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自分の物語だと思える物語を書く

先日、とある知人と話していて同人誌の書き方について聞かれた私は無意識にこう答えていた。
「自分が読みたいと思ったものを書けば良いんだよ」
そしてその数週間後、その言葉が私の背中を押すこととなる。

先月、「『恋愛』について考える―クワロマンティックの視点から―」というオンラインのトークイベントに参加した。私はアセクシャルであることは比較的明確に自覚しているのだが、ロマンティックオリエンテーションについてはデミロマンティックなのかクワロマンティックなのか、それらの間を行ったり来たりしている。パートナーはできたら欲しいと思うけれど、無理をしてまで欲しいとは思わないタイプのAce/Aroだ。
特別な他者に対して、その他の他者とは異なる強い感情(これを私はクソデカ感情と呼んでいる)を抱くことはあるが、それが恋愛感情だ言われると違和感を抱く。

Ace/Aroについてのイベントはこれまでに一度だけ、今回のイベントと同じように当事者が話すオンラインイベントに一度だけ参加したきりだった。
今回参加しようと思ったのには、最近、人との関係性において、自分が何を望むのかが分からないことが多いことが背景としてあった。それは、自分自身のセクシュアリティに向き合い、言語化しきれていないからだと思い、そのためにはまず知っていきたいという漠然とした想いから参加を決意した。

イベントでは、(そうそう、わかる)と思えることもあれば、ズッキーニ関係というクィアプラトニックな関係にあるパートナーのことを指す言葉など知らなかった言葉との出会いもあった。
特にズッキーニ関係という言葉との出会いは、これまで私が「好き」だと思い、クソデカ感情を抱く相手と私において、私が望む関係性そのものだと思った。
ここで、「人間は知っていることしかできない」というジェーン・スーさんの言葉が頭をよぎる。知っていることしかできないのだとしたら、恋愛至上主義のなかに自分の居場所を見つけられない私のような人間が、この恋愛至上主義で溢れる世の中で、自分が望む関係性を他者と結ぶためにできることとは何なのだろう。
少なくとも現時点で私が考える『できること』は、自分が望むことを言語化し、自分で名づけて、実践することなのかもしれない。
かもしれないとつけたのは、まだ私がこの旅路の途中にいるからだ。

私は、恋愛至上主義以外の、他者とのクソデカ感情のやり取りを通して、自分が望む関係性を見つけ、実践し、言語化していきたい。この旅路の始まりを記録しておきたいと思い、今回のnoteを書いた。

旅路は途中で止まってしまうかもしれないし、最期まで続くかもしれない。けれど、私が書いたこの記録がいつかインターネットの大海原で誰かの道標になるかもしれない。

旅路のなかで、ひとつだけ明瞭にある目標ポイントがある。
それは、文フリに出て、Ace/Aro(特にクワロマンティック)の小説を出すことだ。クワロマンティック的なエンタメをもっと読みたい。けれど、やはり恋愛至上主義の世にあって、なかなか出会うのが難しく、あってもその数はまだやはり少ない。数に関して自分が書いたところでもちろん+1にしかならないのだけれど、文章を書くという人生のなかで長い間自分のアイデンティティ的行為を通して、自分のセクシュアリティを言語化していくことは、きっと私にとって大切なことなのだ。

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