形而上学的アンパンマン


二十歳の時分に撮った写真を
ぼんやりと振り返っていると
もう、その時にどんなことを
考えていたのかがわからなくなっていた。

思考することを好み
泡沫のような欲情を拭い
目に見えないものに
時間を割いていたように思う。

漫画、スキップとローファーの八巻に
こんなやり取りが出てきた。

「考え事するときって
 言葉で考える?」

『まあ、そうだな。言葉。
 逆にお前は言葉じゃないなら
 どうやって考えてんの?』

「オレ?
 オレはそうだなー
 なんだろ
 砂みたいな……。」


モヤモヤ、キラキラ、ハラハラ
たまたま形容する言葉がある。

バイリンガルは何語で思考するか
なんて話がたまに出るが
そもそも言語は後付けでしかない。

感情の揺れ、その幅、質、色
それらを言葉をあまり知らない状態で
言語化している。

足りない語彙力で思考することに
果たして解はあるのか?
という言語での思考。

巣から落ちたひな鳥を見て
親鳥は悲しさを覚えない。

英語が一切わからない子供の時分
英語の歌詞は心地よさだけだった。

ああ、これが日常でシャッターを
切ってしまう理由かもしれない。

アートという言葉は嫌いだが
便宜上アートと言わせてもらうなら
アートは高度な言語であるという
説明はなるほど、となった。

感情→言語→感情の連鎖は
合理的ではないので
即物的な、速さのある、
所謂【くらった】を
まるで薬物のように求める。
これが芸術的教養なんて
胡散臭い言葉の正体ではないか。

言葉を排除した、
まるでアンパンマンのように
魂を少しちぎって
虚無に貼り付ける感じ。

二十歳の時分に撮った写真を
ぼんやりと振り返っていて
そこに言葉を求めることが
なんだかおじさんだなと。

撮った写真1枚1枚をすべて
説明できないと意味がない。
という思想がある業界がある。

photography(光画)は
光の時間的な定着にすぎないと
唯物論的にハメることもできる。

だがやはり、選ぶという行為がある。
なにに感動し写真にするか。
形而下であるはずの光が
形而上学的反芻を強いるのは
その時の人格のノリに由来する。

二十歳は自分から切り離された。
それこそアンパンマンみたいだ。


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