見出し画像

親切な人①

先日、SNSから生まれたデマで、この国からトイレットペーパーが消えた。

 そういえば、昭和を振り返る類のTV番組でオイルショックを取り上げる時、必ずトイレットペーパーに群がる市民の画が使われる。
生まれる前の話だからオイルショックについて詳しくは知らないけど、本当に石油がなくなるなら自分のお尻より先に心配するところもあろうと思って見ていたが、今回の件を見ても、お尻は人々の大きな関心ごととして存在しているんだなと、その頃の俺は昼のワイドショーを見ながら人ごとのように笑っていた。
 しかし、すぐに俺は「人様を笑う前に自分の身を省みなさい」と教えてくれたばあちゃんの言葉を身にしみて思い知ることになった。手には数センチのトイレットペーパーを持った格好で。
ホルダーに残るあと数回転分が俺の家に残る最後のトイレットペーパーだった。
 とりあえず手に持った数センチのトイレットペーパーの面積を余すところなく使って尻を拭き、トイレを出た俺は思案した。
この時、頭の中はトイレットペーパーのことで一杯だった。この後、片付けなければならない仕事や用事があるにもかかわらず、俺は俺自身の尻の問題に支配されていた。
 
 普段なら、近くのコンビニに買いに行って、ガムと一緒にレジに持っていけばいいだけの話。しかし状況は前述の通りだ。かなり市中を探さなくてならないし、それでも見つかる確率は低かろうと俺は絶望的な気持ちになっていた。けつを自由に拭けないという状況は、人をこんなにも不安にさせるものかと打ちひしがれていた。
 
 その事実もさることながら、俺をさらに怖がらせたのはデマに踊らされている人間だと周りから見られることだった。

 誰よりも知的で客観的な人間であろうと努めてきた自分にとって、そういう哀れみの目は何よりも耐えがたい屈辱だった。
しかし、だ。次の便意がいつ訪れるやもしれないこの状況では、自分に与えられた選択肢はそう多くない。
 
 俺は靴を履いて最寄りのコンビニに向かった。
店内に入っても、すぐにはその売り場には近づかない。電池を見たり、牛乳を手にとったりしながら徐々に距離を詰めていった。
アカデミー賞とまではいかなくても自分なりに納得のいく演技で雑誌売り場までたどり着いた。
ここまでくれば、後は振り向くのみ。
雑誌を選ぶフリをしながら周りを窺った。
隣には週刊少年ジャンプを立ち読みするサラーリーマン風の男。
コピー機の前に、女子高校生。
大丈夫だ。
そう確信した俺は思い切って、学生の時以来、いやそれよりも数倍キレた回れ右をした。
そこで目にしたものは!
店にひとつだけ置かれたトイレットペーパー!
クリネックス、シングル巻。4ロール入り。
本来はダブルを選びたいところだけど、この際、贅沢は言ってられない。
それにしても気のせいだろうか、広い棚にひとつだけあるそのクリネックスが心なし輝いて見えるのは。
神、だけに・・・。
・・・などとほくそ笑んでいたのがいけなかった。
ワイドショーなどでほとんど品切れ状態だと報道されている中で、俺がするべきことは、ダジャレなど呟くのではなく、さっさと奇跡的に残されていたクリネックスを脇に抱え、レジに向かうべきだった。
歓喜で震えている俺の姿を彼が見逃すはずがなかったのだ。

「トイレットペーパーがなくなるっていうのはデマですよ」
男の声が聞こえた。
しまった、と思った。これこそが俺の恐れていた事態だった。
この声が自分に向けられたものではないと思いたいが、男は言葉を発する前に俺の肩を叩いた。ーー今からあなたに話しかけますよ、という声の主の意思は確かに受け取っていた。否定のしようはない。
振り向くと、親切な人が立っていた。
60代半ば、中肉中背。顔に特徴がないのは、目立ったシワやシミみたいなものがないせいか。
毛髪も十分に保っている。服もいたって普通。
首元までボタンを閉められた紺のボタンダウンシャツは「ファストファッションの店で買いました」と言われても「奮発してデパートで買いました」と言われてもこちらとしては「そうなんですね」と言うしかないようなものだった。
そういう匿名性の高いシャツが彼自身の匿名性をうまく引き出していた。それは性的な魅力を持つ女性と、その魅力を惜しみなく披露するタイプのドレスとの関係のように。

ここから先は

1,523字

¥ 200

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?