見出し画像

地価ってどうやって②

地租改正は、「地価を定め、その3%(後2.5%)を現金で納める」と教科書的には、表現されますが、その実態は高税率の税制でした。

では、どのようなプロセスで税額が決まるかというと…

■税額ありき

結論を簡単にいうと、税率(3%)は既定の上で、

 江戸時代の税額と同等(現金換算)を見込む→逆算して地価を決定

という、なんだかインチキくさいことをしています。

も少し詳しく言うと、

収穫量×米価(各地方の相場平均)を収穫代金とする。そこからその15%を種子・肥料代として控除し、さらに地租(地価の3%)、村入費(町村税・地価の1%)を差し引いて収益を出す。

この収益が地価に対して6%になると見なして、収益÷0.06=地価を算出する。

整理すると、収種代金をa, 地価をyとすると、
 y=( a-0.15a-0.04y)÷0.06=8.5a

という、計算式になり、結局収穫代金の8.5倍が地価ということになります。

収穫代金は単位面積あたりの収穫量を地域ごとに等級をつけて設定したものに、平均米価を掛けて算出したので、事前調査で予定された地租額に足りなければ等級設定の見直し(つまり見なし収穫量の引き上げ)が強制されたようです。

種子・肥料代も、「15%とみて」定率設定されたもので、さらに労賃は考慮されていません。

結局、「地価の 3%」は収穫代金の25.5%となり、それに村入費を含めると 34%にもなります。実際の対収入比率はもっと高くなるでしょう。

土地等級は村の調査申告よりも引き上げ、利益率を低く抑えると、地価が高く算出されます。それはイコール地租が高く弾き出される、ということ。

なんといういことでしょう!

これでは反対一揆が起きるわけです。

因みに現在の所得税で33%も課されるのは、所得900万からですよ。

所得税が創設されたのは明治20年で、年所得300円以上の個人が対象でした。所得税収が地租を上回るのは大正に入ってからです。

結局地租改正反対一揆によって「地価の2.5%」に引き下げられましたが、算定方式は変わりませんでした。

ただでさえ負担が大きいところへ、大蔵卿(後大蔵大臣)松方正義によるデフレ政策が追い打ちをかけました。

農産物価格は下落する、税額は固定なので、相対的に負担増…orz

結局小規模農家は小作化したり離農して都市労働者になるなどします。

何時の世も小農家はつらイなぁ。


なお、今回愛媛県生涯学習センターの、「データベース『えひめの記憶』」が大変参考になりました。『愛媛県史』がweb上で読め、地租改正策定経過が現場の状況と併せて詳しく分かりました。

わが兵庫県史や神戸市史はweb上で目次位しか見られません( ᵕ̩̩ㅅᵕ̩̩ )
こういうとこ、しっかりやって欲しいですね!



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?