見出し画像

人は”完全に”わかり合えることはない

「人は〃完全〃にわかり合えることはない」
最近、僕はプライベートや仕事で海外に行く機会が増えまして。デビューするまで海外はおろか飛行機に乗ったこともほとんどなかった僕は、いろんなことを考えてしまう。 飛行機に乗るたび、海外に行くたびに思うこと。
まずニ ューヨークに行ったときのこと。8月1日の正午に成田を出て、約13時間のフライト。 で、ジョン• F •ケネディ国際空港に着いたのが8月1日の正午。??あれ? 飛んでた時 間はどこ行った?ほんじゃ何か?この乗ってきた飛行機のスピードで地球を回れば、僕は 歳をとらないのか? ずっと26歳か? ひげも剃らなくていいのか?などとわめいてスタッ フを困らせていたら〃日付変更線〃の存在であっさり解決。まあ、これは冗談として。 入国審査。っていうかパスポート。これなくなんないのかなって。歴史的に見ればなくなり そうじゃん? 実際にEU内ではなくなってるし。
日本だって、例えば幕末、つい百何十年か前まで隣の藩へ行くのに手形っていうのかな、つまりパスポートが必要だったわけ。長岡—東京間を何日もかけて移動したわけでしょ。時間距 離にすれば今のニューヨーク—東京間の13時間なんて、その当時隣の藩に行くくらいのもんだ ろう。今、新潟から東京に行くのに県知事の許可なんていらない。んじゃ、そのうち、アメリ力に行くのにパスポートがいらなくなっても不思議じゃない。国が違うとはいえ、その当時の 日本の藩だって今でいう国だったんだからね。
と、長々と、どこにもたどり着かない話を書いたのには理由がある。今回のテーマは(テー マに入る前に書くのもなんだけど)違った意味で、どこにもたどり着かない自信があるし、字 数を尽くして語ることでもないような気がしている。なのであらかじめ本編の字数を減らしと こうかなって。
今回のテーマです。「人は〃完全〃にわかり合えることはない」です。ちょっと寂しい言葉に 聞こえるかもしれないけど。
この〃完全〃はよく「絶対という言葉はない」の〃絶対〃に近い精錬さかな?
僕も「人はわかり合える」とは思うよ。むしろ人とわかり合えないと、生きていくことはとて も苦しいものになるかもしれない。けれど繰り返すことになるが「〃完全〃にはわかり合えな い」と思う。理由は結構あっけないもの。他人は自分じゃないから。
こういうことを実感するのは、本当の悲しみに出会ったとき。喜びでもいい。怒りでもいい。 本当の感情に出会ったとき。
言葉というものに可能性を感じ、プライドを持って接しているつもりの僕が言うのもなんな のだけど、言葉にはできないこと、言葉にはしきれない感情というものはあって、その感情を共有、つまり〃完全〃にわかり合おうとすれば〃完全〃に同じ経験をしてもらわなくてはな らない。
5年間付き合った大好きな恋人と別れました。親友は夜通し話を聞いてくれました。一緒に 泣いてもくれました。親友は私のことをわかってくれるかけがえのない存在です。
例えばこんな話。こういうことを否定するつもりなんてまったくない。素晴らしいことだと も思う。尊いことだと思う。「わかり合えている」だろう。
ただ、今回のテーマの核である〃完全〃をつけようとすると、その親友に5年間の自分の心 の動きを伝えないといけないし、それを言葉にして伝えようとすると少なくとも5年以上はか かるだろう。
逆に、ひと晩で〃完全〃に同じ感情を共有できたというなら、それは心の深いところでの〃本 当〃の感情じゃないか、信じられないことにその親友と君は同一人物なんだ。自分が自分であ る以上、ひと握りなのか、ひとつまみなのか、あるいはもっと小さいのか、けど確実に〃わか り合えない欠片〃はある。そこが他の誰とも違う自分であるとも言えると思う。さらに言えば、 そのわかり合えない小さな欠片があるから、人とわかり合いたい、わかってもらいたい、話し たい、触れたい、見つめたい、と思うんだ。
もしパソコンのUSBケーブルみたいなので人と心をつなげて、一瞬で〃完全〃に一緒にな れるとしたら、僕という個人はいらないし、僕は詞を書かないだろう。

この回では、パスポートがなくならないかなと妄想しているけれど、奇しくもコロナ禍の現在、パスポートがあっても外国どころか隣の県にさえ行けない。これもまた、想像していなかった世界だなと。

「人は”完全”にわかり合えることはない」というテーマ。偉そうに語っているけど、なんて当たり前のこと書いているのだろうと思う。今、改めてそう思う。
わかり合うためには、まずどうするべきか。
自分をさらけ出すこと。これから始めないといけないが、こんなこと他人に対して、いや肉親に対してでさえ、それは難しい。というか、俺は無理だ。
人の心って、ざっと3層くらいになっていると想像する。精神学者じゃないので、名前はつけられないけど。真ん中の核を中心に円状の3層。自分という色があったら、中心が一番濃くて、外に向かって薄くグラデーションしていく感じ。あくまでイメージだけれど。
我々は普段、というかほとんど一生、この一番外側の層で他人と接している。この層にだって厚みはあるので、初対面の人とは卵の殻みたいな硬い外皮みたいなところで向かい合う。その内側に(そこから自分の心の領域といって差し支えないと思う)誰を入れるかは慎重に考えるべきだ。
ここはまだ自分がコントロールできる領域なので、自分が得た知識などを活用することができる。
話は多少、逸れるかもしれないが、森林伐採のニュースなどを見てどうにかしなくては、と考えるのは森林伐採がもたらす不利益を知識として知っているからだ。人を傷つける言葉を安易に口にしないのは、そうすべきではないという道徳的な知識を持っているからだ。または、そういう態度をとった結果、自分が被った不利益を経験として持っているからだ。
なので、そういう知識を駆使しながら、一番外側の層は作られている。
僕はバスなどで年寄りに席を譲る。そうしたからって、自分を親切な人だなんて思ってはいけない。そりゃ僕にだって年寄りをいたわる気持ちがないわけじゃなだろうけど、同じくらいかそれ以上に、そうした方がいいという知識が行動させていると思う。同じことが、自分以外の人と接する時にも起こっている。知識と本心の割合をいちいち自分自身に問い詰めれば、うっすらと見当をつけることはできるかもしれないが、普段はそうしたことはしない。自然、(さっきの例でいうと)自分はバスで年寄りに席を譲る人間なのだ、自分を評価していたりする。
言うなれば、このよそ行きの一番外の層でさえ、他人にさらけ出してしまうのはとても危険だと思う。少なくとも僕はそうだ。もう一つ深く、核に近づく2層目から漂う悪臭に気づかれるからだ。
ここには喜怒哀楽といった感情が何にも縛られず、剥き身のままで存在している。
誰でも知っていることだが、この感情たちは自分では制御できない。それならば自分と切り離して、おぞましい獣のようなものと考えたいが、紛れもない自分自身だということを我々は知っている。そしておぞましいのは何も、怒りや妬みといった負の感情だけではない。むしろ「喜」の方だ。世の中に起こる悲惨な出来事と自分の間に距離があることで生まれる「喜」だってあるし、妄想の中で誰かを否定することを成功した時に湧き出る「喜」だってあるだろう。根拠なんて必要としない。だってそこはそういうものから解き放たれた層だからだ。
そんな場所を、誰かにさらけ出せるものだろうか? たとえさらけ出したところで、それを受け入れる他人などはいるのだろうか?
こうやって書いているのは、あくまで僕自身の話だ。もちろん世の中には、知識など必要としなくても親切な振る舞いが自然とできる人もいるだろうし、感情の住みかに悪臭など漂っていない人もいるだろう。そういう人たち同士なら、もしかしたら他人と分かり合える可能性があるのかもしれない。
しかし、その他の人は気をつけたほうがいいと思う。
この悪臭とは口の臭いみたいなもので、多かれ少なかれ他人には異臭として受け取られることを覚悟しないといけない。自分で気づいていないだけで。

最後に核。それについてはうまく書けそうもない。本能とはまた違う渦巻きが自分の真ん中にあるという気配は感じるけど、自分自身でさえ迂闊に近づいてはいけないような気がしている。そもそも近付こうにも、第2層の複雑な迷路で立ち往生するばかりだ。これに関しては、またいつか書ける日に。そんな日が来るかどうかわからないけど。

おまけ

ここから先は

970字

¥ 200

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?