神をまつ
かみさま、かみさま、かみさま
疲れているとつぶやいてしまう。
特定の宗教を信心していなくても、漠然と
今の状態から報われたい時
「かみさま、どうかお救いください」
と呟いてしまう。
この「疲れた毎日からどうにか報われたい」という気持ちが何かを信じる気持ちの第一歩なのだろうと思う。
しかし、現実はこの生活から救い出してくれる神も人間も現れない。
自分で環境を変えていくしかないのだ。
「報われたい」という気持ちの報われなさについて考える。
どうすれば報われるのか、というのは人間の究極の願いのようにも思える。
究極の報われとは。
しかし程々の報われは経験できても究極の報われは、経験したことがないので想像することができない。
この、想像することができない、というのが信心のポイントなのではないか。
具体的なほどほどの報われは現実的に想像することができる。
しかし究極の報われは、想像することができない。
現実に叶うことがないからこそ、信じ続けることができるのではないか。
叶わない夢は永遠に見ることができる。
現実に向き合わないでいられる。
だからずっと神を待ち続けることができるのではないか。
私は、そこそこ休んだら自分で動き出してしまうので夢を見続けることはできないが、それは心のスタミナがまだ現実と向き合うだけ残っているということに過ぎない。
心のスタミナがなくなったらどうなるのかは誰もわからない。
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