今日1日分のメモ

前にも書いたけど、俺がバーっと書いたメモが一番人気なので、必然なのか、偶然なのか、試してみよう。

今回も、今日書いたメモを清書して、ここに書いておく。

なんか面白いことがもしあったら、へーってただ読まないで、なんでもいいから書くんだよ。


価値や満足は、主観的で特殊文脈に依存する。それも、完全に依存する。
だから、同じ本だったとしても、人によって価値は違うし、さらに言えば、同じ人であっても時と場合によって、つまり、ある文脈の中でどの時点にいるかによっても、価値と満足が変わる。ドラッカーの言う、売り手と買い手の意識(何を購買しているかの意識)の乖離は、ここから生まれる。つまり、売り手には売り手の文脈と期待価値があり、一方で買い手には買い手の文脈とその時点でのタイミングがある。従って、本質的な購買、つまり、価値や満足の購買というのは、確実にズレる。なぜなら、主観的で特殊な文脈によって、価値や満足が決定され、さらにそれらは、常に変化しているからである。これを人に置き換えてみようか。例えば、自分が何をしたいのか、何が大事なのか、ということは、その人のその時点での文脈によって決定される。そして、それは常に変化するものである。では果たして、絶対的な価値などあるのだろうか。普遍を超越する価値は、あまりないように思う。これはまさに、希望と意思の議論であって、この議論は避けた方がいいな。つまり、希望によりすぎている。何を言っているかというと、他人に期待して失望する、という繰り返しに終始して、生産性のない話になる。いやまさに、哲学っていうのはこうして、自分の具体的な生や行動や思考を優れた抽象に統治せることだよな。いやまあそれはいいとして。

大学の数と質の変容と、その結果としてもたらされた人材の質の低下(傑物の減少と、何をすればいいのかわからないという人間の増加)について、言いたいことをまとめて、そのために必要なデータをリストアップして、実際に調べてまとめてエグゼクティブに送って、人材育成の方法を考える。

主張の骨子
大学の定員数の増加によって、基準が客観的なものになり、自分主体の生産性の高い人間が減ると同時に、自分主体にものを考えられる人間が減った。

必要な根拠
大学の定員数の増加した。
・どこの大学か?
・どこからどこまでの比較か?
・海外との比較をするか?

基準の変化
・入試問題が、主観的な考えを表明するものから、客観的なものを答える形になった。

自分主体の生産性の高い人間が減った。

自分主体に行動できる人材が減った。

その割合が悪くなっていることを言って、それを上げるためには、組織として、拡大してはいけないことと、主観性を追求した基準を設けることを提唱する。

否定したいこと
拡大すること。客観的な基準を中心に設けること

骨子
問題提起は、自分主体で生産的な人がいなくなったこと(山口周さんの仕事ができるとはどういうことか、とか、俺の体感で何したいのかわからない人ばっかだなって思う)
原因としての二つの仮説(客観性・拡大)

京都にしよう(一番好きだし、因縁もあるから)
仮説の検証
主観的で、拡大しない、という、解決方針の提示

京大の最初の入試問題をみたい

そして、何事も最初から華々しく進むわけではない。いや最初の段階でイメージが広がるのは華々しいんだが、実行しようと思ったら小さいことから始まる。

組織とかリーダーとかすごい気持ち悪くて、特に、人から与えられたものの場合。組織に人が入るわけではなくて、人が集まったものを組織と呼んでいるだけ。だから、組織ありきで『〜事業リーダー』とか言われても、すごく困る。いやお金は欲しいから、役職をつけてもらえるのはいいんですが。だから、人から何を言われるかは別に気にせず、変わらずでいい。と思ってたのだが、もしかしたら人をマネジメントしたりやる気を出させたりって面白いかもだから、やってみるだけやってみよう。エグゼクティブって何するんだっけ?というか、リーダーって何するんだっけ?この答えはさっきからずっと頭の中に鳴り響いてて、戦略を決めること。戦略を個人の責任で決めて、方法の部分は人に任せること。戦略を決めて、その実行のモーメンタムが出るように日頃からコミュニケーションして、相手を気にかけてることを伝えること。今のところ、いろんなことをするっていうのが戦略。その中から絞る。コミュニケーションのために、その人の文脈、つまり、これまでに何をしてきたのか、ということや、それについてどうしてそう思ったのか、ということや、今大事なことは何か?など。で、友達を見てて思ったけど、どうして?って疑問視を多用するのはいいな。自分の感想言うとかよりも、どうして?って聞く。さすが代表だけあるなと思った。

何がしたいのか、というのがわかるようになる過程には、一定の型があるのではないか?例えば、自分の中で心に残った出来事は?自分に影響を与えたと思うことは?これもっと思い出になってていいんじゃねってことは?俺のとっかかりは文化祭かなあ。あとは、すぐこれやりたいって思うこと。

俺が俺のメモを分析するのキモいな。自分の糞を食べてるうさぎみたい。ぐえ。

ものを売る、という視点で考えた時に、購買される満足は売る側と買う側で違うわけだが、当然の如く、重要なのは買う側の文脈である。なぜならば、買う側には、買わないという自由があり、最終的な価値判断の軸を、ものを売ること、としているからである。

相手の満足を変えるのか、自分が相手の満足に合わせるのか、という二つの方向性がある。おそらく、リーダーシップ論で言えば、相手の満足を指定しつつ、相手にも一定の裁量を与えることで相手の満足によりそう、という形になる。んー、でもなんか釈然としないな。ピカッとすり抜けた感じがしない。

いやまあ正直なところ、こんなに胃に穴あきそうだなと思うのは、久々。ストレスきてるなあ、と思うのも久々。俺は受験落ちたのにやつは第一志望受かってこのまま一緒に生きていくのは無理なんじゃねと思ってた時以来かもしれない。トフルも嫌だったが、ここまでではなかった。というかこの、こうなんじゃね?って仮説が何度も否定されて何度もお腹痛くなるのが久々。つまり、不安なのはこういう理由なんじゃないか?と思って、その度に気持ちが一瞬楽にはなるのだが、でもその後にまたすぐ辛さがきて、あれーおかしいなさっき解決したはずなのにな、というのを何度も何度も繰り返して、原因がモヤモヤし続けるっていうのが久々。まじでなんだこれ。いや多分、ここを乗り越えたらなんか新しい真理に辿り着く。そこまでの辛抱というか、最悪の場合辿り着けないことってあるのかなこれ。意思と希望と愛の話は結構あるなという気はするが、そう簡単な話でもないような気がする。プロダクトインと、マーケットアウトで、はっきり勝敗を作ってたが、その辺が怪しいように感じる。まあこれも一つの仮説に過ぎないのかもしれないが。まただ今回は、相談できる大人がいるのがありがたいかもしれない。

なんというか、なんとなく胃に穴が開きそうなのにそのストレスの原因がなんだかよくわからなくて、これじゃね?と思って解決するもすぐにまたお腹痛くなるという時期に入った。まあこういう時に助けてくれるのは、良書を読み込むことなんだよな。嫌われる勇気には随分お世話になった。続編はあんま面白くなかったけど。

売る側から見た時の買う側の不合理を、買う側がどうして合理的だとしているのか、そこにこそ勝機がある。あーなんかこれはいいね。だって、なんでそんなことすんの?っていうのを見極められたら、理解できたら、そこにチャンスが生まれる、ってことでしょ?あーそれは確かにな。合理性の落差というか、文脈依存するが故のその差を知る方法ではある。ふーむ。これをマーケティングと呼ぶドラッカーも、なんというか。これは俺の区分だとビジネスなんだけどな。ビジネスとマーケティングを直感的な善と悪で分けてる俺もそれはそれでどうなのか、という。

利益、または業界内部でのリーダーシップは差別化から生まれ、差別化は知識から生まれる。この知識の定義が結構むずい。

自社の知識を把握するための知識分析の最善の方法は、自分が成功してきたものと失敗してきたものを調べることである。そしてそれは、特に、自社と同じようなマネジメントが行われ、同じような能力を持つ競争相手が、自社と逆の経験をしている場合によくわかる。したがって、『他社はうまくできなかったが、自社はさしたる苦労もなしによくできたものは何か』を問わなければならない。そして、『他者がさしたる苦労もなくよくできたが、我が社がうまくできなかったことは何か』を問わなければならない。最後に、上顧客に対して、『他者には提供できないどんな価値を提供できているのか』を問わねばならない。それが必ずしも真実を指しているかはわからないが、少なくともなんらかの示唆を得ることはできる。これはもうなんていうか、モロ人間の自己分析に当てはまる。やっぱり、企業っていうのは、組織っていうのは、経済っていうのは、社会っていうのは、どうしたって本質的には人間的だよな。

味のあるものを食べたくなるのは、俺が苦しんでる時。それはトレードオフというか、切ってもきれない関係になるのでは。

俺が普通にコミュニケーションしようと思うと、長すぎるのかもしれない。どうなんだろう?もっとスタンプとかで手軽に返事すればいいのかな。

人間というのは常に、あまりに当たり前で、他の人間にも当たり前にできるだろうと思うようなことで優れている。逆に、本人が得意と思っていることは大したもんではない。

自分に特有の知識とはなんなのか、これは、最初は的外れな答えがでてくる。優しさ、とか、面白さ、とか、論理性、とか、そんなんじゃどうにも行動できねえ、ただのスローガンじゃねえか、みたいなもんしか出てこない。しかし、何度も繰り返しやってるうちに、だんだん明確化されて、そしてわかってくる。そして、これ以上に大事な問いはない。知識は減しやすい。したがって、常に確認し、最強化し続けなくてはならない。しかし、そもそも自分にとっての知識がなんなのかわからずして、どうやって強化することができるというのか。これはまさに、意を得たり、という感じ。アジャイル自己分析の必要性を感じる。そして、あらゆる知識が陳腐化、または間違った知識になる。従って、常に、他にどのような知識が必要なのか、を問わないといけない。しかし、ただ一つの領域で単に優れていることさえも難しい。多くの領域で卓越することはできないが、企業が成功するには、極めて多くの領域において並以上でなければならず、そして多くの領域で優れていなければならず、そして一つの領域で卓越していなければならない。複数の領域で同時に卓越することは不可能である。

ある人間にできたことは、他の人間にも必ずできる。そしてこれは、卓越性について顕著である。従って、卓越性は、一過性のものに過ぎない。

まるっとうまく解決できる作っていうのは、なんでないんだろうか?いやないことはない。あるはあるよ。しかし、それは、、マッキンゼーの人たちが考えるレベルであって、いろんなことを同時に解決できるっていうのはあんまりない。なんでなんだろう?シンプルに、一つの要素が絡まったら、複雑性は他の要素の分だけ増えるから、か?

方法論として、いっぱい展開して削っていくって方法と(これはまさに自己分析。つまり、事前合理性と事後合理性の乖離が激しいものはこの手の方法が効く)、仮説で絞ってそこだけにフィーチャーするって方法がある(いやでもこれも、事前合理性と事後合理性の差が結構あるな。それをかなり意図的に狙ってサボろうっていうのがこれか)。つまり、この2つはかかる労力は違うけど、目指すところは同じ。いっぱい展開して狭めていこうっていう方法と、これがいいんじゃねって決め打ちして試してみる方法とあって、これはどっちがいいんだろうな?若いうちは色々試せとかいうが、色々試すにしたって時間は限られてるわけで、だったら仮説思考的に試したほうがいいのか?何を言っているかというと、自分が何をやりたいのか、ということを探す時に、とにかく手当たり次第にやってみるのか、これがいいんじゃねと思ってやってみるのか、ということ。までも、ドラッカーが言うように、自分の知識がなんであるかを知らずして、それを強化することはできない。いやだからその知識の発見をどうするのかっていう問題だから。ていうかこれは結局のところ同じことで、これがいいんじゃね?って思うからやるだろ。これ今まで興味なかったけど、だからこそもしかしたら面白いかも?みたいに、結局のところはこれが有用なんじゃないかって思いがあるから実行してみるわけであって、そうじゃなくて、とにかくサイトの上から順にどんどんやっていこう!みたいなのは、うーん、先輩が言ってたみたいになりそう。つまり、企業説明会に100社行ったけど半分以上内容忘れた、ってやつ。つまり、これじゃね?っていう仮説が一切ない状態で突っ込むと、痛い目にあう。一方で、その仮説の確度というか、論拠っていうのは大したことないものでいい。

っていうか俺って、最初は二項対立で考えてるのに、だんだんそれらが結局同じじゃね?っていう話になっていく。つまり、二項対立のアウフヘーベンか。ああじゃあいいわ。1or1じゃなくて、1+1してるってことね。まあそれならいい。

結局なんでプレゼンするの?ってところが謎。そこに対して意味が与えられなかったし、そこに対して自分でこうしたいっていうのを表明することもできなかった。その辺りはなんていうか、そういう点がないっていうことを気づかないっていうこともあるのかもしれない。

見やすくないし、簡潔でもなくて、なんでだろうと思ってたら、背景を知って欲しいから、なるべく情報を伝えよう、っていう話なんだな。なるほど。名刺の裏に書ききれないアイデアは大したアイデアではない、っていうのがある。だからね、情報を多くすればするほど、混乱すると思うよ。

これマネジメントミスじゃね?マネジメントの配置ミスじゃね?つまり、目的を語らないで、手段をしっかりする人がトップになり、したがって手段については議論するが、目的は何?みたいなところ、もしくは、目的達成のための思考の浅さみたいなところで結局苦しむっていう。確かに。で、めんどくさいから任せようと思ってると、ミーティングで時間取られたり(これは放って置いてる俺が悪い)、いろんな非効率な仕事が回ってきたり、めんどくさいことになる。いずれも俺が悪い。いやー、気づけてよかった。要は、プラクティカルなことはできる(アジェンダ作成とか、議事録フォーマット作りとか、日程調節フォーマット作りとか)のだが、それ以上に、何を話せばいいのかとか、目的に対してどういう手段が最適なのかとか、そもそも目的はなんなのか、とかを、全然考慮しないでプラクティカルなところに突っ込むから(プラクティカルなことができるのは非常に重要なこと)、わけわからなくなる。多分、目的思考を植え付けられて化けるんだろうな。

てか、多い。項目が多い。思ったことを全部入れようとしている。これ何?情報が多ければ多いほどいい、というのは、違うぞ。課題の検証に対しても、とにかく情報量で押そうとしてるのか、ああなるほどなあ。だから、ネットで拾った統計的な情報とかまで入れてくるのか。ああなるほどなあ。しかも並列で。ああなるほどねえ。それはやばいと思うぞ。具体を出して、それの実証として抽象的な(マクロな)情報を出してくるのはいいと思うのだが、そう言う関係性(構成)がない状態で色々な情報を並列に並べるのはやばい。聞いてる側も作ってる側も意味がわからなくなる。


結局話したいこと話せてないなあ。俺は全然説得力はない。話したいことがまとまってないし、これは並列で複数のことを言うから、最終的に言いたいツリーの一番上の部分が言えなくなる。俺の中で繋がりはあったものの、それは他人からはわかりにくいものだったと思う。反省。

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