分も楽だし、もし読んでくれていたら一定の気持ちと時間をかけたのと同じスタート地点になるから、一緒にいる時間をもっと充実させられて仲良くなれる。これって自分にも相手にもいいことじゃない?
先ほどの“パブリックな場”で公開することに対する答えの一つがこれ。(ここでやっと。まだあります。)

実際にブログを書いている友人が何人かいるけれど、その人たちの文章を読んでいると、まるで話しかけられているみたいで、「へぇー!」って言ってしまったり思わず笑ってしまったりする。そのおかげか前よりぐっと仲良くなれたりもする。誰かをクスっと笑わせるような文才が自分にあるとは思えないけど、これからも楽しく発信し続けたい。

人間は環境の産物

先ほど登場した『弱いつながり』の前書きには、

ぼくたちは環境に規定されています。 ~中略~ ぼくたちひとりひとりは、外側から見れば単なる環境の産物に過ぎない。

とある。これを100%信じるかは別として、もしそうだとしたら私も例外ではない。なので考えたことに限らず、自分を取り巻く環境(例えば本、フランスやベルギーのこと、大学で勉強・研究していることなど)にも触れながら書こうと思う。


さいごに

ここまで読んでくれた皆さん、ありがとうございました。いまいちまとまりきらない内容に「?」が浮かんだかもしれませんが、分かりやすくなるように少しずつ改善していくので、気楽にお付き合いしてくれたらうれしいです。


記録&公開を後押ししてくれ、いつも思考のヒントが生まれる創造的で楽しい時間を共有してくれているきみ、いつも根気よく話を聞いて素直なフィードバックをくれるきみへ、『ありがとう、そしてこれからもよろしくね』


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