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自宅にて2020

「理想の死に方」
今回の『自宅にて』は、石川厚生年金会館のプロダクションルームから書いてる。しかし今日、本番じゃない。小屋ゲネといって、本番の状況をすべてシミュレートして行うリハーサルのことだ。
マネージャーからのモーニングコール、会場への入り、音出しのスタ—卜の時間も本番同様に進めていくし、ステージもまた本番同様に行われる(まあ、昨日の夜の宴も本番同様だったんだけどね)。ただ、ひとつ違うのはお客さんがいないこと。とはいえ、リハーサルスタジオで音関係を固めていただけのときよりは、始まるという緊張感や興奮の度合いは違う。今このプロダクションルームのステージが映るモニタ—にも、照明の準備やら音チェックの膜様やら は映し出されてしるし 隣のメンバー&スタッフ楽屋も少しテンションは高い。同じ音楽活動でもレコーディングの前とは違う。レコーディングはパジャマでやることだってできるし、口の端に歯磨き粉がついてたって曲そのもののクオリティーに影響しない。休憩しようと思えばできるし、やり直しもできる。レコーディングが終わった曲でさえ最終的にリリースしない、お蔵入りにするという選択肢さえある。これってわかりにくい言い方かもしれないが、日常生活に似ていない? 何か取り返しのつく感じが。しかしライブは違う。ツアー、ライブとはそういう非日常。
じゃあ、さっそく……。
今回は「理想の死に方」です。そんなに重くないです。
最近、友達と話しててバカ話の合間に何げなくそういう会話になった。彼の理想の死に方は、南の島でハンモックに揺られながら老衰で死ぬことだそうだ。そして読みかけの本が落ちる…•••。かっこええじゃんか。今度から僕もそれ使おう、なんて話してた。で、ちょっと考えた。 寂しいぞ、それって。彼にとってじゃなく僕にとって。なんでだろう? かっこいいけど。
で、わかった。
このまま死に方を例にとって進めていくと、やっぱり重くなるので変える。
僕は東京に住んでいて、1万人以上入る会場でライブができるバンドに所属していて、僕が 望む望まないにかかわらず(それはチャホヤという意味じゃなく、仕事を潤滑に進めるという 意味で)、僕に気を遣ってくれる人が周りにいる。今日も会場入りのとき、雨が降っていたの で、ワゴンから楽屋口までスタッフが傘を差してくれた(これだって僕が風邪をひくと、この ツアーが潤滑に進まなくなるという理由)。
これが今現空、僕の日常だ。順応している。まあ順応してないと日常とは言えないんだけどね。
ただ、借りもののような違和感が、どこかに残っている。傘を差してくれる理由は理解できているつもりだけど、なんかくすぐったい。東京って匂いのするバーにだって行くけど、そこだって大好きだけど、居酒屋で280円のもちチーズを食べてるほうが落ち着く自分もいる。僕はやっぱり田舎者で変わってないよっていうイメージ作りでこんな話をしているんじゃない。話は少しずれるかもしれないけど、世の中って普通の感覚を持っていることがもてはやされるじゃん?こんなすごいアイドルなのに、財布の中には1200円しか入ってなかったとか、 普段着はジーパンとTシャツだとか。僕だってそういう感覚を持っている人に好感を持つ。でも本当に憧れるのは、普通じゃない感覚を持っている人だ。自分にはできないこと、作品にしたって破天荒な生き方にしたって、自分にできないこと、普通じゃないことに憧れるんだ。簡単に言うとシド•ヴィシャスね。
話は戻って。
南の島で一生を終えることに違和感を覚える。そんなちょっとしゃれた状況にも憧れるけど、 やっぱり故郷の市民病院のベッドのほうが、まだしっくりイメージできるということは少し残念ではあるけど、伝説のロックスタ—のようにはとてもなれそうもない。中途半端な常識人である自分が悔しいというエピソードでした。これからは頑張ってデタラ メに生きていきます。
ーー自宅にて

20年前の自分は、相当違和感を感じていたんだろう。
そのちょっと前まで、身ほど知らずの夢だけ持った、まだ何者でもなかった自分が、全国をツアーで来て、そこに自分たちを待ってくれている人がいるという状況に。
コンビニ弁当の空を押しのけた机のスペースで書いたものが、知らない人に届いている状況に。
自分のことは自分が一番知っているという意味でいうと、そういう場に自分がふさわしくないと一番自分が知っていたから。
まあ、当時、そんな謙虚な考え方は持っていなかったと思うけど、それでも自分の正体みたいなものがバレてしまわないかな、という不安はどこかで持っていたのだと思う。

今はどうだろうか。
こんなにも長い時間、自分たちのことを応援してくれている人がいる状況をありがたいと思う。
そして、それに応えるのは当たり前だとも思っている。
ありがたい、と、当たり前。
説教くさい理屈を出すと、有り難いの反語は当たり前だそう。
つまり、今の自分の状況はありがたいと当たり前が同居している。
有難いはもちろん感謝につながりポジティヴな意味になるが、当たり前は惰性とか義務とか多少ネガティヴな意味合いを含む。
上の文を「そして、それに応えられる機会があって有難い」と直すこともできるけど。

でもまあ逆に考えると、「あなたが近くにいてくれて有難い」は、常に感謝を感じていなければならない緊張感、ある種の脆さみたいネガとも言えるし、「あなたが近くにいてくれるのは当たり前」は、平凡な日常、明日も繰り返されることが約束されている時間の持つ頑丈さみたいなポジを感じることもできる。

要するに、今の自分にとって今の自分の状況は、有り難くて当たり前、ということになるんだろうか?

で、理想の死に方につながるわけだけど。

因島病院でも、南の島でもどこでもいいんだけれど、その直前まで誰かと繋がっていたいなと思う。
これはもう、死に方というか老後の話みたいになるんだけど、去年から今まで続く自粛ムードの中で感じた。
「持て余す時間、晴れない気分、緊張感もないし、もしかして老後こんな感じになったらやばいぞ」
ゲームをやったところで充足感はないし、何かスキルを身につけてやる、と意気込むには、先の見えない世の中では目標も簡単に見つけられず。
もしかしたら、本当の老後はもっともっと枯れていて、読書やゴルフだけやれていたら満ち足りるのかもしれないけど。

そういう中で、自分ができる仕事があるというのは、本当に有難いことだなと思う。自分ができる仕事は、僕にとっては表現することだし、誰かにとっては家事や学業かもしれない。
どんな仕事であろうと、仕事とはそのまま誰かと繋がるという意味だからね。

ということで、理想の死に方は、その直前まで誰かと繋がっている、でした。

おまけ

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