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チッソ水銀事件 置き去りにされた水俣病の被害者

環境省が被害者のマイクを切った

私はこれまで水俣について書こうと思いながら何十年も書けずにいました。私が熊本から遠く離れた東京生まれ東京育ちで、住んだこともないよそ者が軽々しくこの問題に触れ意見など述べる資格などないのではと気おくれしていたからです。しかし思わぬ形で決意を固める時が訪れました。
水俣病公式確認68年となる2024年5月1日に行われた被害者の声を聞く会で、環境省側がマイクの音量を切ったのです。それは被害者団体の男性が亡くなった妻とのことを語っている最中でした。
男性「水銀を垂れ流さなかったら、こういうことにはならんかったがね…と私はいつも家内と話していました」
環境省「話をおまとめください」 
「妻が…妻が…」話を続けようとする男性の声は無情にも遮られたのです。 環境省の説明によりますと一人3分の時間制限を超えたからということでしたが、被害者側に時間制限3分という事前の説明はありませんでした。

通常の水俣病被害者との会合が開かれたという内容であれば、民放テレビ局が全国ネット枠で放送することはあまりないと思います。ところが皮肉なことに環境省のマイクOFFという行為によって、被害者の声が全国に届くことになりました。環境大臣が取材カメラの前で謝罪したのは会合の7日後、マイクOFF問題が大きく報道されてからでした。
環境大臣「水俣病は環境省が生まれた原点。環境省の大臣として、いかに大切に思っているかお伝えしたい。3分で伝えきれなかったことがあると思うので、ゆっくり話を伺えればと考えている」
環境省は翌月あらためて被害者の話を聞く会を設けましたが、具体的な要望に対して「検討する」などと解決には程遠い回答ばかりでした。

置き去りにされた被害者

水俣病はチッソの水俣工場から排出されたメチル水銀化合物による中毒性の神経疾患です。工場で製造していたのはプラスチックなどの原料になるアセトアルデヒドです。高度成長期に安くて軽量なプラスチック製品は大量生産され、多くの消費者はその恩恵を受けました。しかし環境汚染に対する知識はまだ一般的にも乏しく工場は有害な物質を排出し続けたのです。そして汚染された魚介類を日常的に多く摂取した人々が被害にあいました。新潟の阿賀野川流域でも昭和電工による排水で新潟水俣病が発生しています。
公害病の被害者を置き去りにする行為は今回の環境省に限ったことではありません。
1959年 チッソはまだ工場の排水が原因と正式に認定される前に、“見舞金”という形式で患者に支払う契約を締結しました。その条件は「将来水俣病がチッソの工場排水に起因することが決定した場合においても新たな 補償金の要求は一切行わないものとする」という内容でした。漁業で生計を立てていた人々への生活補償、行政や自治体による実態把握は発生当初から進まず、さらに差別が被害者が声を上げにくい状況を作り出し問題を複雑にしてきました。

不知火海に思いを寄せて

私が水俣に思いを寄せる個人的な理由に少しお付き合いください。 私の父は鹿児島県出水町、現在の出水市で生まれました。父の妹と弟は熊本県葦北郡水俣町の生まれなので、しばらく水俣で暮らしていた時期があったようです。出水から国道3号線を北上して小さな川を越えるとすぐに水俣です。地図上には県境があっても陸や海はつながっているのですから人々の暮らしもつながっています。
父の生家は漁業ではありませんが、祖母は集落で寄り合って魚獲りや田畑仕事、養蜂などの手伝いをして働いたと話していました。不知火海を囲む地には自然の恩恵を分け合う豊かな暮らしがあったのでしょう。
1945年、日本が戦争に負けてすぐ私の父は上京したそうです。祖母も父の後を追って弟妹を連れて東京に出てきました。戦後すぐに祖父が他界したためで、女手ひとつで子どもを養うのは厳しかったのでしょう。
私が生まれたのは1964年。両親は共働きでしたので、幼い頃から祖母に面倒を見てもらっていました。ある年お歳暮で我が家に生きた海老が届いたことがありました。箱を開けるとおがくずの中から生きた海老が飛び出してしまいました。都会育ちの母と私は海老が怖くて手が出ません。ところが祖母は「これはごちそうじゃ」とにこにこしながら跳ね回る海老をはっしと掴んで素早く竹串を打ち込み、あっという間に仕込みを終えてしまいました。海辺の暮らしを身近に感じた瞬間でした。縄でくくって干した海老は正月など特別な宴の料理だそうです。祖母も父も魚の食べ方がとても上手で、食べ終わった皿には骨格標本のようにきれいに骨が並んでいたものです。
魚の数え唄や田植え唄、豊作の踊り、歌うような節回しで話す祖母のおとぎ話。もっとたくさん聞いておけばよかったといまも時々思い出すのです。

祖母の目は怒りが満ちていた

私が水俣を強く意識したのはまだ小学校にあがる前の頃だったと記憶しています。日本は高度経済成長期で公害病が深刻な社会問題になっていました。
当時のテレビはまだ白黒のブラウン管で、いつもニコニコ明るい祖母がミナマタのニュースを見て怒ったようにつぶやきました。
「水俣の海はきれいなんじゃ」
膝の上でこぶしを握りしめた祖母の目には、怒りが満ちていました。
チッソ工場の排水口から流れる汚水、海辺の死んだ魚。病院のベッドで震えが止まらず苦しむ患者。 きっと祖母は一緒に魚や貝やドジョウを獲った人たち、近隣の家族やたくさんの懐かしい顔が浮かんだのではないでしょうか。
「わしはまいんち水俣の魚たんと食べたから丈夫なんじゃ、このとおりシャンとしとる。そら魚のおかげじゃ。水俣はあんなきたない海じゃない」
生まれ育った故郷の海が『死の海』だとは認めたくなかったのでしょう。
祖母の目に浮かんだ怒りと悲しみの色は幼かった私の心に深く刻まれて今も忘れることはできません。

50歳で私は挫折した

2014年、私は一時的に関わっていたテレビ番組で水俣に関する企画書を出しました。その年に開かれる水銀に関する世界会議を前に、環境大臣や関係者をゲストに招き水銀の規制や水俣病の現状について討論するという内容でした。その番組企画会議でのこと。
番組責任者「水俣病ね、これ視聴者は見たくないんじゃない?なんか手とかこんな震えちゃってさ いや被害者の人はかわいそうだけどね」
私は頭に血が上ってすぐには言葉が出ませんでした。その時メンバーの一人が援護してくれたのです。
「天皇陛下はことし歌会始の儀で水俣について詠まれましたよね。去年の秋に両陛下が水俣を訪問されて被害者の方と直接会っていらっしゃる。そういう意味でも視聴者の関心はあると思いますよ」
番組責任者は「見たくないんじゃない?視聴者は」と繰り返しました。
「はいじゃあ次の企画案いきましょうか」
進行役のプロデューサーは目を伏せたまま言いました。
視聴者のせいにしたけれど、あなたが見たくない、やりたくないだけでしょう…とは言えなかった。自分自身の弱さが悔しくて、私は席を立つこともできず拳を握りしめました。
 ばあちゃん、わたしはもう大人になったのに50歳にもなったのに、ミナマタはまだ終わっていない。水俣のひとを困らせて。だあれも責任を取らない。わたしはテレビの中でニュースの仕事をしているのに何も力になれない。それでも怒ることもできないダメな大人になって、ばあちゃんを悲しませるやつらと同じような大人になってしまった。

世界に発信するメッセージ

水銀による汚染は発展途上国でも深刻な問題になっていて、日本の水俣は水銀による健康被害、経済発展と環境、行政の取り組みといった様々な面で世界の研究者に注目されています。
2013年10月に熊本市水俣市で水銀汚染に関する国際的な会議が開催され、国際条約の名称が「水銀に関する水俣条約」に決定しました。
“Minamata Convention“と水俣の地名が使われている理由について環境省の概要には次のように書かれています。
“水俣病と同じような健康被害や環境破壊を繰り返してはならないという決意…今の水俣市をアピールする”
しかし条約に“Minamata”という地名を入れることには水俣市の関係者をはじめ多くの反対意見がありました。私もこの水俣条約の名称には嫌悪の気持ちしかありません。
そもそも“水俣病”の名称はいつから誰が使用し始めたのでしょうか。
当初は原因もわからず「奇病」などと呼ばれていましたが、大学の研究者などが水俣奇病、水俣病などの名称を使い始めます。そして1958年に水俣病という言葉がマスコミに定着したそうです。 水俣病の原因はチッソ水俣工場の排水ですから水俣市に被害者が多いのは確かな事実ですが、排水は海に流出して周囲に広がったため天草や鹿児島県の出水市などでも発症が確認されています。被害は水俣市だけに限ったことではないのです。
私は日本の「水俣病」という名称そのものを変えてほしいと考えています。 新潟水俣病に関しては“新潟”と“水俣”の地名まで合わせて使われているのです。歴史上最悪のチッソによる公害病は水俣市民のせいではないのです。代償を水俣市民に背負わせてはいけない。故郷を離れて暮らす人も臆することなく水俣で育ったと言える日が来るようにしたいのです。
公害病とは少し違いますが、ハンセン病の損害賠償のケースでは国が控訴を断念して病気の名称も変更出来た実績があります。損害賠償や補償の問題を解決して水俣病の名称を変えることは不可能ではないはずです。

患者認定のタイムリミット

水俣病の患者認定は医学的な神経疾患の診断の他に、住んでいた地域と期間、どのくらい魚を食べたかなどの社会行動学的な面など細かい基準があります。しかし居住地域と期間を点で表しただけでは分からない、人々の交流や生活実態は見えない部分があると思います。医療、補償、環境、あらゆる分野で、政府自治体、企業、研究者が協力しなければ被害の実態は立証が難しいでしょう。
しかし現実に行われていることといったら国は被害者の声も聞かず、救済法とは名ばかりの特別措置法で切り捨て置き去りにしているのです。水俣病の公式確認から68年ですから母親のお腹の中で水銀に曝露した胎児性患者もすでに高齢で、残された時間はわずかです。
患者と認定されずに苦しみ抜いて死んでいった者たち。
この世に生まれることもなく、母の胎内で消えていった命もいくつあったことか数えることさえもできないのです。
環境省は“マイクOFF”の後いかにして被害者に向き合っていくのか。2年以内に開始するという健康調査は被害者団体が反発していますし、医療の専門家からも否定的な意見があがっています。
水俣から遠く離れた東京で出来ることは何があるのでしょう。いまの私にはメッセージを発信し続けることくらいしか思いつかないのですが、水俣の今後をしっかり見つめ続けるつもりです。

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