生活について

引っ越しをした。
以前住んでいた家はめちゃくちゃな家で、通常住居としては使用しない物件に無理やり住んでいたので、生活動線がめちゃくちゃだった。

玄関が2階にあって、そこは屋根に無理やり螺旋階段を作って
玄関にしたものだった。その階段にたどり着くにも、ビルとビルの細い隙間を奥まで行って、まさかそこに人が住む場所があるとは誰も気づかないような場所に突如螺旋階段が現れるのだ。

階段を登ると屋根がありそこが一応玄関だ。
もちろん靴を置く場所はないので、扉を開けたら靴をもって中に入り廊下においた靴箱に入れる。
その前に扉を開けたら風呂場がある。脱衣所はないので、脱いでいる時に玄関を開けられたらアウトになってしまう、そんな物件だった。

断熱材がまったく入っていないのか、冬は外よりも寒く、夏は外よりも暑かった。ネズミが壁の間を走っていた時は気持ち悪さで眠れなかった。ねずみが嫌がる超音波を発生させる装置をつけたらいなくなったけど代わりに大量のダニが発生した。

とにかく住むのが大変だった。

しかし、駅から徒歩3分、商店街の中でコンビニ、スーパー徒歩一分で広さは100平米もあり、家賃は相場の半額というすばらしい魅力もあった。

なので、子どもが生まれてから6年住んでいた。

しかし、そろそろ住みづらさも限界に来ていて、子どもも小学生になるしということで同じ駅から15分郊外に行ったところに家を買った。

色々不本意なことが多かった普通の戸建てだけど、住んでみて実感したことがいくつかあった。

よくある無個性な建売なのだけど、生活導線が考えられているので、「生活がしやすい」

生活のしやすい家に住んでいると、生活における一つ一つの動作がはっきりと意識できる。それらの動作がしやすいということがわかる。

顔を洗うために洗面所に行く。

排泄をするためにトイレに行く。

寝るために寝室に行く。

今までの住居はそれらをするために部屋がはっきり区切られておらず、ぬるっとつながっていた。
なので、それらの動作をひとつひとつ切り離して意識することが少なかったように思う。(それらの動作を子どもに自分でできるよう意識してほしいと思っていた)

今の住居は目的ごとに部屋が分かれているので、その目的を行うための動作がしやすく、それらの行為が一つ一つ意識できる。

住環境によって、生活の為の動作の意識が変わるというのを実感している。

そして、より生活について考えている。

生活とは人間が生きていることの後始末にほかならない。

後始末はつまらない上に生産的な活動ではないが、社会で行われる生産的な活動と言われるものは、これらの非生産的な活動によって行うことができるものなのだ、と洗濯物を干しながら思う。

自分が生きた後始末もせずに、外で生産的な活動とやらを行うことの、なんて浅ましいことかと思う。

生活を辞書で見てみると
生きていること。生物がこの世に存在し活動していること。「昆虫の生活」「砂漠で生活する動物」
人が世の中で暮らしていくこと。暮らし。「堅実な生活」「日本で生活する外国人」「独身生活」
収入によって暮らしを立てること。生計。「生活が楽になる」
デジタル大辞泉より

とある。

人間の生活は主に2,3を指す。

人間が生きて暮らすこと。
人間が生きて暮らすために必要なことをすること。
それを大人が自分で用意せず、他人任せにしてすべてお膳立てしてもらった中で外へ生き生産的活動をして賃金や社会的地位を得ることはどう考えても浅ましく思える。そしてそれが性別によってそれらの役割が決められていたことの理不尽さに怒りを通り越してやるせなさが満ちる。

自分の後始末を誰かに任せて生きることは、例えばメイド文化のある国などは全然違う価値観があるのだろう。

後始末は、身分の低いものがやることという価値観があるのだろう。

日本はそれを身分の低いもの=女性にやらせてきた歴史がある。

生活を他人任せにすること。自分が生きた後始末をしないで、それが生きると言えるのだろうか?

生活と言っても一人の暮らしを成り立たせる生活と、家族が複数人いる生活では全然規模も動き方も変わってくる。

一人であれば物を持たず生活を最小限にして遊牧民のように転々として生活することも可能だろう。

しかし家族が複数人いてかつ家族の生活のケアをしなくてはいけない立場の人間の生活では、生活の規模感が違う。後始末の量が莫大となる。

後始末が人生の時間の中に占める割合が大きくなる。

後始末だけでいっぱいいっぱいで、生産的活動まで行き着かない。

私はアーティストなのだが、今日一日ワンオペで6歳児の相手をしながら家事や引っ越しの片付けなどをしていたら1ミリも自分のことに使える時間はなかった。

後始末を私は楽しいとは思えない。

私は作ることをしたい。

しかし作る前に片付いていないとできないのだ。目の前にいる子どもの要求に答えなくてはいけないのだ。


私は歴史を否定せざるを得ない。

生活に根ざさずに生まれた数々の作品の、言説の、なんと白々しいことか。

その言説の、作品を、生み出す為にお膳立てされた場所を誰が作ったのか。

他人の後始末に追われ、自分の人生の活動を諦めてきた多くの女性達のことを思う。

生きることと後始末はセットである。

犬のフンは飼い主が始末するが、人間は自分の後始末をできるはずだ。





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