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2020/08/21 カラスとその影が河川敷の芝生が黄緑色に光っている向こう岸に同じマジックで塗ったみたいな実体感のまま滑っていく

筋トレする。

玲子ちゃんとワシ、と書きあってるのが面白くて自分の一人称についてのテキストを書くけど自分語りみたいになってきて、ツイートし切らない。でいたら奥村さんが全然別件の一人称についてのことをツイートしていてさらに引っ込む。
こんな内容です

描かれたプール、日焼けあとがついたの企画者2人の一人称が「ワシ」なのウケる
多分自分が影響された
一人称が懐いてる人に影響されてめっちゃ揺れ動く

幼稚園の頃は「わたし」って言えなくて「オレ」で、
セーラーウラヌスを見て、「ぼく」という手もあるのか…なんだかマイルド…と思って
「明日からぼくって言う」
って隣の家のひろちゃんに宣言してそうなって、 多分小学2、3年まで「ぼく」だったと思うんだけど
「わたし」になったきっかけは忘れている。
なんで言えるようになったんだろ〜。
逆に今「オレ」「ぼく」は使えない。
それからずっと「私」で、21の時から付き合った人が自分のこと「自分」っていうのに憧れて自分も自分呼びが現れて柔道部みたいに会話してたんだけどそれは今もずっとかなり使いやすい
一番使いやすい。自分が自分のことどう捉えてるかが一枚覆われたまま使える。
結構みんな使ってるかな?とも今思った。どうだろう。

夫が昨日録音原稿ミーティングにおいて一人称が何か聞かれて
なんでもあって…私と僕と俺と…あと僕自分のこと名前とか名字で呼ぶことがあって…って照れてて
照れるよねーなんでだろうと思った
幼児性?
他我の区別がついてないからとか言うけど
なんかそういうことでもない感じがする
自分はまた影響されて自分のこと名前でも呼ぶ

ワシの話にもどると

ワシは使いやすいマジで
わたしを深めた感じも、
わたしを脱ぎ捨てた感じもある
武士の気持ちでも使えるし
姫の気持ちでも使えるかもそんな気持ちの時ないけど
場面によってはヘロヘロでヨボヨボの感じも出るし
語気によっては気合の入った感じも出る(なんでもそう)

総じてずっと「わたし」と言いづらいという話かもしれない。「わたし」が指し示すものが自身ではないような気がする。保坂和志さんがどこかで「”私”は意外と”俺”と同じ気分で使える」と書いていたのを見てから、だいぶ使いやすくなった気もするけれど。

踊ってばかりの国を好きだ!というか最近のやつが好きだ!とorionという曲を聞いて認識する。前の前のアルバム「光の中」のレコードが出るらしくて買おうかと思うけど、送料含めて6000円はぼったくりでは?この発売元は公式なのか?と絶妙な気持ちになってやめる。(その代わりじゃないんだけど夜寝落ちする寸前にケバジョンの新譜「揚子江」8インチを買った。)
けっこうこんなにじっくり好きな気持ちになったのは久しぶりかも。シャムキャッツのレコードよりも欲しい。シャムキャッツの最後のアルバムも欲しくて予約で買って、それが10月に届くことはとても楽しみなんだけど。踊ってばかりの国、なんか、いい具合で生活と活動をやっていそうなかんじがいい。ネットで犯罪者だとかいって叩かれてたけど、そういうことじゃないんだよ。
あべさんの「生きるエナジー」の話を思い出す。まだそこまでいかないけど。

ばーっと大きいものを作っていく時、そこにあるのは技でも考えでもなくただの環境かもしれない、と感じた。
それができる環境、その環境を作る決断、そういう決意が大きいものにはある。逆に言えばそれさえあれば存在するんじゃないかしら。
大きいものを矮小化する話ではなくて、大きさから受ける印象とそれができる過程のギャップみたいなことをなんとなく考えていて、そういう風にちょっと思ったのが面白い新しい気持ちだった。

環境、って最近思う。
どんな劣悪な環境でもできることはたくさんあってそれをやってきたと思っていたけれどそれもやっぱりその環境の中で自分が自分なりに整えていた環境が可能にしていた物事、作られたもの、話せたこと、考えることができたことがある。
環境も自分が作るみたいなことでいうと、前よりずっと自分でそれを選べるのだから、ということを決めるではなく考えている。
考え中。

おつかいものの郵便を出しに郵便局まで自転車で向かって帰る時に、カラスとその影が河川敷の芝生が黄緑色に光っている向こう岸に同じマジックで塗ったみたいな実体感のまま滑っていくのを見た。
この道を通ると、超つらい時に通って歩けなくなったことがあるからその時のことを思い出すんだけど今日はそれが実際にあったということだけがそこにあって、その気持ちに持っていかれることはなかった。

キッチンの方まで作品を広げてしまっていたところに池田が帰ってきてしまったけれど、それをもっと「お〜」とかいって欲しかったんだな、とあとで思う。「どう思う?」「いいと思うよ」
制作している時、他者がいるならいるで、反応がほしいんだと思う、いないならいないで、完全にいないでほしいようなきがしている。

自分の日本語が運動神経みたいなものによって使用されているということがまざまざとわかる出来事があって、というのは「なんかちがう」という違和感が気分的に違うものでしかないだろうと考えていた故に我慢していた部分をよくよく見ると実際に文法的になんかちがう!と判明して、
運動神経みたいなもので日本語を使っている故に気付くことができた文法的異和を、理屈の前にセンサーみたいなもので感じとることができる自分がもつ知性の形に自分で感心してうれしいとともに、
こんな様子じゃ今の勉強の仕方じゃ英語喋れるようにならないなと思った。
バイオリン弾く身体感覚が説明できるけどできない感じで、事後的に説明は可能だけれど使っている時の症状としては運動でしかない感じで言葉を使ってる気がする。
つまりはバカとも言える。
という話をお風呂に入ろうとしてる人に「これは私すごいって自分で思った話で、だけど聞いてください」と一生懸命話して聞いてもらった。

夜、畳の部屋で木耳入りマーボー豆腐、コリンキーのナムル、きゅうりの糠漬け、海藻スープ、たくさんのごはんを食べながら話したりして、調子に乗ってビールを飲んだらなんだかぽわぽわしてしまった。
糠漬けがかなり美味しいと池田が感動していたけど私的にはコリンキーが美味しかった。
0時になる寸前にチラシデザインを入稿する。
なんか苦手な作業だな〜と思った。間違えないように何かをすることが至難の技だけど間違えないように。


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