妙に前向きな遺書を記して、その人はSNSから消えた。 ぼくは何も言わなかったし、何も言えなかった。 遺書の独白の重みをささえられる言葉を持っていなかったから。 やっぱり、言葉は、無力で、軽いんだ。
大人。大したもんじゃありません。 失敗すれば怒られるし。怒られたら落ち込むし。けんかして腹が立てばむくれるし。あいかわらず人間関係に悩むし。イライラを態度であらわすし。だれかをいじめて優越感に浸るし。自分によいしれて絶望もする。 若者諸君。でも、きみたちは、こんな無様な大人たちを笑わないであげてください。 だって、未来の君たちだから。
価値がないといって、死にたいひとがいて、死にたいひとの言葉には共感や癒しや励ましの力があるのに、ぼくの言葉はとても軽くて、誰の力にもなっていなくて、価値がないひとより価値がないのに、死にたいなんて微塵も思わないのだから、つくづく鈍感で救いがたいんだろうけど、じつはこんなぼくも生きにくいとか思っていたりするのだから、今を苦しんでいて、死にたいといいながら、生き残ってしまった末路を、ぼくは体現しているのかもしれない。
宇宙のどこかで星が爆発しているかもしれないけれど、ぼくは薄っぺらい安穏と、仄暗い不安が、風にまかれてふわふわと漂っている。 毎日は無表情に目を合わせずに通り過ぎていくし、推しは明るくライブ配信をしているし、友達は生きにくさをSNSで力説している。 こんな、きみの悪い平和が、明日も続きますように。
今日の天気は曇り。明日の天気は雨。明後日からは遠くの台風が雨雲をとばしてくるから豪雨。その先は、晴れるかな? なんて期待はあっけなく裏切られてしまうんだろうなって、すぐに期待は灰色になって曇り空に溶けていった。お日様は雲の上で、今もニコニコ笑顔でかがやいているのに、その笑顔はなんでとどかないんだろう。手をファインダーにして、拡大できるわけでもないのに、空を睨みつける。 週間天気予報にお日様のマークはないけれど、それでも、空を睨みつける。行き止まりの天気をつきぬけて、はるか、
無責任な言葉には、酸素より軽いやさしさがいっぱいつまっているんだ。風船のように膨らんで、風に吹かれて、どこかの枝に引っかかったまま、やがてしぼんで、最後はゴミ箱に放り込まれた。
忘れたいた夢や希望はセピア色に染まって、ところどころ欠損していた。ひどくモザイクな夢の起源は解析不能で、想像するなら、それは希望じゃなくて、ただ未来を舐めた軽薄な妄想でしかなかったのかもしれない。未来も、夢も、つどつど、流行りや、甘えや、反抗心や、あこがれに揺さぶられて、軸なんてなくなって、風船のように飛ばされていくんだから、叶わないことは、別に悪いことでもなくて、今が良ければそれでよくて、そんな今がつづけばいいなって、願ってる。
食欲旺盛なピンク色は、底なしのように心を貪っていく。黄土色をした良心なんて、大切にしないといけないシーンじゃないなら、吐いて捨てても誰も咎めやしない。なのに無様に縋りつくのは、それこそ腐りかけの良心だったりするもんだから、その底無しの良心は何から生まれてるのか、ぼくには見当もつかない。
「胸が張り裂けそうなほど悲しいです」 本当に? と思ってしまうのは、ぼくが薄情だからかな? 会ったことも、話したこともない人のために、そこまで心が痛んでしまうのかな? ぼくは、そんなふうに悲しめない。 1年経っても胸を痛めてくれますか? 3年経っても引きずっていてくれますか? 10年経っても思い出してくれますか? ばくはどこまで、はい。と答えられるかな。 1日も悲しんであげられないかもしれない。 悲しみの形容は、強いほど、より悲しんでくれているように見える。 でも、嘘
大人になると。みんな、大人になるんだと、思っていた。 でも、そうじゃなかった。心は、子供のまま、体だけ、大人になった。 若いつもりで、老いていくのは、心が、置き去りになったままだから。 そう理解した時、やっと、少しだけ、成長した気がした。
今日、星になったひとがいて。今日、芽吹いたひとがいて。 ひとは、右肩上がりに増えつづけて。15年前の歌詞では60億だったのに、今では80億になっていたり。このまま雨粒の速度でふえたら、25年後には100億になるそうだ。 地球は、もうひとを支えられないなんていうけど、この国の若者は年寄りを支えられないとかいっているんだから、いつか地球はひとを見放すんだろうな。 ぼくたちは、それでも、星になるまでは地球に根を張って生きていくんだけど、プラスチックをやいた匂いを嗅ぎつづけて、
すごくなりたかったら、すごい人に認められて、すごい賞をとって、すごいと言われればいいんじゃないかな。 でも待てよ。 すごい人って何がすごいんだ? すごい賞ってなんですごいんだ? すごいと言われればすごいのか? いやいやいやいや。 原初のすごいは、どんな基準から、どんな価値観から、どんな感性から、産声をあげたんだ? 憧れか、尊敬か、畏怖か、嫉妬か。 すごいって。なんだ。
いっぱい、欲しくなってしまうし、いっぱい、あげたくなってしまうし、与えてくれないと悲しくなるし、受け取ってもらえないと辛くなるし、ほんと、ろくなもんじゃなくて、こんな感情がなかったら、きっともっとさらっと生きていけるんだろうけど、残念ながら力強くすくすくと勝手に育つものだから、恐怖でしかないんだけど、やっぱりなんだかんだ嬉しくなったりするもんだから、不安と嫌悪感を抱きつつもついつい育てちゃう。
自分ってなんだろう。らしさってなんだろう。 生き様、ファッション、メイク、振る舞い、トーク、性格、etc、etc、etc。 自分と他人の境界線はどこだろう。自分のカタチの定義はどこだろう。 ない人もいるだろう。でも、ないことすら、そこにあるのならば、やっぱり自分のらしさであって、でも他人にもらしさがあるのなら、自分らしさって、やっぱりないのかもしれない。 だから、結局、あるがままでしかない。 キラキラした他人も、くすんだ自分も。 誰かの劣化コピーなんだ。
この世に必要のない人間はいないと、君はいうけれど、その根拠はとても曖昧で、ぼくが必要な理由にはならなかったし、なにより君が必要としてくれていないんだから、いったい何を信じろっていうんだろうと、ベランダのプランターで栽培しているパセリに愚痴ってみたけど、やっぱりパセリの声は第二成層圏より高すぎて聞き取れないから、ぼくはまるでひとりごつしかないんだ。
ダサい、ウザい、キライどれも感想。 でも、感想があつまって、感想を超えた何かになって、その何かがすごいパワーをもって、その何かをつかって攻撃をする人がでてきて、感想は心を撃ち抜く綿毛のような決戦兵器コトノハになるんです。 ばきゅーん。 ほら、今日、誰かの心が吹き飛んだ。 まるでゴミのように。ね。