2021/08/20

久々の日記更新ですね。
最近なんでやってなかったかというと単に続けるのが難しいというかめんどくさいってのも多いにあるのですが、それ以上に生活リズムが狂いに狂ってたからだと思います。
やっぱり長々とした日記を寝る前に書くもんじゃないですねー。活字を書きながら自分も読むもんだからなんか脳が冴えちゃって寝れなくなっちゃうんすよねぇ。
ってかなんで敬語で書き始めちゃったのかなぁ?
いままで通りの書き方に戻したいですね。
この現象って初対面の人と喋るときもよくありますよね。同級生なのに最初敬語で入っちゃうと、その後その人と関わる機会が多くなってきたとき、いつから敬語からタメ語に切り替えればいいか分からない現象。あるあるだわぁ。

特に仕事仲間はずっと敬語で喋りたいなとか思ったりしてたりするから今後社会にでたらタメ語で話すほうが珍しくなるんだろうか。
歳を取ったら振る舞いを変えていかなきゃいけないだなんて不思議な世の中だぜ。今自分が欲しいものは"普通"ってゆうのがなんとなく感じてる生きてる上でのテーマなんだけど、それはまた別の機会にしゃべるとしよう。
(あ、敬語治ったわ)

前回、前々回と書いてる内容がまとまらなかった気がするので、今回から日記にちゃんとタイトルをつけようと思う。
とはいえ、もうテーマに沿わない形でここまで書いちゃってるわけであるが、改めて。

〜自分自身がメディアだという自覚〜

これまた最近感じてることなのですが、この言葉は確か去年NewsPicksにハマってた時に聞いた言葉で、これからの時代は一人一人が自分=メディアであることを自覚すべきだという話である。
まだ何を言っているかピンと来ないと思うが、実際のところ自分でもうまく言葉にして解説できない。(いや、解説してくれよ。)

人間って存在は誰であっても膨大な情報量を持っている。その人が生きてきた全てが歴史としてその人を形成しているし、もっと言えば両親の歴史を遺伝子で受け継いでいるわけだから年齢以上の年月をかけた情報量を誰しも持っているわけである。それらの情報はかなり複雑であるため誰一人として同じものは存在せず、またその多様性こそが他人に対する面白さを生み出していると考えられる。自分と違うもの・知らない物事がそこにあるという事象に対する好奇心や知的探究心。またその人が持つ過去の出来事や生き様から生じる情緒的な面白さである。

なんかやたら難しい言葉を使って書いてしまったが、要は自分自身は(君たちは)もうすでにこの年月生きているだけで面白い存在なわけであって、それを共有しないのは勿体ない!!っということが言いたい。あなたが文字を書いているだけ、喋っているだけ、そこに存在するだけで面白いし価値があるんですよ!!

だから今思ってること、感じたことを伝えるべきだし、残すべき。発信するべきなのだ。

そうゆう理由もあって自分も日記を書いている節がある。
というかなんでこの話を急にしだしたかと言うと、自分の身の回りの人がそれに気づいている(もしかしたら無自覚?)のように思えるからだ。
(特に劇部の3年生あたり…。)
最近ではコロナ禍もあり、なかなか会って喋ることが少なくなってしまったが、自分は今こんなことをしてるよ!こうゆうことを考えてるよ!ってインターネットを通じて発信してくれているのが、見ていてたまらなく嬉しくなるし、ニコニコしながら見たり聴いたりしてしまう。

だから改めて自分という存在を1つのメディアとして、コンテンツとして見てみるのはどうだろうか。クヨクヨ自分のことで悩んでいるときは、この考え方が抜け出せる一つの鍵となるかもしれない。

よく「自分のこと、好き?」っていうのが議題としてあげられると思う。
自分の答えはノーである。いや、正確にいうと"ノーだった"なのだろう。
思春期(中学から大学1年生まで)は自分のことが大っ嫌いだった。
何も得意なものなんてないし、周りの人みたいな飛び抜けた個性や面白さもない。というか自分を曝け出しても何も面白くないんだからむしろ恥ずかしい…みたいな思いが大半だったと思う。

それは今でも変わらない。多分自分は面白くない人間だ。会話が詰まった時とか、面白い話の一つもできないし、特技やセンスなどは全くと言っていいほど持ち合わせていない。
ただ唯一長所として語るなら、努力の積み重ねによって今があることだろうか。自分にはストイックな努力を積み重ねれば夢に一歩近づけるといった事実がある。受験の時やや動画編集における能力は自分の過去からくるこの信念のおかげであろう。

ただそれ以外は何も持っていない。それどころか最近努力するのが少々めんどくさく感じている部分が多いのでもはや長所は消え失せているかもしれない。

でも今はそれでもいいのだ。別に何も持ってなかろうが、何もできなかろうが生きているのになんの苦も感じていない。むしろ出来ない自分を"かわいい"と思うようにしている。
「今日は大事な面接だったのに、寝坊しちゃった…。あーあ、なんで自分はドジで社会不適合なんだろう…。でも、そんな自分もカワイイ!」
みたいな。
ちと極端な例を書いてしまったので、いや、そうはならんやろ!って思われそうだが。ざっくり分かってもらえただろうか。
("かわいい"って言葉はほんと恐ろしくて、どんなにマイナスなことが起きてようがそれを自分のなかで正当化できるというか一種のフェチズムみたいな部分があるよね。)

また他人第一主義から自分第一主義に変わったのもある。
従来の自分の考えでは、"他人=自分を写す鏡、つまりは自分自身を形作る境界線"といった認識から他人に自分どう写っているか重要で、他人が思う自分の像がどこまでも自分であった。
でもこの考え方は苦しい。とても苦しかった。他人に嫌われたら終わり。常に他人に良い顔してなきゃいけない。そんな無意識下での抑制が自分という存在をどこまでも窮屈にしていたのだろう。

「他人にどう思われようが関係ない。自分が幸せであればそれで良い。」そう思えるようになったのはある意味思春期からの脱出で、少し寂しい気もするが、ずいぶん生きやすくなった。
もちろんそう容易く他人に嫌われたくはないから自分を犠牲にする部分はまだまだあるが、「別に怒られても良いからちょっとサボらせてもらおう」みたいなことが少しずつ出来るようになってきた。そうして空いた時間を自分の心のケアに使うのだ。好きなことをしたり、はたまた何も考えずにぼーっとした時間を過ごしたり。

え、まってまってなんの話だったっけ?

そうそう自分=メディアって話だった。まぁ言いたいことは大体言ったと思う。自分を発信することって楽しい!最近そう思ております。いや、恥ずかしいけどね!

卒業制作のプロット。来週中にはちゃんと詰めないとなぁ…。なんか今までの自分に一区切りつけるような、そんな内容になりそうです。

作ろうとしている作品に対して先に喋りすぎると、そこで勝手に消化された気がして作る気失せちゃったり、まだ未完成な部分が多い時に話すもんだから痛いところ突かれた返事が返ってきたりと、制作にとって良いことはひとつもないので、今回こればかりは作り上げるまで黙っとこうかなと思います。
(今から勉強するぞー!って呟いたらなんか勉強した気になってその後何もしてなかった…みたいな現象ですよね。あるある。)

今回も長くなったし話が逸れまくったけど、日記が3日坊主にならなくて良かった良かった。
しかし一度書いちゃうと手が止められなくなって気づいたら1時間とか書いてるんだよなぁ…。
もう2時半だし。
明日も早起き。早く寝なきゃ。
では今日はこの辺で…。

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