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2018.08.04「人体の動きについての黄金比」を感じる部分があるのなら

8月頭に上野芸術劇場でバレエフェスティバルという世界の有名バレリーナ集合の舞台があり、そのチケットがあるよと連れていってもらって、四時間半って素人にはツライかも…と思いながら渋々行ったけど実際見たら面白くて感動した。そして遠くを一生懸命見続けたのでちょっと目が良くなった感じがする、普段遠くを見ない、にしても、見るんだとしても、山とか星とか景色とか、なかなか四時間半ピントを合わせて見続けないものだから。

舞台の概要としては、
大体15分から20分くらいのそれぞれ違う振り付け違うダンサーでクラシックの演目もコンテンポラリーの演目もあり、たまに幕間の休憩が10分。トイレの長蛇の列が解消され切らないまま客席に戻るべき時が訪れたりする。

クラシックバレエの演目について見ながら段々と思ったこと、
特にクラシックバレエは、理想のイメージの中にそれを実現する体があるという構造に見る側がなりやすい。
それゆえほんの少し見る側の理想の形眼球要請に足りないだけで凄いうまさのプロに対して見ているだけの踊りもしない側がウーンイマイチとか思えちゃうのが不思議であり何様だが、実感としてあるなと思った。それはあまりにも高度な、完成度を超えた完成度の話…。
そして
この完成形として観客側が投げかけてしまう「理想の形眼球要請」に対してのイマイチさは
「足りなさ」として現れがちなので、
手足の動きの可動域の大きさや身体的な長さは
その「理想の形眼球要請」に対して、余り有るぶん、オーバーするぶんには実は見る側はそれを甘んじて歓迎する向きもあるかも。と手足の長い人、及び、「瀕死の白鳥にしては元気では?」と一緒に見た母が言及していた瀕死の白鳥について私はよしとしていたことにおいて思った。

ただし、抑制、制御が効きまくっている事によって「理想の形眼球要請」に応えた完成形がもたらす感動は確実に存在するのだと、コチェコトワという人のジゼルの無重力幽霊踊りに対して感じた。
動き続けながらピタリピタリと一瞬毎に現れる形がキマってるのだとわかる前に別の形にもう移っていることによって、「実際に人体がその動きをしたら視覚像として現れるであろうと想像されるブレ」が無いもしくは減じた状態となり、それによって物体の質量の大きさに比例して大きくなるはずの力学的運動エネルギーの表れが見えず、見る側が人体という物体について想定する質量を減ずる視覚効果を生んでいて、それがジゼルという亡霊の役を踊る事においてとにかく効果的ですばらしかった。身体の動きがイメージさせる別の質量の身体。そんなことができるのか!

で、理想のイメージを人体で実現するといったむきがクラシックバレエというものには本質的にあるのだろうなと思っていたんだけれど、
モダンおよびコンテンポラリーの演目についても、その「理想の形眼球要請」は発動されるようだという実感に瞠目ってのは実際に身体的に目を見張ってもいたためそうだった。
つまりは「人体の動きについての黄金比」、みたいなものを知覚する力が、どんな人でも(ほんと?)絵画の画面の中の黄金比を知覚する力のように(それが本能的に備わっているかどうかというのも本来は考察すべきところである)、潜在的に人間に備わっているのかもしれないがどうだろうか、という疑問が湧いている。
それを強く感じたのはヘルマンシュメルマンというポリーナセミオノワとフリーデマンフォーゲルが踊っていた演目だった。その演目は意味するところやテーマがあるものではなく踊りのための踊りのような振り付けらしい、ゆえに形の連続を見ているだけなのだけれど、それがどう素晴らしいか言語化できないが他の演目から群を抜いて素晴らしいと感じた。そしてそれを素晴らしいと感じるのは上記の「人体の動きについての黄金比」を感じる部分があるのならそこだったりするのかもと思いながら、黄色いスカートを目に焼き付けたのだった。

そして最後、今までのキャストが全員順番に舞台へ出てきて、ありがと〜ってやる時に自分の感情の理由がわからなかったが超絶に感動した。人にこれをどうしたら説明できるだろうか?と思って浮かんだのはジャンプの創刊何周年特大号の表紙みたいな状況という例えだが…だが…。と思っている間にもいろんな世界の主人公が実際に同じ世界の同じ空間にいる、でもそんなことはありえないから、ここは…?っていう状況に脳みそがジーンとバグを起こして、誰も踊ってないその最後のシーンで大感動して泣いた。のはそこまでの過程で素晴らしすぎる踊りを見たゆえの嬉しさが感情の均衡が破れるそこまで自らの心を連れていったんだろう。
その時わたしは踊らない体で客席にただ座っていて、そのあと色々考える事が嬉しくて、ただ座っていることしかできないのにも関わらず、目で見るってことって、それによってどこまでも得ることができる、と言いたい気持ちだった。

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写真はブラッスリーレカンでおかあさんに食べさせてもらったランチのデザート、パッションフルーツのプティング、お腹具合と口の中の具合にぴたりとはまる冷たさと甘さが絶妙においしかった。
夜はRちゃんと久しぶりに会ってわあわあと話すという感じできやすい気持ちでわあわあと話した。エレカシ宮本が好きでファンクラブにまで入ってしまったという話を聞いているうちにどんどんわたしもとても好きな気がしてくる。彼女はなによりも一度バイト先でなまの宮本をみてしまって、その直後フェスでも歌ってるのを見てしまったのだから、好きになるよりほかない、ファンクラブに入ってもしょうがない、という話に落ち着いた。帰り際の駅の改札で友達が「あれポリーナさんだよ!」(バレエ詳しい)というので目をやると、さっき踊っていたのを見ていたポリーナセミオノワが改札にいてあんまり美しくてキャと思ってすっかり好きになっちゃってインスタフォローしちゃった。


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