渦にまみれて、トマトを潰す

友人に誘われ、舞台を観た。
高校時代に演劇、大学で美術史を専攻したという友人。高校時代の先輩が演出を手掛けているらしい。

演劇の細かいことは知らないけど、webなり建築なり身体表現なり、モノづくりに興味はある。観てみたい。そんな気持ちからだった。

題材はチェーホフの戯曲『イワーノフ』。主人公イワーノフと病気の妻アンナ、イワーノフに告白する若い娘サーシャ、その三角関係と絡む医者と領地支配人の目論見。

それぞれの苦悩。言い訳。エゴ。欲求。生きるか死ぬか。逃げるか否か。
抑揚のない言葉から紡ぎ出される違和感と感情。無機質な動きとそれに暗喩された家と外、社会性。男と女。狂気と母性。

観終わって、いろいろ話す中でさらに内容が反芻してくる。一気に情報が流れ混んでくる。

いろいろ言い訳並べても人間結局は自分かわいいんだろ、て思う。
相手の為に身を引いても、結果的にそれはエゴとして受け取られても仕方ない。
いろんな人間の想いが交錯することで、様々な動き、解釈が、人生が生まれる。

お前はユダヤ人だ、というイワーノフ。口論の場面なのに、静かに眈々とした声で発せられる言葉に、不気味さを感じた。

トマトを潰すことで、自分の生活を握りつぶした、というひとつの解釈。私はそれを、トマト=ちっぽけな人間、心と捉えていたけど、なるほど、生活を指しているのか、など。

解釈は様々だ。
情報は主観的産物。だからこそ、解釈だって一通りではない。

戦争についての話も挙がる。
塚本晋也の『野火』、平和と戦争、集団自衛権、憲法9条、、、

戦争は嫌、平和が良い。
そんなの当たり前だけど、世界では当たり前のように何かしら暴動は起きている。けど、目の前のことさえ見ようとしないで、自分の生活を守ろうとしているんだ。

「誰かを助けたいと思っているよね。」

皆、誰しもそうなんじゃないのか?
助けたり、守ることで、相手も自分も、今よりも変われるんじゃないのか?

それが押し付けがましくなったら、相手を辛くするんだよ、きっと。

私は、結局は自分のことしか考えられないから、助けたいなんてあんまり思っていないんだ。ましてや、彼女のように難民のために、とか平和のために、とか考えて生きていないんだよ。

戦いを他所のものだと思って、見ないようにしている。それだけ

それでも、認められることを望んでいる、やりたいと思うことをやる。数字や法則が何より苦手、だけどプログラミングやってるんだ。

イワーノフから自分のなかのいろんな感情が溢れでてくる。

言葉の渦。

トマトを潰す。

一旦、ここに思いついたことを記録しておく。

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