国語で評価「5」をとったのはクラスで3人だけなんですよ

中学生何年生だったか、家庭訪問でのこと。

主要五教科(国語、数学、理科、社会、英語)の5段階評価について話された。

数学のみ4、それ以外すべて5だった。

「国語で5をとってるのは、クラスで3人だけなんです」と先生は言った。

クラスメイトは35人ほどだったかな。
3人だけのクラスだった、とかじゃないよ。

なぜか今日、仕事中にふとその家庭訪問のことを思い出した。
仕事になると、自分で自分をまず評点をつけなければいけない。
客観的な評価も最終的につけられるが、自己評価と客観的評価に差異があれば
自分を客観視できない人、なんてことになる。

その差異がいかにうまれないようにするか、それを考えながら自己評価してるような気もする。
なんだこれ、めんどくさいな。自己評価っている?客観的に見れる人がつけてくれりゃ、それでいいよ、もう。それに従うからさ。あまりに理不尽な評価なら、直訴するけどね。

大人になると、褒められることは少なくなる。
じゃあ何をモチベーションに働くのか?
子どもは勉強することが仕事。テストでいい点とるため、親から褒められたいから。そんな前向きな気持ちで勉強頑張ってたか?

勉強しないと怒られるから、悪い点をとると怒られるから。そう、マイナスな方向にならないよう、せめてプラマイゼロを維持できるようにするため仕方なく勉強をしてきた。
もちろん、勉強が好きとか得意だからする、って人もいる。でもそうじゃない人は、怒られないため、という悪いことを回避するためってことが多いのでは。
私は昔から勉強が嫌いで、小二の時に国語のテストで20点とって遊びに行かしてもらえなかったことがある。まあ、反抗して遊びに行ってさらに怒られたことは言うまでもない。悪い子だなあ。

小学生は、怒られたくないから、ってのが多いだろうが、中高生は進学に影響するから、っていう理由がのほうが増える。
これも、結局悪い方向にいかないようにという考え方。できればいい方に向けばいいな、って感じ。
大学生なら単位をとるため、いい所に就職するため。

これは全て自分個人だけの問題である。
勉強しなきゃ頭の悪い高校に行ったり、低い給料で働かされる会社にしか就けなかったり。
しかし仕事になると、必ず相手がいる。
ちゃんとやらないと、相手が困る。上司が困る。

勉強はやらないと自分が困るが
仕事は他人が困る。

そう、私たちは自分の為じゃなくて他人のために働いてる節がある。
もちろん働くのは生きていくためという自分のためではあるが、それは賃金をもらえるというメリットがあるから。
仕事では、相手が困ろうが私は関係ないはず。でも仕事をするのは、お金が貰えるから。

勉強が仕事だった頃は、自分のことだけ考えてればよかったけど
社会人になればそうもいかないから、めんどくさい。

子どもの頃は勉強が嫌いだから早く大人になって働きたいと思い、大人になると働きたくないから子どもになりたい、と思う。
ないものねだりは永遠に終わらないね。