ワクワク?ハラハラ?NFT

去年からNFTを始めて、楽しかった。
今は、よくわからない。

Wordpressでブログ書こうと思ったのに、書ける気がしない。

それは、自分の現状が変わったのもある。
NFTを取り巻く雰囲気が変わったのもある。

去年は、いちをの予算の中で(生命保険解約)、まだどうにかなるかもと甘い予測を立てていたw

だから、「お金より~」と思えた。お金のことを考えずに、皆でワイワイ出来て、本当に楽しかった。

けれど現実は、甘くなかった。

「お金がない」という状況は、けっこう精神的にきつい。
同時に、夫との関係でストレスフル。
離婚したい夫が鬱になるやら手を手術しないいけないやら、子どもは進学するやら、NFTについて考えたり楽しむ余裕がなくなってしまった。

だけど、やっぱりNFTには関わっていたい。
出会った人たちが大好きで、本当ならその関係を失いたくはない。

だけども、もう、モヤモヤしたままも嫌だ。
なので、わからないならわからないなりに、今の自分の考えをとにかく書いてみようと思う。(なので、細かな説明は省略)。

自分なりのNFTのやり方


NFTを始めた最初の入り口は「絵で稼げる??」だったけれど、実際に自分で買うとなったら、やはりイラストが好きなものを選んだ。

なので、好きなNFTを購入していたから「利確」は目的ではなかった。
けれど100%ガチホ出来るほど、資金的余裕はない。

だから、ALで数体ミント出来たものから、数体はETHに変えた。

投資自体初めてで、ETHを買うのもタイミングも難しかった(笑)
「NFTって投資なんだ」
ETHを買う時に、自覚した。

NFTガチホ論争


(ここでは、詳しくは書かないが)そんな中、「ガチホ」概念が出てきた。

そもそも「利確」が目的ではなかったので、その考えにそう違和感はなかった。
それで、フロア価格があがるのを見て、「すごい」とも思った。

自分は、LLACで世話猫もやっていたので(今はフリー)、「ガチホ=坐禅」もすんなり納得出来た。
むしろ、LLACに関わっていない人が、「意味がわからない」と言っているのをみて、「あ、そうなんだ」と興味深かった。

確かに、LLACというコミュニティは、少し他とは違っているのかもしれない。
「仏教」を、(以前から少し興味はあったが)このコミュニティで学び、考え、そういう過程を共有していた人同士にしか通じない価値観なのかもしれない。
そう思った。

違和感を覚えだしたのは、売った人が「さらされ」「責められる」風潮が出てきてからだ。

「裏切者」

そんな雰囲気にすこし息苦しさを感じた(とは言え、自分も場の雰囲気に同調してしまう傾向があるので、自分が嫌になる)。

NFTの価値とは?


NFTを学ぶようになって、ずっと考えていることだ。

今は「コミュニティ」という意見が多い。

それは、実感としてわかる。

「コミュニティへの参加権」
この側面が大きいように思う。

けれど、NFTは、なにも「プロジェクト」ありきの物だけではない。

NFTの可能性が、色々なものに利用され、そのこと自体にも、NFTの魅力を感じる。
そして、「そんなことも出来るのか」とワクワクする。

しかし、NFTには「価格」がつく。

そして、この「価格」が高いことが、プロジェクトの強さとして語られている。

一方で、NFTの価格は、現在とても「不安定」だ。
それは、NFT人口が少ないことにも起因するようだが、大量売りに大量買い。そういうことで、「価格」は簡単に上下する。
NFTの「投資的」側面が、自分にはとても難しい。


また、「応援文化」としての価値もある。

そもそも、2次流通でもクリエイターにもお金が入ることが画期的!というのが、去年の最初の頃のNFTの印象だった。

(しかし、これは、マーケット側のクリエイターフィー率の変更によって、現在は変わってきている。)

2次流通で応援!は、買って応援するという意味ではあるのだろうが、そもそも売ってなければ買えないわけで。
なので、「売って応援」も、自分は「あり」だと思う。

げんに、流動性が0だったけれど、売ることで流動性が出て、認知が広がり、フロアが上がったパターンも見てきた。

要は、「どういう気持ちで売るのか」に起因するのか?
そんなことも思ったが、正解はわからない。

※これは、プロジェクトと個人作品によってもまた違うのかもしれない。


NFTもまた「道具」ではないのか?


NFTと少し話題は逸れるが、去年から「ブログ副業」をそもそも始めようと思った。その中で、「お金は道具でしかない」という考えを知った。
「お金は、電気と一緒。道具でしかない。それに振り回されない、生き方」。

「生きる」ということは、以前から自分なりの考えがあったので、これにはとても納得した。

そして、最近、NFTもまた「道具」なのかもしれない。

そう、思った。

株のように、「ガチホ」でみんなで価値を高める。
一方で、必要になれば、売って「お金」に変える。
ときには、「参加権」になり、時には「応援」にもなる。

けれど、「売る」という行為は、「ガチホ」で作り上げた売り圧を上げることにもつながる。
だからこそ、「裏切者」という雰囲気になるのだろう。

けれども、持っているNFTを1個すら売ることも出来ないのか?


まだよくわからない


ずっと色々考えているけど、現実にはお金もないし(笑)

見る人によっては、ただの言い訳にすぎないのだろう。


とりあえず、ぐるぐる頭で考えても仕方がないので、今現在思っていることをアウトプット。

行動しないと、見えないものはある。

未来は未確定。

不安は大きい。

けれども、疑問を疑問として言えないのは、自分らしくない。

曲がったことは嫌い。

争うのも嫌い。

けれども、何も行動できずにいる自分が、もっと嫌い。


生きていく、ってほんとうにメンドクサイ(笑)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?