決断の奴隷

半年間の休学を決意した日から、毎日のように焦燥感に駆られている。何をするのが正解なんだろう、どうしたら充実させられるんだろう。

そんな中、「暇と退屈の倫理学」(國分功一郎著)と偶然出会った。いや、出会うべくして出会った、という気がしてならない。

そもそも、大学に入って2度目の休学を決意したのは、

1、自分の人生を生きると決めたから
2、「消費者」である自分の生活にストレスを感じ、心地良いと感じる暮らしを実践を通して見つけたいと思ったから

1については、「自分の人生の物語の主人公になる」という高校生の言葉にに衝撃をうけ、また、人生の師匠に「自分の人生を生きると決めるかどうか。ビビっているだけだよ」と背中を押されたからだった。

さらに、2つめについては、授業や本を通して社会の歪みを知っているにも関わらず、自分自身がその一因となってしまうことへの罪悪感があり、消費社会と自分との適切な距離感を探したいという思いからだった。

しかし、「暇と退屈の倫理学」を読み終えた今、私がなぜ休学をしようとしたのか、その理由はもっと別のところにあるのではないかと考えるようになった。

本書の中で、筆者はマルティン・ハイデッガーの退屈論を引用しつつ、ハイデッガーが達した結論を批判的に考察する。

ハイデッガーは、人々は「なんとなく退屈だ」という声に対し、奴隷のように働くことでその声を無視するか(退屈の第一形式)、もしくは退屈と絡みあった気晴らしをすることでやり過ごそうとするのだ(退屈の第二形式)、と分析し、さらに退屈こそが、人間が自由であることを意味し、決断することによってその自由を発揮せよと述べる。

これに対し筆者は、決断することは、奴隷のように働くこととほとんど同じだと批判する。決断することによって、ひたすらやると決めたことを実行していけば、「なんとなく退屈だ」という声から逃れることができるかもしれない。しかしそれは、決断の奴隷になっているだけで、甚大な自己喪失をともなっているのだと。

筆者によると、人間というのは、退屈と絡み合った気晴らしをすることでやり過ごそうとする「退屈の第二形式」をおおむね生きているのだという。そして、この退屈の第二形式は、投げやりな態度もあるが、同時に自分と向き合う態度もあり、考えることの契機となる何かを受け取れる余裕がある

人間は、動物と同じように、一人ひとりが違う「環世界」を生きている。考えるきっかけは、この環世界に「不法侵入」してきた何かしらの対象を受け取ることで生まれ、それによって人は新しい環世界を創造することができる。

労働や決断の奴隷になると、ものを考えることを強いる対象を受け取れなくなってしまうのだ。

さらに筆者は、退屈の第二形式と消費社会のつながりについて論を進める。消費社会は、気晴らしに向かう先にあったはずの物を、記号や観念にすり替え、気晴らしをすればするほど退屈が増すという構造をつくりだした。

しっかりと物を受け取り、物を楽しむためには訓練が必要だ。楽しむことを学び、思考の強制を体験することで、人はそれを受け取ることができるようになる。

筆者はこれこそが、「暇と退屈の倫理学」の結論であると述べた。(このnoteには到底書ききれなかったことが沢山あるので、詳しくは本文を読んでみてほしい。)

ここで、休学をした理由をもう一度振り返ってみる。

1、自分の人生を生きると決めたから
2、「消費者」である自分の生活にストレスを感じ、心地良いと感じる暮らしを実践を通して見つけたいと思ったから

いや、本当は、

「決断の奴隷」になって、「なんとなく退屈だ」という声から逃れるためだったのではないだろうか?

私にとって必要なことは、

考えることの契機となる何かを受け取れる余裕をもつこと

しっかりと物を受け取り、物を楽しむための訓練をすること

なのではないだろうか、と考えるようになった。

自分の人生の「主人公」になるために、また「消費者」である自分から抜け出すために、環境や立場を変えることもたしかに大切だ。しかし、それ以上に大切なことがあった。いや、むしろ環境や立場を変えようが、世界の認識の仕方を変えなければ、ただ決断の奴隷になるだけだ。

菅俊一さんの、「観察の練習」という本を思い出した。

さあ観察の練習をしよう。そして世界に溢れている面白さに気づいていこう。それさえできれば、きっと前よりも少しだけ、生きることが楽しくなるはずだ。(「観察の練習」P254より引用)

半年間、「観察の練習」をすることにした。何かを受けとる余裕がないと観察はできない。観察は、新しい環世界を創造し、物を物としてきちんと受け取り、楽しむことにつながる。

そしてそれは、「消費者」の態度とは明らかにかけ離れている。

それこそ、私が本当に必要としているものだったのだ。