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成長

『自宅にて P67-69』

僕は26年間ちょっと生きてきた。26年とちょっとの統計により自分の、ある程度の行動パターンというか思考回路というか、そんなものがわかってきた。あくまで統計的ではあるけれども、自分というものが見えてきた(もちろん、全てを知っていると言い切れないところもあるけど)。その結果、僕は成長して16歳当時の僕は、自分の理想像を思い描いていた。それは大人になる頃には完成しているはずだった。25歳を越えたあたりかなぁなんて。そうすれば、、立派な人になれるんだと信じていました。例えば無口なハードボイルドに、例えば計画性のある人に、例えば他人を妬んだりしないおおらかな人に。そして一方私生活では、都会に一人暮らしで螺旋階段のある部屋に住んで、簡素だけれどおしゃれなインテイアに囲まれて、簡単な朝食は自分で作って、だけどコーヒー豆だけはこだわってて。会社が終わったら、気の会う同僚と洒落たバーで外国の瓶ビールを飲んで、そして、そして…。今の僕は田舎もんだけど、10年もすれば、そんな人になってるんだぁ!
…残念じゃったね、晴一少年。君は変わってないよ。相変わらず計画性に乏しいし、他人と自分を比較してしまうし、東京で一人暮らしはできてるにしても、螺旋階段はないよ。第一あったとしても衣紋掛けとして使ってしまうだろう。外国の瓶ビールだって飲むけど、ジョッキに入った生ビールの方がよっぽど好きだし。
 要するに、もともと都会的ではない僕が、大人になったからって都会的にはなれないし、もともと立派な人じゃない僕が、大人になったからって立派な人にはなれないってことだ。そりゃ僕だって”人は変われない”と思うのは寂しいし、いる変われると思っている派。ただ僕個人は26年とちょっとの統計でいうと変われていない。なのでいつになるかわからない”変われる日”を待つよりは”変われないなら、それをどうする”と考える方が現実的だなと思ってきた。当面はね。無口なハードボイルドにはなれない。たくさん喋ってしまう。自分はあんなことした、こんなことしたいと。もうこれはしょうがない。だけど「口だけだね」って言われのは嫌。それをどうする?喋った以上の結果を残せば、ただの”おしゃべり”から”有言実行”という良い言葉になる。同じように自分と他人を比べて妬んでしまう。そのまま、その他人の足を引っ張ろうとしてしまうと僕はクズになってしまう。じゃあ、そいつより僕が秀でるにはどうする?って考える。元を正せば、自分は自分、他人は他人。自分さえしっかりしてればいいよ、って考えられるのがよいのだろうけどね。なかなか。
 現在の自分への”傾向と対策”ってことかなぁ?全ての範囲を網羅して、どんな問題にでも、自然に立派な答えを出せるが理想なんだけど、そうもいかない。妥協案として、自分はこういう傾向があるから、それに応じて、こんな答えを出しましょうって感じ。とりあえずここだけはって。まぁ、それでもよく間違うんだけどね。
 


本をスキャンした画像ではあまりに読みにくいだろうと思い、文字起こし(というのだろうか?)をしてみた。昔の自分の考え方に、笑うしかなかったり、突っ込んだりしながら。
その当時と今を比べてもらうのがこの企画の趣旨なので、拙い文章に手を入れたくもなるがやめておいた。
それにしても、文字起こし、しんどい。

元の文章を読んでいると、成長をずいぶんと表面的に捉えているなと。まあ、これも若さゆえと笑ってもらいたい。

 「成長しているのか」これは人生の節々で、自分の中に頭をもたげる問題だ。節々、というのが大切で、親戚の子供の成長と一緒で「しばらくみない間に大きくなったな」くらいの期間を置かないと中々見えてこない。
 「自宅にて」の文章は、しょぼい子供だった自分が、バンドの成功を経て、何者かになったかのような気がしてしばらくしてからの時期だったんだろうと思う。バンドの活動から、たくさんのことを学んでいる最中だったし、見たこともない景色を見ていた。たくさんの人が自分のことに興味を持ってくれているのではないかと感じていた。それまで自分を求めてくれた人なんて、ごく親しい人を除いてはいなかったから、翻って自分は魅力的な人間に成長できたのではないかと勘違いした僕を責めるわけにもいかない。
ただ、「自宅にて」にも書いてあるように、実際は成長と呼べるものはなかった。馬子にも衣装ではないが、当時、注目されていたバンドのメンバーであるという事実は派手な装いそのものだった。それでも立派なスーツを着た人が立派な人だとは限らないように、身に合わないサイズをもて余すだけだった。
 「経験」や「環境」が自分を成長させる要素として不十分なら、「時間」はどうか? これも自分を成長させるサプリメントのようにはならない。45年生きてきてそう思う。むしろ、「時間」は変われない自分を確認させる証明みたいなものだと思う。
 結局のところ、自分という種が、地面から芽を出した時に使っていた根っこは、今も変わらないということだろう。土の中には様々な養分があって、どれを吸い上げるかは人それぞれだけど、種の種類によって最初から決まっているのではないかとさえ思う。喜びや悲しみ、楽しみや妬みという自分の周りにある自分を形成する養分をどういう割合で吸い上げるか、これを変えるのはかなり難しいと思う。
 良い悪いという話じゃない。

ーーーーうーん、この企画を始めて2回目で早くも難しさを感じている。同時に発見でもあるが、無邪気に「成長って」というテーマで書けた時と比べて、今書くことの難しさ…。25歳なら「成長してない」と言い切っても、まだ許される部分もあったかもしれない。しかし、45歳になってそう言ってしまうのはあまりに残念な人だ。上の文章も、なんとか着地させようと粘ってみたけど、うまくまとまらなかった。それほど、「人は変われるのか」という問いは、自分の中で大きくなってきている。「世界に一つだけの花」という願いはとても素敵だと思う。それでも僕は、「隣のあいつの花、俺より綺麗だな」とか「俺の葉っぱ、ちょっと棘多すぎてきもい」とか思ってしまう。挙句「やっぱり、種が違うからね。しょうがないか」という、救いのない結論に至ってしまう。
 また何年か後に、このテーマにトライしてみようかと思う。もしかしたら「しばらく見ないうちに大きくなったね」と自分でも思える日が来るかもしれない。

おまけ

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