ロシアの魂を描く ミハルコフとコンチャロフスキー            対照的なふたりの兄弟監督

 ここ百年の映画を通してロシア社会を理解しようと試みる時、分かりやすい手がかりを与えてくれるのは『戦艦ポチョムキン』のエイゼンシュテインでもなければ『惑星ソラリス』のタルコフスキーでもない。ソ連国歌の作詞家を父に、社会主義国の特権階級で育った俳優で監督のニキータ・ミハルコフである。麗しい文芸作品から庶民的なメロドラマ、戦争大作に社会派群像劇、外国ロケのロマンス……どれも国際水準の秀作であり、日本にもファンは多い。その彼がプーチンの特別軍事作戦を熱烈に支持し、ウクライナから犯罪人と名指されている。ロシア国内でもいち早く反戦を表明し、その後沈黙を強いられ亡命を余儀なくされた映画人が多い中、兄弟国への侵略戦争を正当化できる思考回路は、西側目線では測り難い。井の中の蛙の御用監督ならいざ知らず、ヴェネツィアで、カンヌで、賞賛されてきた巨匠なのだ。しかし過去の監督作やプロデュース作を俯瞰すると、隘路にはまった愛国心の行方が浮かんでくる。それは強大な権力の側にいる心地よさといった単純な話ではない。

 そのキャリアは学生だった1963年ゲオルギー・ダネリヤ監督の『モスクワを歩く』に出演し、たちまち人気俳優となったところから始まる。劇中で披露した主題歌も大ヒット、以降の出演作を挙げるだけでもロシア映画小史が書けるほどだ。しかし彼は八歳年上の兄コンチャロフスキーの監督作品など数本の話題作に出演しながら自身も監督を目指して映画大学で学び、1974年に洗練された西部劇スタイルの『光と影のバラード』でデビューした。続く『愛の奴隷』1976年で無声映画時代の撮影スタジオの華やかさと革命に揺れる社会をドラマチックにテンポよく描き、国際的な人気を得る。それからミハルコフは一貫してハリウッドに比肩する映画を作り続けてきた。チェーホフやゴンチャロフの世界をスクリーンに映しても、その演出は明晰で、観客が解釈に迷うことも、共感を拒まれることもない。時にあざといほどの勧善懲悪、光とヴェールに包まれる美女、窮地を脱する主人公、爽快などんでん返し。いつも世界の中心を意識して、物語のヘソを明示する。そんな作劇の典型が、革命前のロシアを絢爛豪華な絵巻物に仕立てた『シベリアの理髪師』1998年である。神に祝福された大地、皇帝の統治する華麗な文化国家ロシアのイメージを前面に押し出し、質素ながら可能性に満ちた開拓地シベリアを讃える物語。モダンで裕福な異国から訪れたヒロインが、直情ロマンチストの皇軍士官を相手に恋と冒険を繰り広げるお伽話は、ソ連邦崩壊後の困窮と社会正義の喪失という物心両面の底辺で喘いでいた新生ロシアの庶民を熱狂させ、1年以上のロングランを記録した。

 時流を読むことに長けたミハルコフは、70年代の停滞の空気を『機械じかけのピアノのための未完成の戯曲』1977年や『オブローモフの生涯より』1979年で貴族社会の無為や閉塞に置き換えて、優雅な物憂い世界を仕立ててみせた。これらの文芸作品はその美しさと人物造形の巧みさから国内外で称賛され、ミハルコフはソ連を代表する映画監督の一人となる。その後ペレストロイカの風が吹き始めると、マルチェロ・マストロヤンニを主人公に『黒い瞳』1987年を作って国際的なヒットを放ち、ソ連邦崩壊により国営の映画予算が消えた時にはフランスから資金を得てモンゴルの草原に赴き、失われゆく遊牧民の暮らしを情感たっぷりに描いた『ウルガ』1991年を撮影、エコロジーブームの欧米から喝采を浴びた。グラスノスチ(情報公開)が盛り上がった頃には、歴史検証の波に乗って『太陽に灼かれて』1994年でスターリニズムの影を描き、大粛清の愚かしさを祖国の悲劇として斬ってみせることでカンヌ映画祭グランプリ、米アカデミー賞に輝いた。そして冷戦に敗れ、社会秩序も日常生活も破綻して、傷つき疲れていた自国の観客のために『シベリアの理髪師』を製作したのである。この代表作で、ミハルコフは監督だけでなく皇帝アレクサンドル三世を演じて〈国父〉の自己像を強烈に印象づけている。

 そんなミハルコフが新興資本主義国となったロシアをどう描いているかは、アメリカ裁判劇の名作『12人の怒れる男』を現代ロシアに置き換えた2007年の『12』(原題)に見てとれる。声高に正義を語り、罪人への厳罰を求める訴えが、いつしか自分語りに転じて果ては世相もあらわになる本歌取りの構成はみごとで、21世紀にドストエフスキーを召喚したかのような熱くて重い男たちの会話劇にヴェネツィアは銀獅子賞を贈り、東京では黒澤明賞が授与された。しかしこのミハルコフ版『12』で注目すべきは、養父殺しの嫌疑で裁かれるのがチェチェンの戦災孤児である点だ。少年の回想シーンとして登場するエキゾチックな辺地は魅力的ではあるものの見るからに貧しく、そこでの戦闘はあたかも天災か内紛のように扱われている。戦争で家族も故郷も失った少年が、現地に駐留していたロシアの軍人に保護され、モスクワで新しい住まいと明るい未来を与えられる。その恩義ある父を殺すとは、なんたる罰当たりと非スラブの少年を罵る男たち。言葉の端々に透けて見えるのは、ロシアは宗主国としてテロや内戦から哀れな周辺国民を保護しているのに、恩知らずな野蛮人の暴力で高潔な軍人が命を落とすことがままあるという被害妄想じみた憤りだ。そしてここでもミハルコフは12人目の陪審員を演じて神の視点で事件の真相を暴き、超法規的な解決法まで示してみせる。聡明で寛大な国父として物語の最上段に君臨する映画監督、この権力は当然スクリーンの外まで滲み出している。

 グラスノスチ、ペレストロイカといった言葉が世界に前向きな風を巻き起こしていた1994年には『太陽に灼かれて』でスターリニズムに眉を顰めてみせたミハルコフだが、プーチン賛美のドキュメンタリーを製作した後の2010年に続編『戦火のナージャ』を撮って、父娘共演で大祖国戦争における兵士と市民の献身と犠牲を気高い美徳と持ち上げながら、当時の指導部の罪業を曖昧にし、スターリン批判から後退した。さらにその続編『遥かなる勝利へ』2011年では徒手空拳で奇跡の戦勝をあげる将軍を演じて戦記から逸脱し、勇猛果敢で爽快な戦意高揚エンターテイメントを作り上げた。そんな軍装ファンタジーの到達点が、本国でも日本でも配信流行りの時代に若者が劇場に押し寄せる異例の大ヒットとなった『T−34 レジェンド・オブ・ウォー』2019年である。東部戦線を舞台にしながらも、従来の再現ドキュメンタリー風の暗い戦争映画とは一線を画した明快な画面に、火薬と特殊効果を惜しみなく投下した新感覚のサバイバルゲームムービー。主人公が戦車一台で敵陣を突破し、美女と勝利を手にする戦闘娯楽大作を若いシドロフ監督に託して製作総指揮をとったミハルコフには、ロシアで量産される大祖国戦争神話化映画の中にあって新機軸を打ち出すことで、商業的な成功を収める狙いがあっただろう。さすが状況掌握に長けたロシア映画界のドンである。

 ソ連末期に繰り返し報道された空っぽの商品棚や行列の印象は根強く、ソ連といえば物不足、国民皆が貧しかったというイメージで語られがちだ。平等を旨とする共産主義のお題目もその思考を後押しする。もちろん赤い貴族と揶揄された党幹部の得る高待遇や、大小様々な賄賂は横行していたものの、庶民の生活がおしなべて地味で単調なものだったことは確かだが、そこにはアメリカンドリームならぬソビエトドリームが存在した。娯楽の少ないソ連で、たとえば本やレコードが評判になって売れ出すと、その発行部数は時に天文学的数字に達し、権利関係者に分配される利益は莫大で、流行作家ともなれば輸入品に囲まれて贅沢に暮らすことさえできたのである。ミハルコフの父親はソ連国歌の作詞家として知られる大御所、母親も有名な詩人であり、ソ連の文化人特権階級で何不自由なく育ったニキータは、映画大学在学中から最新鋭の外国製機材を取り寄せて使うなど、その出自と環境を最大限享受して人生を歩んできた。プーチン大統領とは別荘が隣り合うなど個人的に親しいという話もある。プーチンはしばしば皇帝と称されるが、しょせん任期の限られる政治権力者よりも皇帝の名に相応しいのはニキータ・ミハルコフかも知れない。

 そんなミハルコフが生まれたのは1945年秋、戦勝国ソ連で復興と成長の空気を胸いっぱいに吸って育った。戦争を知らないニキータと違い、八歳年上の兄アンドレイ・ミハルコフ=コンチャロフスキーには、幼いながらも戦中の生活苦や恐怖の記憶が刻まれていることだろう。ちなみにコンチャロフスキーというのは音楽の名門一族である母方の名字で、アンドレイ自身も初めは音楽家を目指していたが、学業の傍ら書いた脚本が認められて映画大学で学ぶことになった。在学中から短編映画でヴェネツィアの賞を取り、同門のタルコフスキーと組んで脚本を書いた『ローラーとバイオリン』1960年がニューヨーク学生映画祭でグランプリを受賞するなど若くして国際的な名声と注目を集める身となる。卒業後もタルコフスキーと共同で脚本を執筆した『僕の村は戦場だった』1962年がヴェネツィアで金獅子賞に輝き、同映画祭には自身の長編第一作『最初の教師』1965年(これは黒澤明の強い影響を受けている)も出品されるなど順風満帆かと思われたキャリアは、あろうことか二作目で躓いてしまう。コルホーズを舞台に収穫の喜びや共同作業の祝祭感を盛り込んだ生命賛歌の農村映画『愛していたが結婚しなかったアーシャ』1966年が、未婚で出産するヒロインを肯定的に描いたために上映禁止となり、同時期に脚本協力したタルコフスキーの歴史大作『アンドレイ・ルブリョフ』1967年も当局からの度重なる修正要求によって公開が年単位で遅れるなど、検閲制度に苦しめられたのだ。

 その後はツルゲーネフ原作『貴族の巣』1969年とチェーホフの戯曲『ワーニャ伯父さん』1971年を見事な映像作品に仕上げて国内外での評価を固めた上で、超大作『シベリアーダ』1978年に挑み、カンヌで審査員特別グランプリの栄誉を勝ち取る。ちなみに弟ミハルコフは俳優として、この兄のシベリア物の中で重要な役を演じている。自身がシベリアの名を冠した映画を製作するのは20年後のことである。

 コンチャロフスキーが表立って政権批判をしたことはない。しかし自由な発想を許さず型に嵌った表現を求めるソ連の文化政策に息苦しさを感じていた彼は、1980年にソ連国籍のままハリウッドへ移住する。ナスターシャ・キンスキーをヒロインに迎えた『マリアの恋人』1984年や、黒澤明原案の『暴走機関車』1985年など当地での活躍も目ざましいが、ハリウッド時代のコンチャロフスキーの功績の一つは、ソ連邦崩壊時に米国スタッフを引き連れて赤の広場に乗り込み、スターリンの側近の眼を通して個人崇拝が極まった社会を活写する『映写技師は見ていた』1991年を撮ったことだろう。同じ頃、弟ミハルコフは混乱する祖国を離れ、中央アジアの大草原で馬と遊牧民を追っていたのだ。

 コンチャロフスキーがハリウッドに渡ったように、盟友タルコフスキーもイタリアに招かれて『ノスタルジア』を撮り始める。ソ連当局からの過度の干渉や抑制に恨みの募っていたタルコフスキーは、芸術の国イタリアで表現の自由を満喫し、帰国をためらうようになるのだが、ソ連の政情をリアルタイムで把握していたコンチャロフスキーは、検閲が有名無実化して母国でも自由に映画が作れること、また自分のように合法的に移住して外国で映画製作を続けることも可能だからと、ソ連国籍を捨てないよう説得した。もちろんそこには西側の実情に触れた者として、どこにもユートピアはないという苦く切実な思いもあったに違いない。しかし激情型のタルコフスキーは聞き入れず、亡命を宣言して流浪の身となることを選んでしまった。そんな兄の友人のことをミハルコフは暗い人間だと言って嫌っている。実はアンドレイ・タルコフスキーの父親も有名な詩人で、成績が振るわない不良だった若きアンドレイが映画大学に入れたのは父の尽力もあったと噂されているが、その父親が他所に家庭を持ったために女手一つで育てられたタルコフスキーは、特権階級の贅沢どころか極貧の少年時代を送った。ミハルコフとは気が合わなかったことだろう。

 タルコフスキーはパリで客死し、急激に進んだ情報公開から政権の不安定化、体制崩壊へと至ったロシアは、極度の治安悪化や貧富の格差といった混乱期を経て、明日の民主主義より今日のパン、強い指導者による安定を求める空気に包まれるようになり、プーチンでは生ぬるいと、スターリンを崇める極右の一派まで蠢く社会になった。もとよりゴルバチョフの国内人気は最低である。国際的な評判や好感とは裏腹に、大国だったソ連を解体し、国民を恥と貧困の暮らしに陥れた冷戦敗退の将というのが大方の評価なのだ。ソ連時代を懐かしむ層はある程度存在するが、その思いが現在の政権協力野党であるロシア共産党への支持につながる訳でもない。とは言うものの、ふつうに働いていれば生活や老後の不安はなかった、治安もよかったという日常の印象から、アメリカに負けない大国だったという誇りまで、思想や年齢によって抱く思いは様々だが、社会は労働者と農民によって支えられているのであり、国は資本家のものではない、という大原則の理念は多くのロシア人が今でも薄っすらと共有している。壮大な社会実験と経済政策は失敗に終わったとはいえ、そこには確かに美しい理想があったし、有給休暇についての規定と運用など、日本よりはるかに優れた現行制度には、社会主義を経た国の長所が残存する。もちろんソ連時代を貧困と暗愚の黒歴史に過ぎないと蔑む新興層は威勢よく、声も大きいのだが、過去の評価や好嫌悪を、成金や亡命者ばかりから聞き取ると、対象国の姿を見誤るのは確かだ。

 80歳を過ぎた巨匠が2020年に『親愛なる同志たちへ』と題してソ連時代の夏の数日を、往時の映画を思わせる画角のモノクロームで撮影したのは、もちろん単なる回顧趣味でもなければ、ペレストロイカまで隠蔽されていた歴史の暗部を暴くといった単純な社会正義のためでもない。1962年のノボチェルカッスク事件の犠牲者は、ソ連邦崩壊前後に明らかにされてから今日まで公的な追悼対象であり、再び闇に葬られようとしている訳ではないのだ。とはいえ、大国だったソ連を懐かしむ気運の中、独ソ戦の英雄譚が国策映画として量産される業界で、あえて国家が自国民にふるった残虐な暴力事件を取り上げるのは、反戦のプラカードを掲げるのとはまた異なる勇気を要する行為だ。若き日に心血を注いで作り上げた劇映画が公開禁止の憂き目に遭い、ハリウッドに住んで資本主義の限界を考え始めた老巨匠には、恐れるものなどないのかもしれないが。

 『親愛なる同志たちへ』はソ連国歌で幕を開ける。もちろんこれは今さらのプロパガンダではなく、当時の世相、日々のラジオから流れる習慣の音環境だ。そんな風に60年代はじめの地方都市の生活を再現しながら、街角で不満の声を拾い、ヒロインの受ける特別待遇から社会の裏表を見せる導入部の小気味よさ。巻き込まれてゆく事件の展開は、観客を目撃者どころか当事者として立ち会わせる迫力に満ちている。中央政府の失策による食糧難と物価高騰に加え、突然給与カットを伝えられて、ストライキを宣言して集まった労働者たちの表情も、初めから憤怒一色ではない。話せばわかる、ソ連は労働者の国だから、そんな素朴な信頼が根底にあるのだ。しかし党幹部は無策無能で、社会主義国で労働者のストなど起こるはずがない、あってはならないと言い出す。生活苦の訴えや統治形態への異議申し立てなど、市民による正当な抗議活動が時に熱を帯び、暴発するのも世界中いたる処で繰り返されてきた自然発生的な逸脱行為だし、民衆の不満に向き合うことなく、銃を構えて黙らせようとする権威主義国家の怠慢と人権無視もまた、胸痛む見慣れた光景である。凡百の作家であれば、抗議する労働者に寄り添って物語を組み立てるところだが、コンチャロフスキーは、興奮して投石する群衆と銃を構える軍隊の間で右往左往する地方行政機関の幹部を主人公にカメラを据える。共産党員としての誇りを胸に、日常的に特権を享受し、時に居丈高に振る舞いながらも、最悪の展開を想像できない、信じたくない良心を宿すヒロインの目線に導かれて垣間見る、おぞましい虐殺事件とその隠蔽。声を上げ、石を投げるしかない怒れる群衆に、謝罪の言葉や展望を伝えることなく銃弾を撃ち込み、威嚇でもって見せかけの秩序と平穏を取り戻す権力者たち。常々喧伝される外国の侵略者ではなく、国を護るはずの軍隊が丸腰の民衆に向かって放った弾丸が、広場に消えない血溜りをつくる。ここ眼の前にある絶望と、未来はきっと良くなると聞かされて、信じて頑張ってきた半生の間で揺れ動くヒロインの喜怒哀楽に絡みつくのは、埃と泥と、ポプラの綿毛。夏至を過ぎたばかりの眩しい光が充溢するモノクロームの画面に、生死を分かつ偶然や、意志や記憶の不確かさが刻々と流れて行く。そこには虚飾も、甘ったるい感傷も、大上段に構えた説諭もない。右往左往するのは皆さまざまな事情を背負った生きた人間だ。

 半世紀以上前の事件とはいえ、治安機関が非武装の自国の市民を虐殺し、箝口令を敷いて犠牲者の遺体を運び去り、洗い流しても消えないからと血痕をアスファルトで覆い隠した顛末を生々しく映像化するのは、国家権力に対する根本的な不信の表明であり、国民の団結や愛国の物語が求められる時代の風潮に逆らうものだ。ピアニストを目指したほどの音楽の才能と、気分転換に書いた脚本が賞を取るほどの文才に恵まれながら、硬直した文化行政に押し潰されかけたコンチャロフスキーの人生と、そんな兄の受難を見て、身の処し方を学んでから世に出たミハルコフの権力志向と自国美化。映画大国ロシアで最も有名なふたりの兄弟は、それぞれの道を辿って対極の思想を示して現在に至る。


注: ソビエトドリームなる言葉は存在しません。筆者の造語です。

 

 

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