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お年ごろ

今回の『自宅にて』はテレビスタジオに向かう移動車の中。モバイラーとしてはね、車の中でもパソコンを開くんだよ。いや開きたいんだよ。というのも、昨日PowerBookを手に入れたんだ。自宅の作業部屋ではデスクトップのMacを使ってたんだけど、ノート型は頑なにWindowsだった。音楽業界ということもあって周りのスタッフ、ミュージシャンともM acユーザーばっかりで、みんなが集まるリハーサルのときなどは、ずらっとノート型が並び Mac電脳教室みたいになってた。さらには「俺たちMac部」などと言い出す始末でMac相手に語りかけんばかりにかわいがっていた。長年のwindowsユーザーであった僕はその宗教的集団に抵抗し続けていたわけだ。
しかし使っていたノート型Windowsがどうにもこうにも古くなってきて、そのおかげでこの『自宅にて』の締め切りにも遅れがちになってしまっていたので(これは噓ですが)買 い替えを考えたときに、家のデスクトップとの互換性も考えて、泣く泣くこのPowerBoo kにしたんだけど、かっわいいんだよね。そりゃ話しかけるわ。敵視していたMac部の諸先輩に教えを乞いながら、カスタマイズする楽しさといったらないね。ただ、今からMac部では後輩面しないといけなくなるね。
さて連続リリース中の僕たちなんだけど、そしてそれを言い出したの僕たちなんだけど…… 意外に大変なことに気がついた。パチ•パチのインタビューでも言ったと思うんだけど、いい曲ができたら聴いてほしいし、リリースできる状況があるのならそりゃリリースしたいよ、という至極シンプルな発想からなんだけど、なぜかプロモーションやジャケット、ミュージックビデオのことをすっかり忘れていた。曲はできてしまえばレコーディングにかかる時間は知れているんだけど、それにまつわる諸々のことに何倍もの時間がかかってしまう。ということは、1カ月間隔くらいでリリースすると、それがかぶってきちゃったりして。誕生日も行楽の秋も何もないよ。
と、多少強引に今回のテーマは「お年ごろ」です。
この間、といっても9月に誕生日を迎えた。追うように10月に昭仁も誕生日で、めでたく1 974年生まれの同級生であるポルノグラフィティはそろって29歳になった。それを踏まえて12月から始まる6回目のツアーは 〃74ers〃と名づけてみたり、何かと最近年齢を意識することがある。
これは僕も多分にもれず、若さへの執着としての名残惜しさなのかなぁと自己分析もしてみたりした。柔軟な頭や無駄のない肉体や、あり余る可能性やそれに打ち込める時間などへの。
30歳などもっと年上の人に言わせると、「まだまだ若い」や「これからいちばんいいときだよ」ということになるんだろうけど、当事者としてはやはり29歳と30歳の間に、名前はわからないけどある線が引かれている感じはする。19歳と20歳の間にもその類の線はあったんだろうけど、上のほうばっかり見て歩いていた時期だからか、僕が鈍感だからなのか、気がつかなかった。 それならば今こうしてその線をありありと感じるのはなぜなのか。下を向いているから? 敏感になったから?たぶんそうじゃないんだろう。
バンドの活動や周りの友人たちのおかげでそれなりに充実した20代に、ちゃんとしたエンディングをつけて、次の章となる30代を迎えたいんじゃないかな。
小説で言うと、ドキドキしながら次のページをめくりたくなるような、意味深で隠喩的な表現のされた最後の1行かな。
じゃあ10代のエンディングは気にしなかったのかというと、まったくそのとおりだ。だって10代の10年間の前半から中盤、つまり学生時代。当時、自分が置かれている状況は、すべて親やら何やらに与えられたものだったから、それを人生として背負うほどの自覚もなかった。少なくとも僕はそうだった。だから10年をひと区切りにして引かれる線は曖昧だったんだろう。そう考えると来年9月、僕は初めてそういう線をまたぐことになる。初めて自分の意志でひとつの章を書き終えることになる。初めての経験という意味で意識しているんじゃないかと思う。年齢を。
長編とはいえ、10年をひと区切りで進んでいく小説は、そのひとつひとつの章が次につながって、次の章は前の章を踏まえてまた次の章へとつながる。ひとつでもつまらない章がある小説など、名作には決してなりえないと思う。
そして最後になんらかの作品が出来上がるんだろう。
さすがにそこまでは、想像さえもできないけど。
『自宅にて』

お年頃、か。
お年頃じゃない年齢ってあるのかな、と。
俺は46歳だけれど、自分をお年頃だと感じている。もちろん中学生の時とは違うにしても。
一般的には中学生あたりから20歳そこそこの女子を、お年頃というのかな。昔の言い方だけど。その年代は男女に関わらず、まだ見たことのない未来に不安を感じるだろうし、期待もしている。そしてその未来に果たして自分の体や感情、もっと言えば能力がフィットするものかどうか常に疑わしく思っている。それが、その年頃特有のナイーヴさになって現れ、それをお年頃と呼ぶんだろう。
そして、その構造は46歳の俺にだってまんま当てはまる。
少女が大人の女に変化する時の危うさと、初期中年男性が中期中年男性へと変化するためらいは、脂っこさこそ違えど同じ面はあると思う。我々は共に恐れ、ためらっている。少女は目の前の道が刻々と広がり、どこまでも続いていくことに恐れている。迷ってしまわないかな、どこかにたどり着けるかな、と。中期中年男性は目の前の道が刻々と狭まり、おぼろげに行き止まりのようなものが見えていることにためらっている。今のところまだそれは見間違いかもしれないけど、どこかにたどり着いてしまうのではないかという予感はしている。人生に没頭しているうちに、突然、曲とともにエンディングロールが始まってしまわないかと。
「自宅にて」でも書いてある通り、46歳などもっと年上の人に言わせると、「まだまだ若い」や「これからいちばんいいときだよ」ということになるんだろうけど。そう言われたら頷くしかないが、本心でどうだろうか?
もし俺が、不安そうな少女に「心配しなくてもいいよ。君の道はそんなに広くないし、どこまでも続くという表現が似合うほどは長くもない」とアドヴァイスしたところで、少女の気持ちは晴れるだろうか?
つまり、中学生であれ46歳であれ、他のいかなる年齢であれお年頃であるということだ。(あれ?これ、最近読み返した「騎士団長殺し」の中にも書いてあったな)
ただ、少女に(少年でも)許されて俺に許されていないものがあるとすれば、お年頃な振る舞いだ。少女は不安定な気持ちをそのままに、気ままな態度をとってもある程度は許されるし、未完成な人生を時に途方もなく無駄な時間に費やすことだってできるけど、大人のお年頃はそういうものを慎重に隠し通さなくてはならない。同じお年頃なのに不公平なことだ。
大人は、あらかじめ地図で何度も確認した道を、必要な装備を身につけて歩いているような顔をしなければならない。少なくとも、そうした方が周りの人からの信頼を得られる。さっきも書いた通り、実際に歩いている道は刻々と変化しているし、まだこれからどれほどの距離を歩かなくてはならないのか不透明。手に持っているのはこれまでの道のりの地図と、この先、役にたつかどうかわからない装備ばかりなのに。
やっぱり、少女がおっかなびっくりの足取りで新しい一歩を踏み出していくみたいに、大人も多少磨り減った靴でおっかなびっくり進まないといけない。ただ、その胸の内を他人に気づかれてはいけない。

おまけ

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