苦しみの日々に支えられてしまうことについて

きっと同じように苦しんだことのある大人たちが、「いつか報われるから」と、「経験することが成長につながるから」と、今の私の苦しみを肯定する。あなたたちにしかわかってもらえないはずなのに、どうして、どうして忘れてしまうんだ。

理解はできる、もちろん。
乗り越えた先に得られるものがあること、そんなのわかっている。

それでも、死にたい死にたい死んでしまいたいと泣きながら生きることを、どうしてその辛さを知っているはずのあなたたちが、全部わかっているという顔をして肯定するんだ、どうして。


くらいくらい暗闇の中で自分が一番怖かったのは、辛かったのは、乗り越えた人を見ることだった。同じような、あるいはもっと大きく思えるような問題を抱えていた人が、それを乗り越えて「今はとっても楽しいよ」と笑っている。つまりは環境のせいではなく問題なのはお前だと、私が弱いことが唯一間違いで、お前が苦しんでるのはお前のせいだよと、わからせられてしまう。わかっている、希望を見せること、大丈夫だよ、と声をかけることは、決して悪いことじゃない。そういうものに勇気づけられて闘うことのできた人がいて、それで救われる人がいて。でも私は、救ってほしくなどなかった。私が乗り越えることなど、願ってほしくなかった。ただ、もう許して欲しくて、終わりにして欲しかった。なんで頑張らないといけないのかわからなかった。こんなのはおかしいと思ってしまうのに、一歩外に出ればおかしいのは自分だと気づいてしまうから、ちゃんとした方の自分をまた引っ張り出して自分を守る、その繰り返しだった。今だってそうだ。すごいね、頑張ってたもんね、褒めてもらうたびに、でも本当はこんなの要らなかったと思う。昨日までの私たちが泣かずに済んだなら、こんなの要らなかったのに。甘いと言われるだろう。でも私は、社会の歯車としての、人と人が支え合いそれぞれが社会に貢献することで成り立っているこのシステムの構成者としての自分を愛することができない。子孫を繁栄させ、人類という営みを続けていくための存在としての自分を愛せない。そんなの、どうだっていい。人類を存続させること、種の保存について、あまりにも執着できない、どうでもいい。勿体ないというのはわからなくもないけど、その勿体ないのために、私はこの世に誕生して、悲しんで苦しんで、またそのバトンを誰かに渡すのだろうか。泣きたくなんかなかった、本当は。私のこの人生を、物語にはしない。ハッピーエンドなんかにはしてあげない。昨日までの私たちと心中することになったとしても、私は彼女たちの手を振り払うことはできない。だって苦しいんだ。痛いんだ。それを知ってるのは私だけで、私は、私を裏切りたくない。わかってる、わかってるけど、わかりたくない、怖い、全部、間違いたくないし、傷つきたくない、怖い、もう全部やめたい、頑張れる人はすごい、私が間違ってると認めるから、もう許してほしい。どうしたって変わってしまう。いろんなことができるようになってしまうのが辛い。だってその苦しさに耐えたのは、乗り越えたのは昨日までの私たちなのに、彼女たちに何にも返してあげられない。泣いてる私たちを、私は抱きしめてあげられない。今日の私が何かをもらったって、救われたって、昨日までの私たちはもう救われたりしない。もういいの、やめていいんだよ、成功なんて、正しい未来なんていらないから、今のあなたを許してあげていいんだよ、そう言ってあげられたらいいのに。ねぇ、ほんとに怖いのは死ぬことかな。それとも痛み?綺麗に死ぬ方法ってないんだって。痛みを、苦しさを感じずに死ぬことなんてできないんだって。そんなの酷いね。そんなのってないよ。だから、痛みから逃げるように生に、正に向かって走らなくてはいけないよ。ごめんね。ごめんね。私だって本当は、「生まれてきて良かった」って言ってみたかったよ。「産んでくれてありがとう」って言いたかった。そういうふうに生きてみたい。死ねない理由じゃなくて、生きたい理由が欲しい。でも、それを見つけたいなら生きていなきゃいけないよね。ごめんね。死ねなくてごめん。頑張る勇気も終わらせる勇気もないくせに、傷ついているみたいな顔をしてごめん。傷つくことの方が頑張ることよりも楽だから、いつも被害者みたいな顔をしてしまっている。昨日までの私たちを裏切りながら、明日の私にまたバトンを渡してしまっている。ごめんなさい。ごめんね。惨めだ~

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