死の距離。

友人が7月1日に逝去したことを、二時間前に知った。出張先のパリで心不全で急逝、39歳だった。

信じられないから、何度もヤフーニュースを見た。色々ニュースを見て、本当なんだと言い聞かせる。二年半前に知り合って、二年前の結婚式に参列してくれて、なぜか目置いてくれ、食事へ行ったり私が仕事手伝ったり、長女出産には病院にすぐに会いに来てくれた。その後、子育てで直接会ってなかったけれど、IT時代Facebookやニュースで活躍を見てたし、元気そうだったところの突然の訃報。

確かに暴飲暴食に加え多忙を極めた上、ストレスも相当なモノだった。あれくらいのレベルだと死に至るのかと私の中で死の距離を測る「ものさし」が出来てしまった。

やっぱり、リアリティが無い。頭に浮かぶのは彼の笑顔だらけ。と、気付くと隣の夫が青ざめていた。夫は彼に数回会ったことがあるけれど、非常にこの死を現実として受け止めていた。「俺、やっぱり毎朝運動することにするわ!」「私達の世代でも訃報を耳にする年齢になってしまったんだな」と、37歳の夫は呟いた。

知り合いレベルの人が亡くなると、あっさりその情報を受け入れることが出来る場合がある。何かその人の席があったりすると、ぽっかりその人の穴が開いて死を実感する場合もある。案外、近しくてもその人がいない時間も生活しているので、リアリティを持てないことがある。私の父が急逝したのも、あまりにも急なことで実は今でも実感がない。もう15年も前のことだけれど。

私は彼の無謀な暴飲暴食を知ってたし、過度のストレスも近くで見ていたから、そこまでしたら死に至るが、私達は同じ条件ではないというので、死の距離が近づいたり遠ざかったりして、今なお信じられないのが現状。なんとか、書くことで心の整理をしようとしている。

彼は夢を描いて達成する力が半端なかった。高級タワーマンションの最上階に居を構え、自分にプレッシャーを掛けて頑張るんだと言っていた言葉が響く。まさかこんなあっさり死に至るなんて、想像だにしなかった。

夫のフィンランド在住のひいおばあちゃん(92歳)が先日電話してきた。どうやら、いとこが亡くなったらしい。ひいおばあちゃんより年上ということで100歳近い。地味な生活を送っていたそうで、会社から数か月分給料取りに来てないから困ってると連絡が来ることもあった程、あまりお金に執着してなかったのだ。その話を聞いて、きっとお金が不要なくらい、他に何か充実した日々を送る要素があったのだろう、と思った。

リアリティを感じたのは、桜塚やっくんの交通事故死だったことを思い出した。私は同乗していた砂森マネージャーに面識があった。ピンクパンサーなどのキャラクターライセンスを保有する会社の社長としてお名刺交換させて頂いたことがあり、その後会社倒産して地道に取り組んでいる最中の交通事故死。これはとてもリアリティを感じたんだった。どういうわけか。

また改めて、悔いのない人生とはと頭がぐるぐるする。39歳かもしれないし100歳かもしれない人生どのように生きるのがいいか。ただ一つ最近強く感じるのは、人生は短く好きなことを無理せずやるのが一番いいということ。無理はやっぱり良くないなー。

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