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桜が咲く前に


“何度でもリセットできる 新しい鍵の形がなんか強そう”

2年前につくった短歌を思い出しながら業者さんに鍵を渡した。わたしのお城を守っていた、強そうな形の鍵。退去費のぼったくりもあると聞いてビクビクしながら臨んだ退去の立ち会いはびっくりするほどあっさり終わった。

生活をしていた空間に二度と入れなくなるというのはなんだか変な感じで、遠くに引っ越すわけではないのにやたらと感傷的になってしまう。白っぽい空と日差しの眩しさに春を感じて、駅に行くとき通る公園に桜があったことを思い出した。“桜が咲く前にここを出て行くことにしたよ”きのこ帝国の曲にそんな歌詞があったっけ。イヤフォンを耳につけて再生ボタンを押す。

この部屋にはじめて来たときはBUMP OF CHICKENのバイバイサンキューを流していた。ひとり暮らしにあまり寂しくならなかったのは転職でバタバタしていたからだと思っていたけれど、もしかしたら“ひとりぼっちは怖くない”と藤くんが歌うのを聴いていたからかもしれない。

引っ越してきた頃はインスタで素敵なひとり暮らしの部屋を見つけてはどんな空間にしていこうかと考えていたけれど、二本のギター(うち一本はオレンジのエレキ)と赤いピアノを置いて、「家具の色は統一してオシャレに◎」は早々に諦めた。3台のカメラ、家庭用プラネタリウム、写真集に小説や漫画、たくさんの水彩ペンとスケッチブック、お気に入りの洋服や食器たち。愛すべきものたちに囲まれた空間は、インスタで見ていた統一感のあるお洒落な部屋とは程遠かったけれど、正真正銘わたしだけのお城だった。

猫を呼ぶおばあちゃんの声。夜中のインターホン。北向きの部屋に一瞬だけ差し込む光の長方形。17時のチャイム。早番の朝の誰もいない公園のうつくしさ。よくすれ違う小さな灰色の犬。ポストのダイヤル番号。

わたししか知らない、思い出とも呼べないくだらない記憶。部屋が空っぽになって、誰かに上書きされていくのだとしても、無かったことにはならない。たしかにここで生活をしていた。

桜の木が並んでいる公園を通って駅へ向かう。まだ固そうだけれど蕾がついているのが見えた。咲く頃にまた遊びに来るのもいいかもしれない。“10年後の君はどこで誰と笑っているのだろうか”とイヤフォンから佐藤さんの歌声が流れている。10年後、わたしはどうしているのだろうか。何ひとつとしてわからないけれど、あの部屋で過ごした2年弱のことは覚えていて欲しいなとは思う。

新しい家の鍵はなんだか丸っこくてかわいい。カウンターキッチンがあって、きちんと陽が入ってくる部屋。来週には恋人が引っ越してきてふたり暮らしがはじまる。今からとても楽しみだ。

バイバイサンキュー、代田橋。
また遊びにくるね。

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