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親切な人②

 俺は不躾に声を掛けられてムッとしてしまったが、彼を見るとどこをとっても、悪意だとか恣意だとかを見出せない。
彼の発言の内容と合わせて、俺が頭の中でとっさに「親切な人」と彼のことを呼んだのもそのせいだった。
「いや、トイレットペーパーがなくなるんです」
俺は、残り3回転ほどになった自宅のホルダーを思い出しながら、恐る恐る言った。
「君はSNSに踊らされているよ。トイレットペーパーはなくならない」
親切な人は、俺の言葉にかぶせ気味でそう言った。
商業施設の中で、インフォメーションのお姉さんにお手洗いの場所を聞いた時と同じくらい、口に馴染んだ返しだった。
誰よりも知的で客観的であろうと努めている俺に向かって踊らされているとは失礼な、とムッとする気持ちもあったが、親切な人の知的で客観性を持った声の響きに、反論のタイミングを失った。
「いや、SNSがなんと言おうと、僕にはトイレットペーパーが必要なんです」
投げやりに言う。どんな言葉を選んでも親切な人は納得しないだろうなと、半ば諦めの思いを持ちが勝っていた。
親切な人の顔の特徴が乏しいのは、その造作だけでなく表情も同じだった。
主に動いたのは眉、それにつられるように目や口も変形した。しかしその結果作り上げられた、表情、と呼ぶべきものが何を意味するのか、俺にはよく分からなかった。
「事態が少し落ち着くまで様子を見ちゃどうだい?」と言った声がそれまでと比べて優しかったことから、デマを盲信している(と彼が思い込んでる)俺へ哀れみを含んでいるのだろうと推測した。
「それはどれくらいの期間なんですか?」
「およそ2週間」
俺は頭を抱えた。2週間という時間の前に、3回転のトイレットペーパーになんらかの意味を見出すことは不可能だ。
「しかしサワダさん。2週間といったのは総理大臣で、あいにく私は彼と知り合いではない。彼と机を並べて勉強をしたこともなければ、酒を飲んで失恋を慰めあったこともない。そういう赤の他人のいうことを簡単に信じるべきではないと私は常々考えている」
「な、なんで俺の名前を知ってるんです?」
「このセブンイレブンがコンビニだということは誰もが知っていること。どこにも書いていなくたって。それと同じように君がサワダさんだということは、誰もが知っていることだよ。それとも違うのかな? 君はサワダノリチカではない?」と親切な人は、怪訝そうな声で言った。
「そうですけど」
俺は頷いた。
「だったらよかった。こんな当たり前のことを間違ってしまったのではないかと、こちらが不安になってしまったよ。あまり人を困惑させる言動は慎んだ方がいい。君がトイレットペーパーを買い漁るのもまた、他人を困惑させることにつながる」
なるほど、そういうものですか、失礼しました。と言えるわけがない。赤の他人が、自分のフルネームを知っているなんて、親切な人どころか、この世知辛い世の中で一番警戒すべきタイプの人間ではないか。と、身を固くしそうになったが、すぐに合点がいった。
コンビニに入った瞬間に、すぐに会計を済ませられるように、財布からSuicaを取り出して手に持っていたことを思い出した。このSuicaは記名式のものだったのでそれを見たのだと。
それにしても、カードに印字された名前はかなり小さな字でそう簡単に読めるものだろうか。俺の気づかないうちに盗み見たのだとしたら、やはり彼に対する警戒は緩めるべきではないと気を取り直した。
こんなことなら、トイレットペーパーがなくなったことを知らないフリをして、妻の綾子が買い足すのを待てばよかった。こんなわずかばかりのトイレットペーパーを買うために、ややこしいおっさんに絡まれるのは割りに合わない。

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